第492話 アビス
普通の人間とは比べ物にならない身体能力を持つ久遠が、わざわざ懸垂降下の要領で慎重にロープを伝って地下フロアに降り立ったのは、そのエレベーターシャフトが滅茶苦茶に破壊されていて、多数の突起物や壁のささくれが突き出していたせいだ。
彼女の場合はその異能力で皮膚色素を周囲の風景と完全に同化させることができる。『色素胞』という、本来人間が持たない細胞をその皮膚に持っているからだ。久遠のコードネームが『デビルフィッシュ』なのは、その能力が
だがそのためには、服を着たままではまったく意味をなさない。その能力を最大限発揮するには、殆ど全裸のような恰好で戦場をうろつくしかないのだ。
かつてそのせいで無視できない外傷を負った経験から、今回のエントリーに当たっても、少しでも怪我を負いそうなリスクは避けたかったというわけだ。
『――士郎、無事にB1フロアに降り立ったぞ』
久遠から短い報告が入る。
些細でささやかな発明品だが、今の久遠はある種の“光学迷彩塗料”を塗布した無線機を身に着けている。『
本当はよくSFの世界に登場するポンチョくらいの大きさの光学迷彩ジャケットを開発できればよかったのだが、これを実用化するのは現代の科学力では不可能だ。
その代わりと言ってはなんだが、手の平サイズくらいのモノなら辛うじて実用化に漕ぎつけたというわけだ。まぁ、これも厳密に言うと光学迷彩というよりは、可視光線をほぼ100パーセント吸収する素材というだけのことだ。
これだと、人間の目にはその塗料が塗布された部分は完全に“黒く”見える。ところが、今度は人間の脳がその欠落した小さな部分を勝手に補おうとし始めるせいで、結果的にその部分が周囲の光景の中に塗り込められ、あたかも何もないように見えるだけなのだ。
つまりは、これは厳密に言えば“光学迷彩”などとはとても呼べない代物だ。それでも戦場では十分実用に耐えられるのだから、人間の脳というのは実にいい加減な――というか都合よくできている、とも言えるだろう。
ともあれ、“不可視化能力”を発現させている状態の久遠にとっては、数少ない身につけられる装備品のひとつだった。
『了解だ。慎重に前進してくれ。ブービートラップがあちこちに仕掛けられているかもしれん』
『あぁ、分かっている』
すると今度は
「――じゃあ士郎きゅん、行ってくるね」
楪がふっと横を向いて、士郎に柔らかな視線を送ってくる。楪も、自ら志願して斥候の久遠に追随することを申し出たのだ。
自分の異能が、必ずや彼女の警護に役立つと言って――
バリッ――とオレンジ色の火花がシャフト内でスパークした。一瞬だけその穴の奥が照らし出されるが、殆ど認識出来る暇もなく、再び暗闇に塗り込められる。
楪と士郎はその深い穴の奥を期せずして同時に覗き込み、それからお互いの視線を交わし合った。
「なんだか物語に出てくる
「あぁ、だがすぐに地下フロアに辿り着けると思うから、大丈夫だ。俺もすぐに追いかける」
「うん、じゃあね」
そう言って、楪はトンッと軽く飛び出して、そのままシャフトの中に自由落下していった。ポフッと小さな音がすぐにしたから、一秒もかからずに地下フロアに着地したのだろう。
だが、完全に闇が支配するその穴の中は何も見えなくて、楪はまるで暗闇に飲み込まれたかのようにその姿を掻き消し、そしてそれっきり士郎は彼女を見失う。
二人とも、気を付けろよ――
***
久遠は最初、殆ど手探りのような状態で慎重に前進を始めた。
前進と言っても、それが本当に目的地に向かう正しい方角なのかさえ、正直言うとおぼつかない。ただ、先ほど頭に叩き込んだこの地下空間の3D画像によると、確かこっちの方でいいはず、といった程度のものだ。
地下フロアに降り立つと、最初は真っ暗闇で何も見えなかった。だからまずは心を落ち着けて、しばらく暗闇に目を慣らすためにジッと佇んだのである。すると、数十秒経ってようやく、目の前に大きな地下道が広がっているのが分かったのだ。例の立体地図によると確かここは、東京駅地下街と丸ノ内線を繋ぐ連絡通路だ。
えっと……右だっけ、左だっけ……と思っていたら、急に後ろから声を掛けられる。
「――久遠ちゃん」
「――っ!! ……ってなんだ……ゆずちゃんか!? 脅かすなよ」
久遠はピィンと背筋を伸ばして、後ろを振り返る。その顔が少し引き
楪は、8眼の暗視ゴーグルをバッチリ身に着けていた。久遠が着けたくても着けられないサイズの装備だ。だが、その厳つい装備品は、せっかくの楪の美しい顔立ちを半分隠してしまっている。
久遠が少しだけ怯んだのは、その楪の見た目が、なんだか異形の怪物のように見えたせいだ。暗視ゴーグルのせいで、彼女はまるでこの深い暗黒の洞窟に棲む、獰猛な昆虫か、悪魔の化身のようにすら見えるのだ。
「――私、久遠ちゃんの後ろに着かず離れずの距離でついてくから、安心して?」
「あ、あぁ……悪いな……ではさっそく進もう……」
「うん!」
「…………」
「……どうしたの久遠ちゃん?」
「……スマンゆずちゃん……これ、最初どっち向かえばいいかな……」
目の前のメインストリートは、マップの表示だと一本道だったのだが、実際はすぐ傍に四つ角があった。つまり、前後左右どこにでも行けるようになっていたのだ。
最初からこれかよ――!?
