第464話 未来の決意
この男はいったい何だ――!?
それは明らかに異様な風体だった。一応その見た目は五体満足な人間の身体なのだが、余計なものがくっついている。体幹のちょうど背中よりの脇腹から、左右それぞれ3本ずつの“脚”が突き出ているのだ――!
それは一言で言うと甲殻類のそれだ。例えるなら、カニの脚が人間の胴体から突き出ているような……
“脚”の長さは短いもので1メートルくらい。長いのは優に2メートルほどもあるだろうか。節足類特有の節のある形状で、恐らく本人の意思とは無関係にビクビクと蠢いている。
太さも人間の腕か、あるいは太腿くらいはありそうだ。身体の両サイドからガバっと広がるように突き出たその“脚”のせいで、男はまるで骸骨で出来た翼を背負っているようにも見える――
さらによく見ると、男の顔面にも違和感があった。
一番分かりやすいのは頬の部分だ。その酷いケロイド痕とは別に、男の顔面には何かごつごつしたような……そう――それこそカニの甲羅の一部のような――イボというか細かい突起状の模様が浮き出ているではないか。
人外の……異形……!?
「……あ……あぁぁ……」
男は絹を裂くような、声にならない呻き声を上げた。そして、自分のすぐ傍にうずたかく積み上げられた人間の遺骸を、今さらながら怯えたように見上げる。その状況から見て、この死体の山は明らかに男の仕業のようだった。しかも折り重なる遺体は、どれもこれも頭部がなぜか欠損している――!
未来のこめかみから、嫌な汗がひとしずく垂れた。
「――こ……この人は……いったいどうしちゃったのでしょうか……?」
亜紀乃が、カチャリと長刀を構え直す。
「……分からない……でも、ただごとじゃないね……」
そう言いながら、未来はミーシャの様子をチラリと窺う。彼は、なぜだか悲しそうな顔で未来を黙って見つめ返すだけだ。その時だ――
「ひッ――」
もう一人の、まだ健在だった中国兵がドタッとその場に尻餅をついた。突然追撃の日本兵が現れ、怯んだのか、あるいはこの異形の男に怯えて無意識に後ずさったのか――
兵士は傍の遺骸に足をひっかけたのだ。次の瞬間――
異形の男がバッと向きを変え、その兵士に飛び掛かった。
「ぎゃあァァァッ! やッ……やめてくれッ! もうやめろッ!!」
男は、味方であるはずのその兵士に躍りかかると、その大きな“脚”で兵士を真正面から絡め捕り、強引に抱きすくめた。刹那――
男の口がガバッと開く。
その時点で既に人間が開く口の大きさではない。途端、口の中からもうひとつの口のような、あるいはカメレオンの舌のような形状の何かの塊が、猛烈な勢いで飛び出してきた。
次の瞬間、その“口”は目の前の兵士の顔面――というか頭部を丸ごと呑み込む。
ガリッボリッ――!!
恐ろしい音が響き渡った。兵士は何度も身体をビクつかせ、両手足を激しく痙攣させる。
まさか――喰ってる……のか……!?
その恐ろしい音から察するに、どう考えてもそれは、哀れな兵士の頭部を噛み砕いているものと思われた。
最初激しく抵抗していた兵士の手脚は、数秒後ピクリとも動かなくなる。絶命したのだ――
それでも異形の男は、その頭を咥えたまま離さない。あまりの出来事にオメガたちが声を失っていると、やがて男の喉がゴクゴクと鳴り、喉仏が激しく上下した。
まさか……噛み砕いた頭部を今度は……呑み込んでいる……!? いや……呑み込んでいるのは兵士の体液か……
恐らく滝のように噴き出したであろう兵士の血飛沫は、怪物の口の縁から一切漏れ出てこない――
ゴキュッ……ゴキュッ……
嫌な音が室内に響き渡った。
いったい私たちは、何を目撃しているのだ――!?
オメガたちは、先ほどから何もできずにその場に呆然と立ち尽くしていた。その時僅かに聞こえたのは、果たして誰の声だったのか――
「……タス……ケ……テ……」
声は確かにそう呟いた。それは、頭を噛み砕かれた兵士の最期の言葉だったのか!? あるいは兵士の頭を噛み砕いてしまった男の、心の叫びなのか――!?
