第493話 パンデモニウム

 ピィッ! ピィッ! ピイッ! ピィッ――!


 けたたましい警報が、地下通路中に折り重なるように響き渡った。兵士たちが各自装備している線量計サーベイメーターが発する、恐ろしい死の警告音だ。


 咄嗟にNBC防護の指示を部隊に発した士郎は、密閉された完全被覆鉄帽フルフェイスアーマーの中の画像生成装置イルミネーターに表示されている、一帯の放射線量を確認する。

 すると、普段は何の変哲もない緑色のデジタルメーター枠線が、真っ赤な警報色表示に変わっていた。それは、高濃度放射線汚染地帯である立入禁止区域PAZでさえそうそう見られない現象だ。

 その赤枠内に表示されている数値は――


 は……850シーベルト!?

 そんな馬鹿な――!


 それは、途方もない放射線量だったが、数値はなおもクルクルと上昇を続けていた。じきに1,000を突破しそうな勢いだ。


 通常、人間が自然界から受ける自然放射線量は、一年間でせいぜい2.4シーベルトと言われている。しかも、それは一年間365日かけて少しずつ浴びる量だ。


 つまり、この850シーベルトというのは、実にその35万倍以上の数値ということだ。それほどの高濃度放射線が、一瞬にしてこの地下通路一帯に充満したというのか――!?


 だとするとそれは当然、普通の人間にとって即死レベルの致死量となる。士郎たちの司令部侵入を拒む李軍リージュンたちが仕掛けた、放射線撒布に違いなかった。まさに手段を選ばない、なりふり構わぬ非人道的攻撃だ。


 一般論として言えば、人間は短時間に1シーベルトを浴びると、急激な吐き気をもよおすとされている。これが2から5シーベルトになると、頭髪が抜けるなど目に見える状態悪化が始まる。


 さらに、この辺りから死亡者が必ず出てくる。2シーベルト浴びると、たとえば一個小隊30名のうち、1名か2名は必ず死亡。4シーベルトで半数の15名が死亡だ。つまり、この時点で致死率DLは約50パーセント。

 そして7シーベルトを浴びるとDL100パーセントだ。一個小隊30名全員が、死に至る。


 ただし、これは「即死」という意味ではない。ご存知の通り、放射線の人体への影響というのは、主に遺伝子や細胞に対する損傷だからだ。


 生物の身体というのは常に新陳代謝している。古い細胞が死に、その代わりに新しい細胞が生まれて古いものと置き換わっているわけだ。たとえば人間の場合は、およそ3週間で全身の細胞が生まれ変わるというサイクルを繰り返している。


 ところが、強い放射線を浴びると、この細胞の新陳代謝が停止してしまう。放射線によって細胞が傷つけられ、新陳代謝をせよという遺伝子の命令が無効化されてしまうのだ。


 だから、強い放射線を浴びた人間の症状悪化は「時間差」でやってくる。

 最初の数日間は健常者と何も変わらないが、これが一週間経ち、10日経つと、あからさまに様子がおかしくなってくる。


 最初に気付くのは皮膚組織の変化だ。皮膚細胞は、人間の体の中で最も新陳代謝が早いからだ。

 本来であれば常に新しい皮膚と入れ替わっていくはずのものが、古くなったものがすべてボロボロと剥離するだけとなり、二度と元に戻らなくなる。そのうち人体は皮膚という皮膚を失って、その下の脂肪や筋肉が剥き出しになる。

 同様に、新陳代謝速度の比較的早い腸管なども早い段階で壊死してしまう。被曝者は、大量の吐血と下血を繰り返すようになる。この時点で、消化器系はほぼアウトだ。


 そのうち全身の血管細胞もボロボロになる。古いホースのようにあちこちに穴が開き、千切れ、裂け、全身の穴という穴、ありとあらゆる部位から大量の血液が染み出してくるのだ。

 この頃にはもちろん筋肉も崩壊している。筋肉といっても、運動するための随意筋だけでなく、心臓やその他内臓を構成する不随意筋も含めてだから、ここまでくるとまるで煮込み過ぎた肉のように人体はグズグズになっていく。


 これが急性放射線障害の恐ろしいところだ。


 そうやって少しずつ少しずつ人体は壊死していく。やがてその全身はドロドロになり、人は生きながらにして形象崩壊し、朽ち果てていく。


 いっぽうそんな身体になっても、新陳代謝の一番遅い神経系の細胞は最後まで正常だ。つまり、脳をはじめとして全身に張り巡らされた神経細胞は生きているから、地獄のような痛みと苦しみだけは最期まで続く。そうやって途轍もない苦痛を味わいながら、たいていの人間はおよそ1か月で死に至るのだ。


