第472話 ゲノムの聖痕
「――人間というのは、極めて好戦的な種族です。自分たちのコミュニティ内では仲間意識が非常に強いくせに、一歩外に出ると途端に攻撃してくる。自分たちに似た存在も攻撃するし、自分たちとは異なる存在も許容しない。これは
そうだ――
だから人間は、同じ人間同士でも肌の色が違うとか宗教が違うというだけの些細な理由で、恐ろしいほど残虐に相手を排除しようとするのだ。
それは国家同士、人種同士というマクロなレベルから、学校やクラス、会社など小さなレベルまで、人間社会全体の、あらゆる階層のコミュニティに蔓延している。
いじめという問題がなくならないのも、基本的には人間の本能が為せる業だ。
人はどうしても、自分が所属するコミュニティにおいて自らの優越性を確保しておきたい動物なのだ。他者を攻撃するのは、その優越性――もっと厳密に言えば“自分の遺伝子の優秀さ”――を誇示するための行為に他ならない。要はサル山のマウンティングと一緒だ。
そうしておかないと、逆に自分がコミュニティの中ですぐに「弱者」あるいは「不要者」の烙印を押されてしまう。そして最終的には、そこから排除されてしまうのだ。
「弱者」の末路は悲惨だ。コミュニティから切り離されると、もともと群れて生活する本能を持つ人間という動物は、まともに生きていくことができない。
だから人間はみな、必死で自分のコミュニティにしがみつこうとする。そのコミュニティに引き続き所属出来るのならば、少々の理不尽には目を瞑る。コミュニティの大多数が「アレを攻撃せよ」と主張したら、自分も同調せざるを得ない。
「……ですが、それだと困るのです。シリウスの民が地球に来た時に、地球の覇者である人間がそれを受け入れてくれないという事態になりかねない……」
広美は少し悲しげな視線を一同に送った。
「――だから……『思いやり遺伝子』を植え付けたというのか……」
「そうです。残念ながらネアンデルターレンシスは、ホモ・サピエンスとの生存競争に負けてしまいました。ですが、彼らの持っていた遺伝子には非常に優れていた点も多かった。特にそのコミュニケーション能力……彼らは
それは、叶が以前指摘していたこととまったく同じである。ネアンデルターレンシスの脳容量が現生人類のそれより遥かに大きかった理由は、ひとえにこの精神感応を行う大脳新皮質のある部分を肥大化させていった結果であると――
「――やはり我々は、勝ち残ってはいけなかったのでしょうか……」
「……まぁ、それは見方によるでしょう。ホモ・サピエンスは非常に凶暴で、争いばかり繰り返しているけれど、同時に高いレベルの知性をコミュニティ全体に共有することができました。その結果、人間社会には秩序が生まれ、剥き出しの本能を抑える理性が身についていったのです。神――シリウス人がホモ・サピエンスを買ったのも、まさにその部分です。
人間は、野生生物と同じなのかよ……
士郎は少しだけ無力感に襲われる。まぁ、今こうして中国軍が我が国を侵略しているのだって、獰猛な肉食獣が獲物を襲っているのと何ら変わらない。人間社会は、今だって変わらず弱肉強食の世界なのだ。
「――さて、神々はそのネアンデルターレンシスの『思いやり遺伝子』をホモ・サピエンスに組み込むにあたり、それを敢えて性染色体の、しかもより攻撃性の顕著だったオスのY染色体に発現するよう、操作しました。こうすれば『思いやり遺伝子』は確実に次世代に引き継がれます。一般的な部位にそれを組み込むと、世代を重ねるごとにその突然変異が淘汰されてしまう恐れがあったからです」
「確実性を求めた……ってことですね」
「えぇ、そして見事に、その子孫は世界中に散らばっていきました。それがあなたたち日本人であり、原ユダヤ人であるスファラディムなのです。チベットやシリアなどに残るYAPの継承者は、グレートジャーニーの過程で各地に取り残された、いわば生き残りということになります」
「グレートジャーニーって?」
「グレートジャーニーっていうのは、アフリカ発祥の人類が地球全体にその棲息圏を広げていく過程のことだ。所詮地球の外周なんて4万6千キロしかないからな……人間が時速3キロのゆっくりした速度で歩いたって、一度も休まず連続して歩き続ければたかだか数年で地球なんて一周しちまう。ま、実際は山あり谷あり海ありだし、いろんな外敵や気候が行く手を阻んだだろうから、実際のところは数百年、世代としては20世代くらいをかけて人間は地球全体に広まったんだ」
「そう考えると、地球って案外狭いのだな……」
久遠が感心したように呟く。そう――地球は、人間が考えるよりも遥かに小さな天体なのだ。
