第463話 宮殿突入

 皇居宮殿というのは、お堀に囲まれた巨大な皇居敷地をおおよそ6:4で縦に割ってその大きな方、つまり西側エリアに位置する建物である。

 ちなみに東側エリアは旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸などがあったところで、現在は『東御苑』と称されている。まぁ普通の屋敷に例えると、ここが前庭に当たると言えばいいだろうか。当たり前だがそれは“前庭”というにはとてつもなく広い。

 現在でも数万人の群衆が押しかけているが、それでもまだまだ余裕があるくらいの広さだ。


 そして西側エリア――つまり旧『西の丸』であるが、ここを称して一般的には『吹上御苑』という。その中心に立地しているのが『御所』すなわち陛下が普段お住まいになっている建物だ。

 宮殿というのはその吹上御所の南側に位置しており、お住まいとは別に陛下がご公務をされるいわば執務棟といったところか。隣接して宮内庁も建っている。


 もちろんここはただの“執務棟”ではない。


 そこには、数えきれないくらいの国家行事、公務を執り行なうための、あらゆる設備が整っている。

 建物自体は地上2階、地下1階の鉄筋コンクリート製。その建物配置はざっくり言うと「ロの字」型なのだが、少しだけ補足すると、その「ロ」の一番上の横棒の上に、もうひとつ小さな「ロ」の字が乗っかっているというのが正確な配置だ。つまりは「日」の字型なのだが、上の方の「ロ」が一回り小さいので若干表現に困る。

で、ご公務は主に下の方の「ロ」の字部分で行われていて、国民に一番馴染み深いのは、下横一部分に当たる『長和殿』であろうか。この長和殿のすぐ前が『東庭』と称されていて、新年参賀やお誕生日などに陛下がお出ましになって国民と直接触れ合われるのがまさにこの場所だ。

 次に有名なのは右側の縦線部分に当たる『豊明殿』だろうか。ここでは、外国からの国賓などを招いて宮中晩餐会が行われる。


 そして宮殿の心臓部とも呼べるのが上横一部分にあたる『正殿』。そしてその中心に位置する『松の間』だ。


 国民にとっては、もしかするとこの『正殿』こそが皇居宮殿のイメージなのかもしれない。なぜならその『正殿松の間』では、最上級の宮中行事・ご公務が執り行われるからだ。そしてその様子は、しょっちゅうメディアで映し出される。

 一番の行事としては『即位礼正殿の儀』だ。これは読んで字のごとく、御代替わりの儀式のことで、神道色の強い『大嘗祭』とは別に、ご公務として行われる即位儀式を指す。


 次いで有名なのは総理大臣の親任式、そして勲章親授式だろうか。新任外国大使の信任状捧呈式などもここで行われる。

 多くの外国大使は皇室差し回しの馬車で各国大使館から皇居へ参内し、ここ『松の間』で厳かに行われる捧呈式を体験することで、日本国という国の格式を来日直後から思い知らされることとなる。


 ちなみにメディアでしょっちゅう映し出されるといっても、メディアの人間自体は『松の間』には入れない。儀式の様子は、この部屋の両側壁面に設けられた『報道室』から覗き見る形で行われている。

 つまり、この『松の間』は皇居宮殿の中でも最も格調高い部屋とされていて、そんじょそこらの人間は絶対に足を踏み入れることができないのだ。ちなみに宮内庁職員でも、限られた者しか入ることが許されていない。


 さて、残る「ロ」の字の左側縦線の部分だが、ここは『回廊』と呼ばれていて、その名の通り手前の『長和殿』と奥の『正殿』を繋ぐいわば渡り廊下だ。

 そもそも宮殿の正面というのは『長和殿』の方にあたる。

 その左右にそれぞれ『南車寄』『北車寄』というのがあって、賓客は大抵そのうちの『南車寄』に着き、この『回廊』を通って『正殿』に向かうわけだ。

 ちなみに外国賓客が陛下に謁見されるのは、『正殿松の間』の左隣にある『竹の間』と相場が決まっている。陛下はこの『回廊』を、賓客とともに歩かれるのが通例だ。


 さて、未来たちが辿り着いたのはこの『南車寄』――つまり「ロ」の字の一番左下角の部分である。


 東御苑の端で偶然見つけた中国兵の一行。彼らが宮殿に向かってそそくさと人目を避けるように侵入していくのを見つけた士郎たちは、ひとまず未来みくと亜紀乃、ゆずりはを追跡に向かわせたわけだが、中国兵たちは長和殿前の東庭を突っ切って、この南車寄に飛び込んでいったのだ。