 ただし、これらの症状は7シーベルト以上、数十シーベルトを浴びた場合のものだ。


 今回のように、1,000シーベルトに近い超高濃度放射線を瞬間的に浴びた場合は、先ほど一瞬にして身体がドロドロに崩れ去った兵士のように、即座にその影響が人体に現れる。

 

 今回の場合は、恐らく数秒で脳幹が焼き切れたことだろう。脳も心臓も、人体活動は微弱な電流によって活動しているから、これほど強い電離放射線を浴びたらすべての神経が焼き切れ、それに伴う激しい痙攣や後屈反射などが起きるし、当然発狂症状を呈する。その様相は、ある意味くるみの繰り出す異能に近いものがあるかもしれない。


 もちろん、放射線に直接触れた皮膚などは、まるで火傷したように糜爛びらん症状を示す。それを裏付けるように、先ほどの兵士もまるで沸騰するように皮膚表面が煮えたぎっていた。


 つまり、さっきの不運な兵士たちの死にざまを見る限り、この異常な数値にどうやら間違いはなさそうだった。


『――安全確認!』

『先ほどの2名以外は全員防護完了しましたッ!』


 士郎の問いかけに、田渕が小気味よく答える。いや、しかし例外があった。


 オメガたちは全員、当たり前のようにだったのだ。


 そうか……もともと彼女たちには、放射能耐性があるんだったな――

 士郎はあらためて、彼女たちが特別である理由を実感する。これほどの高濃度放射線を浴びても、何ともないなんて――


 いや……厳密に言うと、彼女たちにも明らかな変化があった。その瞳だ――


 その場にいたオメガたちは全員、例外なくその瞳を青白色に煌めかせていた。それはやっぱり、物質が核分裂反応を起こす時にしか見られないとされる「チェレンコフ光」にそっくりであった。

 暗闇に妖しく光るオメガたちの碧い瞳――

 それがこの高濃度放射線に反応した現象であることは、もはや疑いようがなかった。


 そんなオメガたちを、エヴァンスたち米国人義勇兵は信じられないという驚きの顔で見つめている。アメリカには、オメガのような存在がいないのかな……士郎はふと疑問に思う。

 その時だった。


「――士郎くん! さっきの中国兵が……」


 未来みくの悲痛な声が離れたところから聞こえてくる。いつの間にか、隊列の後ろの様子を見に行っていたらしい。


 その瞬間、士郎はようやく先ほどの中国兵たちのことを思い出した。まさか――


 士郎は、慌てて元来た道を戻っていった。地下通路進入時から、ずっと士郎のそばに寄り添っているくるみも一緒だ。

 ほどなく先ほどの場所に辿り着く。途端――


 士郎の目の前に、阿鼻叫喚の地獄絵図が現出した。


 恐らく百人以上は横たわっていたと思われるその場所は、崩れかけた人体で足の踏み場もないほどドロドロになっていたのだ。

 ある者はその腕を天井に向けてあてどなくまさぐり、またある者はその場でのたうち回って、そのたびに身体の一部が崩れ落ち、でろりべチョリとその肉片を床に撒き散らしていた。身体中が出血でドロドロになっている者もいるし、激しく痙攣を繰り返している者もいる。

 すべて重篤な急性放射線障害の症状だった。


 先行して様子を見に来ていた未来が、彼らの枕元に立って呆然と足許を見下ろしていた。その姿は無力感に打ちひしがれ、今にも倒れてしまいそうだ。やはり強烈な青白光を発する彼女のその瞳が、虚しく中国兵たちを照らし出す。


「酷い……」


 くるみが辛うじて、掠れたような呻き声を上げた。何が酷いって、明らかに彼らの半数近くに、まだ息があったからだ。

 気が付くと、士郎の心臓は、そのあまりにもむごたらしい光景に早鐘を打っていた。ここはまさに、地獄の首都とも称される万魔殿パンデモニウムそのものだった。だが、ここで取り乱すわけにはいかない。指揮官としての責任感だけが、辛うじてギリギリの冷静さを保つ。

 士郎は少しだけ思案し、そしておもむろに田渕を呼び出した。


『曹長……さっきの中国兵たちのところに戻って来てくれ……』

『――了解です』


 ほどなく田渕が顔を出す。と言っても、被覆鉄帽で頭部は完全に遮蔽しているから、彼の素顔が見えるわけではない。それでもこの光景を見て、歴戦の兵士が一瞬たじろいだ様子が見て取れた。