「――もうお分かりですね!?」
「あ……!」
そうか――
シリウス人は、自らを受け入れる“思いやり”を持った人類をホモ・サピエンス社会の中に投入することで、
「――それはまさに、神々が人間の遺伝子に施した刻印――ゲノムの聖痕なのです。この聖痕を守り切れないということは、人類がその凶暴性を排除できなかったことを意味する……つまり、育成の失敗です」
「だから……そうなった場合は人類を一旦滅ぼして、もう一度やり直さなければならない――」
士郎は呻くように呟いた。
つまり――日本と中国が戦争しているということは、決してただの局地戦ではないのだ。それは人類の存在価値そのものを見極める、最終決戦――
「……で、でも……日本人だって決して褒められたものじゃありません。事実、日本社会でも多くのいじめや裏切り、
未来が食い下がる。
彼女の言う通りだった。『思いやり遺伝子』を持つ種族であるにもかかわらず、日本人は今までも、大きな過ちを何度も繰り返してきた。それはむしろ、他のYAP遺伝子を持たない人々より悪質なのではないか……!?
「――そうして自己反省できること自体が、あなたたちの良いところなのです。まさにYAP遺伝子のなせるわざ……思いやりの心が生み出す、他者へのいたわりなのです」
「そういえば……日本人はすぐ謝る、と言われているのです」
亜紀乃がポツリと言った。
「えぇ、そうですね。そして日本人は、怒りの導火線に火が点きにくい。さらに、災害が起きた時の他者へのいたわり、秩序、自己犠牲には特筆すべきものがあります」
「でも……僅か数十年前、隣国を滅ぼしました……」
「それは、自らへの理不尽な攻撃に抗った結果です。日本人が一旦怒ると手が付けられない理由をご存知ですか?」
「……」
「――それはまさに、神々がせっかく植え付けたYAP遺伝子を保存するための、自己防衛本能なのです。“思いやり”と“お人好し”はまったく別物です。どんなに相手への共感力が優れていても、自らを攻撃してくる相手にまでその命を黙って差し出すようなお人好しでは、すぐに滅亡してしまいますからね。それは生物本来の持つ生存本能に反します。自分からは手を出さない、ただし自分を攻撃してくる相手は徹底的に排除する。このメンタリティこそが、神々が求めるものだったのです」
「……じゃ、じゃあ……私たちは、間違ってなかったと……」
「こう言い換えましょう。自分の大切な人を守るために、その障害を排除する――それはまさに、その大切な人への思いやりとは言えませんか?」
その時久遠が、はたと気付いたような顔をする。
「――そ、そうだ……そういえば、もうひとつの思いやり集団……えと、ユダヤ人――」
「スファラディムですね?」
「そう! そのスファラディムもいるではないか!? 日本人の存亡だけで世界人類の運命が決まるというのは――」
「今回の文明において、ユダヤ人は何度となく滅ぼされているではありませんか」
「え……」
「それはキリスト教の聖書にもしっかりと記録されていることです。もともと彼らスファラディムは、エジプト王朝において奴隷の身分に虐げられていた……かの有名な『出エジプト記』は、奴隷だった彼らが自由を求めて逃げ延びる物語です。その後も彼らの苦難は続き……業を煮やした神々はついに一度、人間を滅ぼしてしまいました」
「ノアの大洪水……」
「えぇ、そうやって中東からヨーロッパ一帯の人間を一旦リセットし、再びユダヤ人が住みやすい環境を作ってやったにも関わらず、僅かに生き延びた人間たちは再度ユダヤ人の弾圧を始めました。これは人間の持つ他者排除の本能以外の何物でもありません。その後の彼らの運命はご存知でしょう? 流浪の民……ホロコースト……今やスファラディムは数えるほどしか生存していません」
「でもイスラエルは――」
「あれはアシュケナジーの民です。彼らはいわば名目上のユダヤ人……YAP遺伝子は保持していません」
そうなのだ――
「ユダヤ人」という名称は、ユダヤ教を信仰している者なら誰でも名乗ることができる。生物学的な意味での本当のユダヤ人、聖書に出てくるユダヤ人とは、有色人種であるスファラディムだけなのだ。その彼らは、ユダヤ国家であるはずのイスラエル国内ですら、未だに差別と弾圧の対象だ。
「――じゃあやっぱり……今やYAP遺伝子の正統後継者って……」
「えぇ、他の地域に散逸したごく少数の人々を除けば、日本人しか残っていないと言っても過言ではないでしょう」
その時、先ほどから床に倒れて気を失っていたミーシャが、突然ガタガタと痙攣を始めた。
「ミーシャくんッ!?」
「ミーシャッ!!」
ブヒュッ――!