 未来たちは、ひとまずそれをまっすぐ追いかけたというわけだ。


 車寄といっても、そこは皇居宮殿である。建物内に入ったところは『南溜』といって、そもそもその区画自体が160坪もある大きな空間だ。そして、皇居特有のシンプルながらも品の良い調度が既に施されている。床には黒御影石と大理石が敷き詰められていて、天井には1基あたり3,485個のクリスタルが施されたシャンデリアが2基吊り下がっている。

 したがって通常であればそのシャンデリアの上品な明かりが、御影石の床面に美しく映える。だが、畏れ多いことにそこには既に大きな破壊痕、というか爆発痕のような煤が放射状に広がっていた。まるでその部分で手榴弾が爆発したかのような――


 そして、本来そこにいて宮殿出入口をしっかり防備しているはずの近衛兵たちが、誰ひとりとしていないのだ。


 未来はその状況をサッと見て取ると、ただちに行動を起こす。


「私たちも入りましょう」

「い……いいのでしょうか……」


 亜紀乃が困惑した表情で訊き返す。宮殿に立ち入る行為というのは、皇軍兵士にとってやや敷居が高いのだ。


「事態は一刻を争います。ここは私が責任を取ります」

「わかった……」


 楪を先頭に、『南溜』の階段を上っていく。ここを上がると確か『波の間』だ。すると――


「こ……これは……」


 階段を上り切ったところにある『波の間』――その名の由来は、向こう正面に描かれている巨大な壁画だ。東山魁夷作「朝明けの潮」。縦3.8メートル、横14.3メートルにもおよぶ、美しいエメラルドブルーの波の様子が描かれた名画。

 だがその部屋の中には、数人の近衛兵の無残な遺体があった。

 白い衛兵軍装に広がる赤黒い血痕。そして、柔らかな絨毯には彼らの血が大量に染み込んでいる。


 明らかに、侵入者の仕業だった。未来は咄嗟に左側の障子戸をスパンと開ける。『正殿』に向かうには、そちらの方角が最短コースだからだ。『回廊』を突っ切ればすぐに『竹の間』に至る。だが――


 『回廊』は板目状のもので完全に封鎖されていた。近衛兵の施したものだろう。

 その前には、うず高く積まれた土嚢。そして……


 その土嚢に突っ伏すように、やはり近衛兵が何人もこと切れていた。その誰もが手に軍刀を握り締めていたが、全員が銃で撃ち殺されている。その様子を見るに、近衛兵たちは宮殿内での発砲を控えたのであろう。だが敵は容赦なく、彼らを射殺したらしい。

 だが、幸いなことに板目状のバリケードは一切破られた形跡がなかった。いくつか弾痕はあったが、恐らく敵も先を急いだのだろう。足許の絨毯に残る足跡は、右側の方へ続いていた。つまり、『長和殿』の方へ突っ切って行ったのだ。


 ちなみに「ロ」の字の中心部分には『中庭』がある。この中庭には、『回廊』を除くすべての建物から降りることができるのだが、今は雨戸のように鉄製のバリケードが降ろされていて、完全に封鎖されていた。さすがは近衛だった。この中庭を敵に突っ切られたら、すぐにでも『正殿』に飛び込まれてしまう。

 そんなわけで未来たちも、長和殿の廊下を突っ切って一路『豊明殿』方向へ走っていく。


 その時だった。


 ウワァぁぁぁぁぁッ――!!!


 前方から、獣のような叫び声が聞こえてくる。それこそ『豊明殿』の方からだ。普段静謐に包まれた皇居宮殿に似つかわしくない、恐るべき咆哮。


「――なにっ!?」

「わかんないッ! 急いでッ!!」

「了解ッ!!!」


  ***


 士郎は全速で走りながら、背中におぶった広美に確認する。


「――広美ちゃん! どっち行けばいいッ?」

「……ひゃあぁぁぁ――ッ!」


 広美は、相変わらず完全に目を回している。士郎たちはとてつもない速度で宮内庁前を突っ切って、『東庭』に辿り着いたところだ。宮殿の中に入るには、目の前の『北車寄』か? 奥の『南車寄』か? はたまた建物を時計と反対周りに進んで『西車寄』まで行くか――!?


「広美ちゃん! しっかりしろ!」「頑張って!」


 すぐ横を並走する久遠とかざりにまで叱咤激励される始末の広美は、ようやく蚊取り線香のようなグルグル目を開ける。


「――わ……わた……わた……!」

「わた?」

「いいええぇ……わわわわ私たちは『表御座所』の方からいいいい行きましょうっ!」


 つまりは宮殿建物を時計と反対周りにぐるりと回り、陛下の執務室がある方から入ろうということだ。つまりは「日」の字の上半分、小さい方の「ロ」の字の方だ。確かに陛下がいらっしゃるとしたら、そちらの方だ。


