第470話 思いやりの出所

 YAP遺伝子――


 繰り返しになるが、ここであらためて説明しておこう。

 これは別名“神の遺伝子”とも呼ばれる、極めて特殊な遺伝子のことだ。なぜ特殊かと言うと、それが人類の特定の人種からしか検出されないものだからだ。

 東アジアでは日本人のみ、他の地域ではイスラエルのユダヤ人とチベット人、ベンガル湾に浮かぶアンダマン島、そしてシリア人など一部のアラブ人にしか見られない。


 それが何を意味しているか、もうお分かりだろう。同じ特徴を持つ遺伝子を持つ人々というのは、一言で言うと「祖先が同じ」なのだ――


 YAP遺伝子のルーツは既に解明されている。今からおよそ6万5千年前に東アフリカのとある集落に棲んでいた一人の男の“Y染色体”に起こった突然変異だ。


 『Y染色体』というのは、人間にとってそもそも特別なものだ。それがいわゆる性染色体と呼ばれるものだからだ。


 人間に限らず、地球上の生物種にはほぼすべて「オス」と「メス」の区別がある。なぜ同じ生物種でこの二つの区別があるかというと、それが生殖――つまり子孫を残すために必要な、生物学的仕組みだからだ。

 オスは精子を体内で生成し、メスの持つ卵子にそれをなんとか埋め込もうとする。そうやって受精することにより、新たな生命――子孫が産まれるわけだ。

 もちろん生殖行為のやり方そのものは、生物種によって大きく異なる。

 たとえば花はおしべとめしべが接触することでそれを達成するし、魚はメスが卵を、オスが精子をそれぞれ水中にぶちまけることで――つまり一旦個体の外の環境下に生殖細胞を解き放つことで授精に至る。

 哺乳類になると、物理的にオスとメスが生殖器を結合させ、オスがメスの胎内に精子を送り込むことで受精するというのが一般的だ。大抵の昆虫もそう。


 もちろん地球上には、こうしたやり方以外で子孫を増やす生物も何割かは存在する。それは大抵「体細胞分裂」と呼ばれる手法で、元の個体が細胞分裂して新たな個体を増やすというものだ。「無性生殖」ともいう。

 ちなみに、メスの持つ卵子からのみ生殖するのは「単為生殖」といってこれとはまったく別物。オスとメスの共同作業で生殖する「有性生殖」の一種、変形版とされるものだ。


 まぁ、こうしたイレギュラーな生殖、というか子孫を増やす行為は、せいぜいイソギンチャクとかクラゲなどの「刺胞動物」やミミズなどの「環形動物」――すなわち生物としては極めて単純で原始的なものが大半だ。もちろん例外はあるが、ここではそれを論ずるものではないので、とりあえず雰囲気だけ知ってもらえればよい。


 つまり何が言いたいかというと、地球上の主だった生物には、基本的には「オス」と「メス」の区別があるということだ。


 で、その「オス」なのか「メス」なのかを明確に結論付けるものがこの「性染色体」と呼ばれるものなのだ。そしてそれには二種類ある。

 「X染色体」と「Y染色体」だ。生物学上のオスかメスかは、この二種類の染色体の組み合わせによって決まる。


 「X染色体」×「X染色体」だとメス、「X染色体」×「Y染色体」であればオスだ。だから人間の染色体を調べれば、女は「XX」、男は「XY」という結果に必ずなる。

 ちなみに「YY」という組み合わせは絶対にない。Y染色体を持つのは男で、男同士では生殖できないからだ。一応言っておく。


 さて、その男女が生殖して子供を産んだとしよう。その子は当然、父親の「XY」と母親の「XX」が受精の際に掛け合わされる。これは、遺伝学の基本中の基本だ。子供は、父母の遺伝子を半分ずつ受け継ぐからだ。

 その結果、父親の「Y染色体」を引き継ぐかどうかで、その子が男の子か女の子かが決まるわけだ。


 もし、6万5千年前の東アフリカの彼が、その「Y染色体」ではなく「X染色体」に変異を発現させていたら、今頃『YAP遺伝子』は跡形もなく消えていたことだろう。

 でも彼は、幸か不幸か自分の持つ二つの性染色体のうち、「Y染色体」の方に突然変異を発現させた。その結果――

 その変異特性は、延々と子孫に引き継がれることになった。なぜならこの「Y染色体」は、寸分の狂いもなく子孫に受け継がれていくからだ。


 さて、このようにヒトのY染色体に存在するそれぞれの特徴を持つ「特定の集団(これを専門用語で「ハプログループ」という)」を系統づけていくことで、ヒトのルーツは系統樹にすることができる。