いずれにしても、その異形の将校が、この惨事を自ら望んでいなかったことは明らかだった。兵士の頭に噛みついたままの恰好で、彼は目から涙を流していたのである。
しばらくすると、男は兵士からようやくその恐ろしい口を離し、今度はその場でゲェゲェとえづき始めた。喰われた兵士は、他の遺骸の山と同じように、その頭部だけがない状態でその辺に打ち捨てられる。
ゴゲェ……グロロロォ――ゲホッゲホォォ……
異形の男は、激しく嘔吐し始めた。
もはやその顔はいろいろな液体に塗れてグシャグシャだ。涙と鼻水と涎、そして何かドロドロした体液状のもの――先ほど自分が噛み砕いた兵士の頭部から漏れ出た脳漿か、あるいは血液か――
その様子は、まるで呑み過ぎた男が苦しそうに吐いているかのようだ。
「――これってまさか……」
「……感染……ってこと?」
オメガたちは、先ほど全軍に向けて送られてきた「警戒情報」を思い出す。寄生虫が飛沫感染する――という案件だ。
防爆スーツを着ている国防軍にはさして脅威にならないが、そうでない人は感染に十分注意する必要がある……と書かれていたはずだ。
まさかこの中国軍将校は、寄生虫が感染してその症状が発現したのか――!?
無意識に、オメガたちは男から距離を取る。
なにせ彼らは『
だが、だとしてもこの男の場合は、既に感染が確認されている先ほどの群衆よりも酷い症状だ。
確かに群衆たちの行動は、まるでゾンビのようであったが、少なくとも外見は人間のままだった。だが、目の前のこの男は、まるでカニのような脚を胴体から何本も突き出している。その顔面も……その異様な口も……
いったいどういうことだ――!?
感染を繰り返すと『三屍』は巨大化、怪物化、凶悪化するとでもいうのだろうか――
それはまるでインフルエンザウイルスのように、次第に菌が耐性を持つようになって、それまで以上に強力な菌になるようなものなのだろうか……
「……タ……スケ……テ……」
また声が聞こえる。
今度こそ間違いなかった。この男は、助けを求めている……その身の毛もよだつ行動は、自らの意思ではないのだ――!
「みくちゃん、どうするッ!?」
だが、未来は逡巡する。彼は助けを求めている――!
その一瞬の躊躇が、あだとなった。
サクッ――
「――未来ちゃんッ!!」
「みくちゃんッ!?」
あ……
気が付くと、男の“脚”の先端が、未来の胸部に突き刺さって――
いや――
その瞬間、咄嗟に誰かが未来に覆いかぶさっていた。もう一人の中国兵だ――!
男の鋭い“脚”の先端は、その大柄な中国兵の背中に突き立っていた。
――!!
オメガたちは、突然のことに身動きひとつできない。未来に覆いかぶさった兵士が、ガクリと膝をついた。
「――ミーシャくんッ!!」
未来の叫び声で、楪と亜紀乃はようやくビクッと反応する。
「――え……? みくちゃん、この人……」
「うんッ! この人は
未来はくずおれるミーシャを慌てて抱き留めた。
ミーシャは相変わらず寡黙で、痛がる素振りも見せない。だがその背中の傷口からは、見る間に鮮血が噴き零れてくる。
その瞬間、楪と亜紀乃の瞳から、強烈な青白光が迸ったのは言うまでもない。
突然スパン――と綺麗な音がして、彼の背中に突き刺さったままの“脚”が見事に両断された。亜紀乃の一閃だった。
ぎゃあァァッ――という男の叫び声と同時に、今度は楪がその右手をかざす。男の胴体が見る間にボコボコと膨張を始め――
「待ってください……」
ミーシャが掠れた声で制止する。それを見た未来は、何かを察したのか慌てて楪を止めた。楪も、それにビクッと反応して異能の発動を一瞬にして中止する。
すると膨張しかけていた男の身体が、やがて元通りに戻っていく。
「――なんで……え……?」
戸惑いを隠せない楪だが、それは未来も亜紀乃も同じであった。未来は、ミーシャの傷を気にしながらも、困惑の表情で彼を見つめ返す。
「……ミクさん……この人は……
指揮官――!?
そんな高級将校が、なぜ寄生虫に感染するような危険な現場へ……!?
「――だから……この男を生かしておけば……李軍に近付ける……」
――!!
だから、ミーシャくんは男を殺すなと言っているのか――!