「――了解ッ」


 途端、宮内庁と宮殿を繋ぐ渡り廊下『紅葉渡』をザシュッと飛び越える。


「きゃあァァッ!」


 ダンッ――と着地すると、数秒後には『西車寄』に辿り着く。そこでようやく士郎たちは急減速し、立ち止まった。もはや広美はジェットコースターを100回乗ったような顔をしている。


 そこには近衛兵が数人、引きった顔で土嚢の後ろに貼り付いていた。つまりは、こちらにはまだ中国兵が来ていないということだ。


「――間に合ったのか!?」


 士郎が何気なく呟くと、近衛兵の一人が軍刀を突き出してくる。


「――な、何者かッ! ここは畏れ多くも宮殿であるぞ!」


 するとその声に気付いたのか、グルグル目の広美が士郎の背中越しにニュッと顔を突き出した。

 途端に近衛兵の態度が一変する。


「――こッ! これはかんなぎさま!?」


 えッ!? と後ろを振り向くと、広美がヘロヘロな顔で必死に頷いていた。なんだ、この子意外に顔が利くのか――

 それにしても『巫』って……例の“朝廷”のことは、近衛も知っているというのか!?


 すると広美が、士郎の疑問を察したのか何とか口を開く。


「……あ……あの衛兵さんたちは、こちらの『表御座所』専属の方たちなのです……だから私の裏の顔も……密かにご存じなのですよブロロロォッ!!!」

「うわッ! 広美ちゃんってば!?」


 酸っぱい臭いが士郎の首筋から立ち昇る。あちゃーという顔をしているのは久遠たちだ。


 思わぬ粗相に、衛兵たちが気の毒そうな顔で士郎たちを見つめ返した。


「――みなさんはいったい……」

「……わ、我々はオメガ特戦群です。敵兵がこちらに進入した形跡がありますので、陛下をお連れするよう司令部から命令を受けて参りました」


 士郎が顔をしかめながら告げる。

 すると、衛兵たちの表情に安堵の色が広がる。もちろん彼らだって、オメガの強兵ぶりは耳にしているはずだ。


「そうでしたか。それで巫さまもご同行されているわけだ……先ほどから建物内で何やら異様な物音がしております。ただちにお入りください」


 軍刀を突き付けた兵士が刀を鞘に納める。


「――物音!?」

「はい、先ほど獣のような異声が轟いたところです」


 士郎たちはお互いの顔を見合わせる。


「――それが恐らく中国兵だ。文とくるみは広美ちゃんに同行して急ぎ陛下の元へ! 久遠、行くぞッ!」

「「了解ッ」」


 言うが早いか、士郎は広美を放り出し、『北車寄』から建物内に飛び込んでいく。久遠が慌てて後を追った。投げ出された広美は文が「おぉっと」と言いながら上手くキャッチする。


「広美ちゃん、行きましょう!」


 文とくるみは広美の手を左右から握り締めると、またもやパァンと踏み出していった。


 ひゃあぁぁぁぁ……

 広美の悲鳴だけがその場に残響のように残る。


  ***


 未来みくたちが『豊明殿』に飛び込んだ時、そこには異様な光景が広がっていた。


 もともとここは、皇居で最も大きな部屋で、その広さは280坪にも及ぶ。数百人が一度に着座して正式な饗宴が行えるほどの広さだ。もちろん今はそんな饗宴が行われる予定がないから、部屋そのものはガランとしている。床は菖蒲あやめ色――つまり、ピンクと紫の中間色のような色味のカーペットが敷き詰められていて、天井にはぼんぼりのような白い照明が無数に吊り下がっている。

 相変わらずその内装は気品に満ちていて引き算の美しさなのだが、そんな空間にあって唯一手前の方に異様な一角が広がっていたのだ。


「――ど……どうしたのこれ……」


 思わず未来が呟いたのも致し方ないだろう。

 そこには、侵入した中国兵が折り重なるように山になっていたからだ。いや、数名は未だ健在と見えて、そのすぐ傍に立ち尽くしている。

 未来はその数名の中に、とても見知った顔を見つけて思わず安堵した。ミーシャくん――!


 だが、未来はその直後、ミーシャのごく僅かな目配せに気付く。わかった――!!


 未来がミーシャの存在に一切気付かないふりを咄嗟にしたのは、さすがだった。彼は今や日本軍の工作員として中国軍に紛れ込んでいるのだ。もしここで彼に声を掛けたら、彼の今までの苦労はすべて水の泡になるところだ。


 すると、立ち尽くしていた中国兵がひとり、こちらの気配に気づいたのがついと振り返った。将校の軍服を身に着けた男だ。


 その顔を見て思わずオメガたちは息を呑む。顔面の半分以上はケロイド上の火傷痕で醜く引き攣り、まるでバケモノのような顔つきをしていたからだ。

 だが、未来たちが本当に驚いたのはそこではない。


 彼の身体からは、複数の触手のような――いや、カニの足のようなものが突き出していたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る