 人類の祖先(学術上「アダム」と称する)はハプログループ「A」だ。以後アルファベット順にどんどん分岐していって、今やヒトの系統樹は「R」まで存在が確認されている。

 そして最も注目すべき点は、このYAP遺伝子という変異特性を持つ特定の集団は、グループ「D」と「E」――つまり最も古い人類の祖先――アダムに限りなく近い系統にしか存在しないという事実だ。


 とりわけ、日本人はその中でハプログループ「D」を有している者が全体の5割近くに上っており、すなわちYAP遺伝子を引き継ぐ者が極めて多いことが分かっている。


 いっぽう中国人や半島人はほぼ100パーセント近くがグループ「O」に属している。これは人類の系統樹で言うと、実は最後発の「R」と同等クラスタである。すなわち彼らは、最も新しい分岐人種である、と言えるわけだ。

 つまり、同じアジア人で隣国同士、風貌も似通っている日本人と中国人および半島人であるが、遺伝上は極めて遠い存在で、人種的にはまったく異なる存在なのである。


「――それで……そのY染色体に突然変異が定着しないというのは……」


 亜紀乃があらためて広美に訊く。広美はさきほど“通常ではあり得ない場所に存在するのがYAP遺伝子の持つ意義なのだ”とわざわざ念を押したからだ。


「えぇ、つまりですね……遺伝子の突然変異というのは、生物にとって普通は欠点、ハンデになるんです」

「ハンデ!?」

「はい。オメガさんたちの遺伝子変異は、むしろ生物学的に個体を強化する結果となりましたが、普通はそんなことあり得ないんです」

「そうなの?」


 ゆずりはが不思議そうに口を挟む。自分の手の平をにぎにぎしているのは、それが彼女の起爆装置デトネーターとしての恐るべき力を発現させる、いわばトリガーだからだろう。彼女はその手を対象に向けることで、相手の人体破壊を引き起こす。


「――突然変異というのは、いわばなんです。本来そうならなければいけないものが、中途半端なかたちになってしまったイレギュラー……いってしまえば不良品なんです。当然、この設計ミスはさまざまな悪影響を人体に及ぼします。本来人間に備わっているはずの免疫機能がなかったり、身体の一部が欠損したり……そうなると当然、その突然変異を起こした個体は生存が難しくなる。生物としては極めて脆弱になってしまうのが普通なのです」


 それを聞いたオメガたちは、思わず自分と同じ境遇だった無数の仲間たちのことを思い浮かべる。確かに彼女たちも、重い症状に悩まされていた。大半が自身のDNA変異によって身体に重篤な不都合を来し、次々に亡くなっていたという事実だ。

 オメガの6人は、異例中の異例なのだ。


「――ですからこういった個体は本来、子孫を残すことが殆どできない……一代限りの存在なのです。ですがYAP遺伝子は、そういった生物学的な脆弱性を特に発現させることなく、子孫を次々に増やしていった……」

「……だから特別な……遺伝子……」

「そうです。そして最も重要なのは、それが存在する場所がY染色体ということでした」

「えと……必ず子孫に受け継がれる……」

「その通りです。通常人間の親子関係を鑑定する場合、男性はこのY染色体を調べます。女性はミトコンドリアですね。どちらも完全に同じものが親から子へコピーされるからです」

「え? じゃあY染色体に含まれるYAP遺伝子って――」

「えぇ、6万5千年前に変異したYAP遺伝子が、まったく変化することなくそのままのかたちで現代まで受け継がれているんです」


 そうだ――

 それこそが、以前叶が言っていた“遺伝子データ保存説”だ。寸分の違いもなく、完全な形で子孫に受け継がれる遺伝子こそ、どのようなハードディスク、外部記憶デバイスなどよりもよほど完璧なデータ保存場所なのだと……


「えと……それでそのYAP遺伝子は、いったいどういった機能を持っているんですか?」


 未来みくが問い質す。日本人の半数に、その数万年前の遺伝子が完全な形で残っていることは分かった。だが、それはいったいどういう働きをするというのだ!? そこまで大切に受け継いでいかなきゃいけない理由とは――!?