未だどこに存在するのか、その位置をまだ特定できていないが、中国軍の司令部がこの近郊にあるのは間違いない。恐らく李軍はその司令部にいるのだろう。そしてこの男はこの作戦の指揮官……司令部に出入りできるIDを持っている、ということなのか。
でも、既にこの男は自我を失っているのでは――!? そんな男を尋問したところで、司令部の位置など吐くわけが……
「ね、ねぇミーシャくん、司令部の位置なら、あなたも分かってるんじゃない? こんな男はさっさと処分して――」
「い……いえ……たとえ司令部に辿り着いても、彼の……生体認証がないと……と、突入……できない……」
「そんなの無理やりこじ開けて――」
「だ……駄目なんです……無理にロックを外すと……すべての感染者が……この人のように……変異すると……」
その時だった――!
ザシュウゥゥ――ッ!!!!
ぎゃあァァァッ――!!!
突然、未来の頭の上で何かが振り抜かれ、けたたましい叫び声が再び辺りに響き渡った。
――――!?
突然のことに驚いた未来が、辺りをキョロキョロと見回す。
「――まったく……気を抜かないでくれよみんなっ!?」
「――だぞっ!」
「士郎くんッ!! 久遠ちゃん!」「士郎きゅん!」「ちゅういっ!?」
そこには、大きく肩で息をする士郎と久遠が立っていた。士郎は右手で持っていた長刀をバシュッと払う。足許には、二本目の“脚”が転がっていた。
いつの間にか、異形の男が未来たちの背後に近寄っていたのだ。すぐ傍で、男が七転八倒していた。楪の異能攻撃が中断されたのをいいことに、未来たちに反撃しようとしたのだろう。
そこに、間一髪士郎たちが駆け付けたというわけだ。
未来は先ほどのミーシャに引き続き、今度は士郎たちに助けられたことになる。未来の集中力が途切れているのは明白で、士郎も駆け付けた瞬間にそれを感じ取っていた。いったい何が――
士郎は、周囲の惨状をざっと見回した。
そして、久遠と楪、そして亜紀乃に、異形の男を警戒して周囲を取り囲むようテキパキと指示を出す。「絶対に――殺すなよ」という念押しを久遠たちにした後、士郎は改めてミーシャに向き直った。
「――ミーシャ君、とにかく今はちょっと横になってくれ。早く治療しないと――」
士郎はミーシャの傍に跪く。まったく、ハルビン以来、彼には助けられてばっかりだ。この『豊明殿』に飛び込んだ瞬間、ミーシャが未来を庇って串刺しにされるのを、士郎は目撃していたのだ。
もし彼が咄嗟にそうしなければ、今頃串刺しになっていたのは未来の方だ。感謝してもしきれなかった。
「……いえ……私はもう……手遅れ……なので……気にしないで――」
「は? 何言ってるのミーシャくんッ!」
「そ、そうだぞ!? これくらいの怪我――」
「私はもう……感染……しています……から……」
どういうことだ――!?
それはやはり、例の「飛沫感染」ということか!? それはすなわち、血液感染もしてしまうということなのか……
ミーシャの怪我は、思いのほか深そうだった。血が……止まらない。
「――どうか……彼を……スフバートル中校を……赦してあげて……」
次第に唇の色がなくなっていくミーシャが、苦しそうに言葉を継ぐ。
「スフバートル……? あの男の名前?」
「……は……い……彼は、自分でも知らないうちに……李軍に……」
それは――要するに『三屍』の感染の危険を知らされないまま、前線に出てきたということなのか!? それとももっと別の意味が……!?
だが、ミーシャは見る間に衰弱していった。突如として大きく咳き込むと、そのまま派手に吐血する。
「――ミーシャくんッ!」
「ミーシャッ!!」
次の瞬間、ボコッと嫌な音がして、ミーシャの胴体の一部が異様に膨らんだ。二人は一瞬楪の方を見るが、彼女が異能を使った様子はない。つまり――これはミーシャの体内から、何かが突き出してこようとしているのだ――
あぁ……
二人は、顔を見合わせる。お互い、いろいろと言いたいことのある顔だった。だが、二人ともグッとそれを抑え、必要十分な言葉だけ紡ぎ出す。ミーシャはプロの戦士なのだ。その彼が今、必死になって伝えようとしているのは……
「――ミーシャくんは、中国軍司令部に突入するにはこの男が必要だって……」
「それはつまり……そこに李軍がいるってことか……」
「うん……」
「だが……こんな異形と化した男を……どうやって……」
二人は頭を抱える。だが、いっぽうでミーシャの身体には容赦なく変化が起き始めていた。
未来は、士郎をキッと見つめると、決然と言い放った。
「――士郎くん! 私、この二人を助けたい!」
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