第468話 人身御供
「――絶対に助けるわ!」
皇居宮殿の中にある『豊明殿』。そこは宮中晩餐会が開かれることで有名な部屋だ。もちろん今は非常時で宮中行事など何もないから、そのだだっ広い部屋の中はがらんどうである。
だが、その中に一歩足を踏み入れると、凄惨な光景が広がっていた。その簡素で優雅な部屋にはあまりにも似つかわしくない、血生臭い光景だ。
そこには、10名近い人間が折り重なるようにして斃れていた。しかも彼らはみな――頭部が欠損しているのだ。それはどう見ても、何かに喰い千切られたとしか思えない損壊だ。
遺体はみな濃緑色の軍服を着ていた。つまり――先ほど宮殿に侵入した、中国兵たちだった。
ただしその惨状の周辺は、それほど汚れているように見えない。普通に考えたら、流出した夥しい血痕やら体液やらによって、それこそグシャグシャになっていてもおかしくはないのだが――
その理由はすぐに分かった。傍に呆然と立ち尽くす、あまりにも異形の男がいたからだ。
男の胴体の左右からは、まるでカニの脚のような節足が何本も突き出している。顔面など剥き出しの皮膚の部分は、甲殻類の甲羅のようなトゲトゲしい外見と化していた。しかも男は先ほどから、その外見をますます醜く変形させつつある。現在進行形で――
もちろん、現時点で既に、男からは人間らしい要素が殆ど消え失せている。恐らく言葉はもはや通じなくなっていて、人間としての知性も残っているかどうか――
つまり――傍の遺体はみな、このカニのバケモノのような異形の男に食い荒らされ、その体液を吸い取られていたのだ。未来たちは、つい先ほどそのおぞましい有様を目の当たりにし、驚愕したばかりだ。
そしてもう一人、今まさにバケモノに変異しかけている男がいた。
ミーシャだ。
元『
ミーシャは、異形のバケモノと化したチューラン・スフバートルが隙を突いて未来を攻撃してきたその瞬間、身を挺して彼女を守ったのだ。
そのせいで彼は恐らく寄生虫『
未来は、そんなミーシャの傍らに寄り添っていた。
「――助けるったって、どうやって!?」
「分からないわ……だけど! ミーシャくんは私を助けようとして――」
「……ま、まぁそりゃあ……じゃあ、せめて助けるのはミーシャだけにしないか!? こっちの方は残念だけどもう……人間じゃなくなってる」
士郎は、もはや人間とは言えないほどバケモノ化が進むチューランを横目に見ながら、何とか未来を宥めようとする。だが、未来は納得しなかった。
「駄目だよ士郎くん……この人も、タスケテって言ってた……望んでこんな姿になったはずはないんだよ!? ミーシャくんも、この人を赦してやってくれって――」
「あぁ! 気持ちは分かるが――でももう手遅れだろ!? 情報部の話でも、一旦この『三屍』に感染したら回復する手段はないって――」
「ウソ……あるよ!」
「そんな駄々っ子みたいな――」
「――あ!」
未来と士郎の口論に、突然亜紀乃が割って入った。思わず毒気を抜かれた二人が、亜紀乃の方を振り返る。
「……ど、どうしたキノ……?」
「そういえば、あの中国人の科学者……『三屍』から回復する手段を持っているかもしれないのです」
「「え!?」」
「だって……
「あっ! そうか――」
久遠が話に割り込んでくる。
「――そう言えばあの男、辟邪を『三屍』に寄生させた後、なんかやってなかったか!?」
その瞬間、確かに士郎もあの時の光景をありありと思い出す。
「――そういえば……」
「じゃあやっぱり! 李軍のところに行けば、この人たち助かるかもしれない!」
未来が色めき立った。縋るような目で、士郎を見つめ返す。
「……わーかった……分かったよ。じゃあ中国軍の司令部に向かうってことでいいな……!?」
この際陛下の警護は、広美に同行したくるみと
未来がガバっとミーシャの肩を抱いた。
「――ミーシャくん! あともう少しだけ頑張って、何とか中国軍司令部の傍まで道案内してくんないかな……どぅ……かな……?」
ミーシャの脇腹付近からは、既に何かが突き出てこようとしていた。未来はそんなミーシャの傍に跪き、申し訳なさそうに頼み込む。
ミーシャは、未来をチラリと見やった。傷の痛みのせいか、その額には玉のような汗が浮かんでいる。
「……ミク……さん……それはあまり……おすすめ……できない……」
「なんで!?」
「だって……ミクさんたち……は……人間を……滅ぼす……者……」
ミーシャの指摘に、未来はクッと唇を噛む。
確かに、先ほどは士郎との悲劇の前世ビジョンを垣間見たこともあって、なんとかアグレッサーモードを抑えることが出来た。だが、それにもまして重要だったと思われるのは、群衆が武器を持って立ち向かってこなかったということだ。その二つの要因があったればこそ、何とか殺戮衝動に打ち克ったのだ……と、思う。
だが、中国兵たちは違う。未来たちオメガを見れば、途轍もない殺意で抗ってくるだろう。そんな状況下で、こんな異形の男と手負いのミーシャを連れ歩きながら、果たして目的を達することができるだろうか!?