「分かりません――」

「な……!」

「――というのが一般的な見解です」

「え――!? どっち!?」


 そうだ。このYAP遺伝子は、叶少佐いわく“使い道のない、ただのジャンクDNA”なのだ。人間という生物が抱える他の多くのジャンクDNAと同様、このYAP遺伝子もただの宝の持ち腐れだ。

 どんなに特徴的な変異であっても、ただのデッドストックである限り、そのルーツを探ること以外に使い道はない。

 だが、ここから広美は、とてつもない話を始めたのだ――


「――YAP遺伝子は、いわゆるジャンクDNAとされてきました。人間という生物種にとっては、あってもなくても構わない、ただの死蔵された不良品パーツ。現実に、グループDとE以外のハプログループには存在しないし、かといってDとEの人種がそれ以外の人種より特に生物学的に秀でているわけでもない。ですが――」


 広美は一同を見回した。とても強い意志の光が灯った瞳で――


「――ですが、この遺伝子にはある重大な気質を生み出す機能が実はあるのです」

「ある重大な気質――!?」

「……あの……気質って……人間の性格……的な?」


 オメガたちがざわめいた。


「そうです。人間のDNAというのは、別に物理的、身体的特徴を発現させるためだけに備わっているのではありません。その人の性格、振る舞いなど、行動原理や人格に関わるものの形成にも関与しているのです。ですが――」


 広美はここで一呼吸置いた。


「――ですが……いや、だからこそ――その部分の研究はタブーとされてしまい、学術的理解が進んでいないというのが世の中の現状です」

「それって……犯罪性気質の……」


 士郎は呻くように口走った。


「えぇ、その通りです。犯罪性向は親から子へ遺伝するのか!? 犯罪者の子は罪を犯す危険性が高いのか――!?」


 それこそは、まさにタブー中のタブーの話だ。

 人権意識の高まった現代、親が犯罪者だからといって、その子までも犯罪者のような目で見たり、それによって何らかの差別や誹謗中傷をしたりすることは、一般的には厳に慎まれている。親と子は完全に別人格だからだ。

 海外などでは、犯罪者の子孫が犯罪に手を染める統計なども取っていて、その研究結果もきちんと報告されているが、それらのデータはいつしか非公表となった。差別や偏見を助長しかねない、という理由で――


 だが、士郎は逆に思うのだ。それを非公表にすること自体、実際の結果を物語っているではないかと――

 だったら中途半端にタブー視せずに、徹底的に研究し、その結果と善後策を社会全体で共有するべきなのだ。


「……まぁ、犯罪性向のことはともかく、遺伝子には個体の性格という、目に見えない部分の承継機能もあるのです。そして、YAP遺伝子は別名『思いやり遺伝子』とも呼ばれています」

「思いやり……遺伝子――!?」


 一同は、そのあまりにもほのぼのとした名称に思わず笑みを漏らした。


「――思いやりってあの……相手をいたわる、とか優しくする、とか共感する、とか……そういうやつ?」


 楪が興味深そうに喰いついてくる。確かに彼女は、気配り上手、思いやりのある子だ。そういう意味では、士郎の周りの人たちは、たいてい思いやりのある人たちだと……思う。


「えぇ、そうですよ。私はとてもいい呼び名だと思います。だって、そのYAP遺伝子を持つ日本人が、とても思いやりに満ちた素敵な人々だっていうこと、私はよく知っていますから」

「えと……でもそれは、男の人にしかないものなんですよね? だってY染色体は男の人しか受け継がない――」

「それが大事なところなのです。なぜなら、もともと女性にはこの“思いやり”が最初から備わっているからです」

「……そ……そうだよな。うむ、私ももともと優しい人だぞ」


 久遠がなぜだか胸を張る。まぁ、久遠に限らずオメガの子たちはみな優しい子たちだ。


「――冗談抜きで、女性はもともと子育てをする本能があります。実際に子を産み落としたり、その子に授乳する機能が最初から身体に備わっているからです。だから一般的に女性は思いやりがあり、性格も優しい人が多い……これは、子育てには必須の気質です。ところが、男性はそうではありません。生物学的に競争相手を蹴落とし、食糧を得るために他者を攻撃し、自分のコミュニティを守るために戦う。気質的に、男性は最初から攻撃的な存在なのです」

「まぁ……確かにそうかもしれないのです」


 亜紀乃がクールな表情で同意する。とてつもない攻撃力を持つ彼女たちが言うと、どこか現実離れした気持ちになるのは気のせいだろうか……


「ですから、集団コロニーとしての人種が攻撃的かそうでないかは、ひとえにそのコロニーのところが大きいのです。YAP遺伝子は、そういう意味では“平和をもたらす遺伝子”と言っていいかもしれません。オスの攻撃衝動を抑えるわけですから」

「……なるほど……よく分かりました。じゃあ、私たちはラッキーだったんですね。そんな素敵な遺伝子が偶然生まれたおかげで――」


 未来が言いかけたところを、だが広美は遮った。


「――いえ、これは偶然ではありませんよ。です」

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