久遠はあの立体地図が、あまり当てにならないことを最初の一歩で思い知らされる。
しかも、最初直感的にこっちが八重洲地下街方向と思われていた通路には、さっそく瓦礫がうず高く積もっていて――というより天井が崩落していて、他の三方向より明らかに進めなくなっている。
楪もそのカオスに気付くと、なるほどと周囲を見回してみた。すると、幸いなことに天井から案内表示が辛うじて垂れ下がっている。
「……えっとねぇ……看板によると、たぶんこっちで合ってるよ」
そう言って楪が示したのは、よりにもよって天井が崩落した方向に続く通路だった。
「――こ、こっちでいいのか?」
「ん……たぶん……」
本当にこっちで合ってるのかな……
久遠は半信半疑ながら、楪の指し示した方向に向かって進んでいく。
だが、じきに崩落の山に突き当たってしまった。
もしかして、この瓦礫を乗り越えていくのか――!?
久遠はしばし山を見上げる。すると、天井近くにまでうず高く積み上がった瓦礫の隙間から、僅かな光がチラッと一瞬漏れたのを、目ざとく見つける。
今のは……何かのデバイスを、一瞬点灯したような明かりだった――
この瓦礫の向こう側に、敵兵がいるのか――!?
あるいは、何か断裂したケーブルか何かがスパークして、一瞬だけ向こう側を照らしただけなのか!?
久遠は思わず振り返って、後方の楪を目で探す。
楪が約束通りそこに膝立ちで待機しているのを確認すると、久遠はおもむろに瓦礫に取り付いて、ゆっくりと山を乗り越えていった。
ころん――
小さな瓦礫が、久遠の登攀によって崩れるが、見た目にはそこには誰もいない。不可視化したままの久遠は、誰にもその存在が見えないのだ。
だからもちろん、彼女の姿は敵兵にも全く見えない。
ようやく瓦礫の頂上を乗り越え、久遠が反対側に回った時のことだった。
その空間には、異様な生臭さが漂っていた。鉄錆のような血の臭いと、
こ……これは――!?
久遠が瓦礫の上から見渡すと、その通路はかなり奥の方までびっしりと、何かで埋め尽くされていた。
中国兵だ――
間違いなかった。そこには、傷ついた中国兵たちが暗闇の中でその身を寄せ合い、足の踏み場もないくらいに横たわっていたのだ。
もしかしてここは、急造の野戦病院なのか――!?