「――えっと、でも中国軍はみんな幽世の兵士なんだよね!?」
「そ、それはだいじょう――」
「いえ……司令部の兵士の……問題ではなく……ここにいる……スフ……スフバートル……は……こちらの世界の……人間……」
え――!?
この将校は、『幽世』の中国兵ではないのか!?
「そ……そうなのか!? みんな、この男を知ってるか!?」
士郎は慌てて皆を見回すが、誰もピンと来ている様子はない。ミーシャが苦しい息の下で続ける。
「……か、彼は……元ハル……ビンの……守備隊長……です……」
――!!
初めて聞く話だった。未来の奪還作戦で、士郎たちオメガチームを中心とするオメガ特戦群は、ハルビンで熾烈な攻防戦を繰り広げたのだが、その時の敵側の指揮官が……この男――!?
つまり、彼――スフバートル中校は、こちらの……『
しかも……だとしたら、むしろこの男のほうこそ日本軍に、いや――我々オメガに対し、相当の恨みを抱いているのではないか……と士郎は思い至る。
要するに、男とオメガは、深い因縁を持つ敵同士なのだ。いわば仇敵――
そんな関係性の中で、お互い和解できるとは思えない。たとえ無事に敵心臓部に辿り着いたとしても、スフバートルが司令部の扉を素直に開けてくれるとは、到底思えなかった。
それでも未来は諦めない。
「――えっと……でも、彼にも
「あれは……もともと感染者には……効きません……」
「え!? 効かない!? じゃあ、最初から皇居の市民には……」
士郎は、その事実に今更ながら驚く。あの時――オメガチームが皇居に突入した時――士郎は、群衆に対してまるで殺戮衝動が抑えられず、その青い瞳を爛々と煌めかせていたオメガたちの形相を思い出す。
あの時は、てっきり近衛兵たちが、群衆に甲型弾を撃ち込めていなかった――あるいは、人数が多すぎて、弾薬が足りなかったのかと思っていた。
だが真相は、いくらワクチンを撃ち込んでも、その効果が何もなかった……ということなのだ――
あの時既に、群衆は灼眼の子供たちに噛まれ、『三屍』に感染していたからだ。
「――じゃ、じゃあ今もしこの人が私たちに襲い掛かってきたら……私たち我慢できな――って、ミーシャくん! ミーシャくんッ!?」
見ると、ミーシャは意識を失っていた。
それはそうだ。背中に、腕一本分くらいの太さの鋭い爪脚の先端を突き立てられたままなのだ。今までなんとか意識を保っていたのは、彼の強靭な肉体と精神力のお陰だろう。
失血性ショックでついに意識を失ったか……あるいは『三屍』が彼の脳をついに乗っ取って、その自我を奪おうとしているのか――
いずれにしても、時間切れだった。
司令部の位置を知っているミーシャは意識を失い、そしてその司令部の扉を開けることのできるスフバートルという元ハルビン守備隊長は、既にバケモノ化している――
その時だった――!