『――これは……中国軍は、自軍の兵士がここにいるのを分かっていて、放射性物質を撒布したんでしょうか……!?』

『あぁ、連中ならやりかねん……それで、曹長――』

『えぇ、分かりました。武士の情けというものです……』


 田渕は、士郎が皆まで言う前に、その命令を理解した。すぐにテキパキと指示を出すと、さらに10人近くの兵士を呼び寄せる。


『中尉、ここは自分たちでやっておきますから、未来さんやくるみさんを連れて、向こうに戻っておいてください』

『……了解した。すまんな……』


 無言で敬礼した田渕は、踵を返すと招集した兵士たちに何やら指示を出し始めた。それを横目で見ながら、くるみと未来に一緒に来るよう促す。背後で兵士たちが銃剣を装着し始めているのがチラリと目に入ったが、彼女たちには黙っておくことにする。

 すると、おもむろに未来が口を開いた。


「――士郎くん……私やっぱり李軍を許せない……」

「わ、私もです士郎さん……」

『あぁ、分かってる……』


 たったそれだけの会話ながら、士郎には未来たちの気持ちが痛いほど伝わってきた。


 クソっ――

 先を急ごう……


  ***


 久遠は、後方でなにやら重大事態が起きているのを自覚しながら、それでも斥候として先を急いでいた。通路はいつの間にか、左右に各種店舗のある一帯に差し掛かる。ここが『八重洲地下街』のいわゆるメインストリートなのだろうか――

 既に動かなくなったエスカレーターを一度下ったから、士郎たちの本隊より少なくとも1フロアはさらに地下に潜ったことになる。


 もちろん、この辺りにも無数の弾痕があるし、天井も崩落してボロボロになっていた。僅かに非常口の小さな電灯だけ点いていて、そのお陰で辺りの様子が辛うじて見える。


 見回すと、店のショーウィンドウのガラスは粉々に砕けているし、店頭に置いてあったと思われる何かのワゴンテーブルも針金細工のようにひしゃげていた。もちろん、もともと店の棚に並んでいたであろう無数の色鮮やかな商品は、床に散乱したりひっくり返っていたりする。

 恐らくかつては、ここもたくさんの人通りで賑わっていたのだろう。だが、今は死の気配が漂うゴーストタウン以外の何物でもない。辺りを不気味な静寂が支配する。


 その時、薄暗がりの中で突然人影が目に入った。すぐ横の、店舗の中だ。


 ――ッ!?


 思わず身構える。慌てずに済んだのは、『不可視化』によって自らの姿が誰にも見られていないことを知っていたからだ。まぁ、どのみち今は丸腰だから、よほどのことがない限り逃げの一手で行こうとは決めていたのだが――


 マネキン……!?


 その人影は、何かのアパレルショップの残骸の影に埋もれていた、マネキンだった。なんだ……おどかさないでよ……


 そう思って久遠は、その薄暗い店舗の中にそっと入っていった。すると――

 マネキンの影に隠れるように、他にも多くの人型の影が目に飛び込んできた。辺りは相変わらず暗いが、目が慣れていたせいで何とかその頭部をじっくりと観察できる。最近のマネキンは、やけに精巧に出来てるんだな……

 久遠は感心するが、よく考えたらドロイドの森崎大尉だって、言われなければ人間と区別がつかないほど精巧な顔つきをしている。マネキンだってそうだよな……と思いながら、その髪をそっと撫でてみた。すると――!


 突然マネキンの頭がグラっと動いたではないか!?


 ひッ――!!


 次の瞬間、マネキンがガサっと大きく動いた。

 え――!!? これ――中国兵だ!!!


 久遠は思わずバッと飛び退いた。もちろん透明化しているから、中国兵からは何も見えていないはずだ。だが、そこで何かの気配がガサっと動いたのは、当然ながら中国兵たちにも歴然と分かったのだろう。

 突然ガバと起き上がったそのマネキン――いや中国兵は、銃口をあちこちに向けながら、険しい顔でしばらく周囲に探りを入れ始めた。それに呼応したのか、潜んでいた他のマネキン――いや中国兵たちも、同じように周囲を警戒し始める。


 こんなところで、マネキンに扮して多数の敵兵が待ち伏せしてる――!


 久遠は、なるべく音を立てないよう、その場からそーっと距離を取って後退した。そしてもう一度通路に戻ると、あらためて周囲のショップを見回す。すると、あちこちの店に、先ほどと同じような人影が潜んでいることにようやく気付く。


 よかった――

 これに気付かずに部隊ごとこの通路に侵入していたら、左右から狙い撃ちされるところだった!


 久遠は、そのまま元来た道を戻る。そしてすぐにゆずりはと合流した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る