ごくたまに、小さなペンライトのようなものが光った。恐らく仲間の手当てをするため、誰かが手許をほんの少しだけ照らしているのだろう。先ほど一瞬明かりが漏れたのは、このせいだったのか。
久遠は慎重に足場を選びながら、音を立てないようゆっくりと瓦礫を下っていった。
見たところ彼らは、例の“ゾンビ中国兵”とは別の部隊のようだった。寄生虫に感染している様子はない。
そうか――督戦隊……
青山通りから外側の、皇居周辺ブロックのかなり広大なエリアを“戦闘区域”と定めた中国軍は、そこに展開していた数万人以上の多数の中国兵たちを外に出さないために、皇居外周にグルリと督戦隊を配置していたのだ。
その目的はただひとつ。戦闘を放棄して逃げ出そうとする自軍の兵士を銃撃して追い払い、戦闘区域に閉じ込めるためだ。そのまま日本軍もろとも封鎖して真空パックしてしまえば、あとは孤立した皇居を落とすだけだったのだ――
だが、オメガチームの突貫により、督戦隊はその包囲網を呆気なく突破され、そこから先は田渕たち留守番の日本軍との激しい戦闘により、相当数が撃破されたはずだ。
ここにいるのは、そうやって傷つき前線から逃れてきた中国軍督戦隊の兵士たちなのだろう。包帯で手当てされている兵士はまだいい方だった。大半の者は――酷い怪我の者も含めて――そのまま床に打ち捨てられ、半ば放置されている。
特に治療される様子もなく、そうした救護活動をしている衛生兵らしき者も誰もいないところを見ると、ここは野戦病院というよりも、単に負傷兵たちが集まっているだけなのかもしれない。
久遠は無言でそれら兵士たちの間を歩いていく。どの顔も絶望に打ちひしがれ、怯えていた。怪我を手当てするアテもなく、このまま苦しみの中で力尽きるのを待つだけの存在――
その時、微かに声が聞こえてくる。
「……殺してくれ……」
兵士の誰かが、うわ言のように呟いた。だが、そんなささやかな願いさえ、今は叶えてやる者もいない。どの兵士も、虚ろな顔で床をじっと見ているか、天井を眺めているだけだった。
酷い……
久遠は、胸がいっぱいになって元来た道を戻っていく。皮肉だったのは、こんな状況になって初めて、自分は人が死んでいく時の悲しみや絶望を思い知らされたことだ。
オメガとして、敵だろうが味方だろうが、人間を殺戮することを本能としてきた自分が、異なる世界から来た敵兵たちに殺意を抱けなかったことで、初めて命の尊厳を思い知るとは――
ここにいる敵負傷兵たちは、もはや戦う意思がなさそうだった。先ほどの、投降した中国兵たちと同じだ。ならばさっきの
再び瓦礫の山を乗り越えて、久遠は反対側に戻っていった。床に降り立つと、楪が瓦礫のすぐ傍まで来ていた。
「――ゆずちゃん……」
「あ――戻ってきた? 向こう側、どうだった?」
「あ……あぁ……酷いものだ。瀕死の敵兵が足の踏み場もないほど横たわっている……」
その言葉に、楪も心なしか動揺したようだった。
「――で、どうするの?」
楪は、恐る恐る口を開く。すると久遠は決然とその顔を上げた……といっても、楪には相変わらず何も見えていないのだが……
「士郎たちを呼ぼう……それで、あの敵兵たちはスルーして、更にその奥へ進むのが良いと思う。もはや彼らには戦う意思はなさそうだ」
「そっか」
ホッとしたような顔を見せた楪は、無線を開く。
***
士郎たち本隊がこの地獄のようなフロアを通り抜けたのは、それから10分も経たない頃だ。
案の定、負傷した中国兵たちは特にそれに抵抗することなく、無気力な目線を送ってきただけだ。通り過ぎる際、たまりかねた一部の兵士たちが、横たわる中国兵たちに応急救護セットや戦闘糧食を置いていったのは、さほど不思議なことではない。
兵士たちの運命は紙一重だ。
もしかしたら、こうなっていたのは自分たちの方かもしれない――そう考えると、哀れな中国兵たちに同情を覚えてしまうのだ。
もちろん多くの仲間たちや一般市民が、コイツらに殺されたことは承知している。それでも敢えて、その仇を討つ気になれないのは、それほど彼らがボロキレのようにうち捨てられていたからだ。この光景で十分だった。
もう、お前たちの戦争は終わったんだ――
だが――
兵士たちの思いやりが通じたのはここまでだった。瀕死の中国兵たちが延々と横たわるその通路を本隊が通り抜けた、まさにその瞬間だった。
列の最後尾を歩いていた特戦群兵士の一人が、急に異変を来したのである。
「――う……うぉ! うわぁッ! うわぁぁッ!!」
「何だ!? どうしたッ!?」
一同が振り向いて、その兵士を凝視した瞬間だった。
突如としてその兵士の顔が、まるで蝋人形が高熱で溶けるかのように、ドロドロに崩れたのである――!
次の瞬間、誰かが大声で叫んだ。
「――放射能警報ッ! 高濃度の放射線が急速に拡大中ッ!!」
ピィッ! ピィッ! ピイッ! ピィッ――!
国防軍兵士たちが標準装備しているサーベイメーターが、狂ったようにあちこちで警告音を発し始めた。
「全員直ちにNBC防護ッ!!」
士郎は叫ぶと、完全被覆鉄帽を慌てて被り、バイザーを完全に閉じて密閉する。
「ぎゃあァァッ――!!」
装着が遅れた兵士が一人、またもや犠牲になる。彼は防爆スーツの袖を半分めくり上げていたのだ。その腕の皮膚表面には、見る間に半球状の突起が膨れ上がったかと思うと、すぐにそれが弾けて皮膚が崩壊した。見る間に剥き出しになった筋肉がグズグズに溶解していく。
これは……明らかに即死量を上回る放射線被曝だ――!
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