ズズズズゥゥゥ――ン!!!!
突如として、地の底から突き上げるような、重く低く、そして心臓を揺さぶるような破壊音が辺り一面に轟いた。ほんの数瞬遅れて、宮殿の建物全体がビリビリと震える。
地震――!?
一瞬、誰もがそう思った。それほどこの衝撃は、まるでそれ自体が意思を持ったように、その場にいる者たちに襲い掛かったのである。
「――うわっ……っとッ!?」
「なにッ!? どうしたのッ!」
「きゃあァァッ!!?」
床に倒れ伏していたミーシャまでもが、衝撃波でガクガクとその傷ついた身体を揺らす。もちろんその意識は依然、失ったままであったが……
バササササッ――と大きな羽音がしたのは、吹上の森に棲む鳥たちが驚いて、一斉に飛び立った音だろうか――
士郎たちは、宮殿の外に出るまでもなく、何やら不穏な空気がこの地一帯を覆い尽くそうとしているのを肌で感じ取る。
クッ――何が起こってる……!?
士郎が、鋭い視線を四方へ送った、その時だった。
皆の目の前に、何やら強烈な存在が広がっていく。それは見る間に霧のように辺りに立ち込めていき、やがて濃密な存在感をあらゆる空間に放ち始めた。やがて、大気がチリッ――パリッ――と放電を始める。
もしかしてこれは……量子の再結合――!?
士郎は思わず未来の方を見る。なぜならそれは――かつて未来が覚醒した時に見せた、あの現象にそっくりだったからだ。物質がその極限――素粒子――にまで分解し、再び実体化していく、あの感覚……
だが、視線の先の未来は、その大きな瞳をカッと見開いて辺りを窺っているだけだった。ならば――
「――え……!? くるみ? かざり……!?」
だが、士郎は思わず声を上げてしまった。
そこには、先ほど二手に分かれて広美の警護を頼んだはずの、くるみと文がいたからだった。いや――正確に言うと、そこに居たのは二人だけではない。というより……
くるみと文は、何かの存在に覆われていた。
つまり――それは言ってしまえば何かゼリーのような、あるいは産み付けられたカエルの卵の周囲を覆う膜のような……あるいは……そう――例えは悪いが寒天のような質感……というのが一番しっくりくるかもしれない。
ともかくその半透明な何かの中に二人が取り込まれ、外側から透けて見えていると言えばいいのだろうか……
彼女たちは、その存在のいわば骨格……というか原子核のように、その中心を形成していたのだ――!!
「ど……どうなって――」
その問いに答えたのは、耳馴染みのある声だった。
『――待たせたようじゃの……』
「――えっ……!? その声は……ウズメ……さま……!?」
いや――だが、そのゼリーがウズメなのではない。彼女はそれとは別に、ぽっかり中空に浮かんでいたからだ。次元を通り抜けた士郎やオメガたちには、ここ『現世』でも十分この神さまの姿が見えるのだ。
「――あ……あのッ……!」
『ん? なんじゃ士郎よ……』
ウズメは、以前にも増して妖艶な姿で、士郎の前にその肢体を惜しげもなく晒す。士郎はゴクリと唾を呑み込んで、ウズメを必死に見つめ返した。何だか身体の芯がムズムズする!
「あ……えと……くるみと……かざりは……!?」
『あぁ――見ての通りじゃ』
「え、えっと……」
戸惑う士郎は、だが次の瞬間、すべてを察することになった。
『――出迎え、大儀である!』
そう言っておぼろげな輪郭を半分実体化させ始めたのは、士郎のよく知る人物――いや、神さまだった。それは神の中の神、幽世の王、
「いや……えっと……い、一度お目にかかりました……
するとオオクニヌシは、そんな士郎を虫ケラでも見るかのように
「えと……くるみと……かざりはいったい……」
――どうなってるのだ!? なぜ半透明ゼリーのオオクニヌシの体内にあの二人がいるのだ――
『おぉ――二人は
え――!? 何言ってんだこの神さま……人身御供って……
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