彼の胴体から、突如としてカニのような脚が一本突き出してきたのはその時だ。
「あぁッ!! ごめんなさいミーシャくん――絶対に助けるからね……」
『おい娘よ!?』
ずっと押し黙ったままだったウズメが、唐突に未来に話しかける。未来はキッとウズメを見上げると、押し黙ったまま神さまを睨みつけた。
『――そう怖い顔をするでない。おぬし、この異形に成り果てた男を救いたいか!?』
「も……もちろんです!」
『そこのもう一人はどうじゃ!?』
もう一人というのは、先に異形化していたスフバートル中校のことだ。脚を二本も切断されて、今や力なくうずくまっている。
「この人だって同じです!」
『こやつはおぬしたちの敵、中国軍の兵士だぞ?』
「そんなの関係ありません……この人も多分、好きでこんな姿になったわけじゃないから――」
『ほぅ……もはや殺したいとは思わんのか……』
チューランは、イスルギワクチンを接種しているわけではない。だから本来は、オメガに殺戮される運命のはずだし、オメガたちもそれを何の疑いもなく実行するだろう。それがオメガの本能だ。だが――
「え……えぇ……はい。殺しません……この人も、ミーシャと同じように助けます!」
未来は、この宮殿で彼らを見た時から、ずっとそう言っているではないか――という顔をする。ウズメはニヤリと笑った。
『ふむ……タタラよ。どうやらそちの言うことにも一理ありそうじゃな』
「は……はいッ! ありがとうございますッ!!」
「え……どういう……」
未来たちは、困惑して神さまたちを見上げる。
『神々がおぬしたちに施した聖痕は、“思いやり遺伝子”だけではない。同時に、自己破壊の本能も刻み込んだのじゃ。それがシリウスの掟でもある』
自己破壊――!?
オメガの殺戮本能のことか――!!
そうか……神は常に物事を対比させていたのだったな――
一にして全、アルファにしてオメガ、そして……思いやりと殺戮――オメガは、人類の攻撃本能を抑えつけるためのYAP遺伝子と対をなす、究極の自己破壊プログラムなのだ。人類を制御しきれなくなった時の、いわば安全装置――キルスイッチ。
そのオメガが、殺戮対象への殺意を放棄するというのは、自らの存在意義の否定……?
いや――
『オメガたちよ――そなたたちは、神々が人間のゲノムに刻んだもうひとつの聖痕じゃ。それが発現した時点で、神の計画は潰えることを意味しておった。じゃが、今この娘は自らの役割に抗った。それは普通ならあり得ないことじゃ。何人も、神の意思には逆らえぬからの……つまり、このことが何を意味するか……そなたたちにはもう分かるじゃろう?』
未来は、他のオメガたちを見回した。みながコクリと頷く。やがて士郎とも目が合い、そして二人は真っ直ぐその視線を絡ませると、お互いに信頼を交わし合った。
「――えぇ、人類はまだ終わりじゃない」
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