第460話 アウフヘーベン

 あれは――日本軍の特務兵!!


 群衆に紛れて一路皇居宮殿に向かっていたチューランたち中国兵一行は、突如として背後にただならぬ気配を察し、何事かと振り向いた。

 そこには、明らかな異変が起こっていた。ゾンビのように意思を持たない、幽鬼の群れだったはずの無秩序な群衆が、突然何かに怯えるように何箇所かに固まり始めたのである。


 その対面にいたのは――

 ピタリと身体にフィットした漆黒のスーツに、鎧のような厳めしい装甲を着込んだ、美しい少女たちだ。


 ある者は銀色の美しい長髪をなびかせていた。二本の長刀をその両手に握り締めたその姿は、まるで戦女神ヴァルキリーのようだ。

 薄桃色の柔らかな髪を左右にひとつずつ纏めている少女は、その見た目とは裏腹に夜叉のような気配を漂わせている。

 また別の少女は、人形ドールのように恐ろしく整ったその顔立ちをピクリとも動かさず、氷で出来た作り物のように見えたし、長身黒髪の少女はキリリと涼し気な目元を真っ直ぐ正面に見据えていて、何者をも許さない厳しさを湛えていた。

 黒髪ボブの一見優しげな少女は、その可愛らしい見た目にも関わらず、全身から獰猛な気配を漂わせている。既に彼女の全身は血に塗れ、その姿は狂気すら感じさせた。


 どの顔も、忘れようもない――

 かつて戦場で見たことのある顔だった。蒼髪の少女だけは唯一、見覚えがない。彼女だけはなぜだか、少しだけ雰囲気が違って見えた。


 だが……間違いない。

 彼女たちはかつてチューランを敗北に追いやった、日本軍の異能者たちだ。たしか……オメガと言ったか――


 チューランは、内心恐慌状態に陥った。アレは危険過ぎる――!!


 結局のところ、ハルビンを陥落させたのはこの少女たちなのだ。

 正規軍同士の正面衝突で激闘が続いていたあの戦場で、最強と思われていた我が中国の辟邪ビーシェを討ち斃し、恐るべき破壊力で親衛隊兵力を壊滅に導いた――


「……どの! 中校どのッ!?」


 我に返ると、大柄な従兵が上から見下ろすように必死で自分に呼びかけていた。


「――あ……あぁ、どうした!?」

「いかがいたします!? どうやら連中は、群衆たちに恐るべき殺意を向けているようです! このままここにいると、巻き込まれかねません!」


 それは、確かに由々しき問題だった。日本軍は、あれらの特務兵を投入して、強制的にこの群衆を皇居から排除するつもりなのか!?

 連中の恐るべき戦闘力は折り紙付きだ。それはチューランが身をもって知っている。だとすれば、ここにいる数千、数万の群衆を彼女たちが排除することなど、造作もないことのように思われた。

 そうなれば、今その群衆に紛れている我々も、とばっちりを喰らいかねない!


 作戦を中止して、一刻も早くここから逃げ去るか――!?

 それとも当初の計画通り、この混乱に乗じてなんとか宮殿に辿り着くか――!?


 チューランは決断を強いられる。

 ただ、不思議なことに、群衆の前には敵の近衛兵たちが立ち塞がっているようであった。しかも、彼らの身体の方向は群衆ではなく、あのオメガたちの方を向いている。

 あれではまるで、群衆を守ろうとしているかのようではないか!? なぜそんなことをしている!?


  ***


 神代未来みくは、戸惑っていた。

 身体の奥底から湧き上がってくるこの感情は、目の前の群衆を一刻も早く滅ぼすべき――としきりに囁いてくる。事実、彼らはまるで幽鬼のようで……その存在には嫌悪感すら覚えてしまうのだ。


 未来の喉は、既にカラカラだった。早く――滅殺しなければ……

 それはどうしようもない衝動で、この目の前の存在を一刻も早く切り裂き、八つ裂きにしなければ収まりそうになかった。

 だが――


 未来が戸惑うのは、そんな汚らわしい存在の前に、誰かが立ち塞がっていることだ。一人ではない。左右を見回すと、あちらでも、こちらでも、あちこちにそんな人たちが大きく手を広げ、まるで後ろの群衆を死守するかのように私たちオメガの前に立っているのだ。


 この人たちは……兵士……!?

 あぁ、そうだ。確かに士郎くんたちと同じ、国防軍の兵士たちだ。少しだけ着ている制服が違うけれど、全体のトーンは一緒だから間違いないだろう。

 不思議なのは、彼らが士郎くんたちのように戦闘服を着ていないことだ。こんな戦場で――!? それはまるで、式典に出るような恰好だ。まぁいい。これがこの人たちの部隊の制服なんだろう。それにしても――


 なぜ彼らは、あの人たちを守ろうとするの――!?


 ドクンッ――


 未来の心臓が大きく跳ね上がる。これは――


  ***


 アグレッサーモードになることは、別に前後不覚になって自我を喪失することじゃない。よく誤解されるが、オメガはこの状態の時、別に何かに憑依されて意識を失っていたり、普段隠れている別の人格が浮上してきたりしているわけではないのだ。

 水瀬川くるみはだから、今も冷静で、論理的思考が出来ているつもりだ。

 だからこそ、目の前に立ち塞がる兵士たちの行動が理解できないのだ。


 客観的に見て、この群衆の行動は極めて問題だ。許可もなく門を乗り越え、本来立ち入るべきでないところにまで侵入するのは、明らかに重大な規則違反だ。

 そのうえ制止する兵士たちに集団で暴行を加えるなど、あってはならないことなのだ。要するに、現時点で明らかに、この群衆は何の遠慮もいらない排除対象なのだ。

 なのになぜ――兵士たちはそんな群衆を守ろうとするのだ!?


 くるみは、身体の芯から湧き上がる殺戮衝動に、必死で抗っていた。あぁ……いっそひと思いに彼らを葬ることができれば、どんなにか清々しいだろうに。

 だが、そんな群衆を兵士たちが守っている。その意味とはなんだ!?

 私は、どうすればいい――!?


  ***


 久瀬亜紀乃が不思議なのは、兵士たちが未だにその背中を群衆から小突かれていることだ。


 確かに人々は、今や怯えたように一箇所に固まっている。それでもなお、彼らは知性的に振る舞うことができず、まるでゾンビのようにモゾモゾふらふら蠢いているのだ。そんな群衆の盾になって立つ兵士たちも、そのたびに背中から不意に押され、蹴られ、どつかれている。


 しかも、兵士たちは誰もが例外なく、ボロボロだった。

 儀仗隊のような綺麗な制服はもはや見る影もなく、袖が引き千切られたり肩章が剥がれたりしている。白地の制服はもはや泥だらけで、誰かの靴跡がくっきりとお腹の辺りについていたりする。

 でも、服が乱れているのはまだいい方だ。

 大抵の兵士の顔は、殴られたのかあちこちに打擲ちょうちゃく痕がついている。鼻血を零している者や、眉間を切った者すらいる始末だ。


 要するに彼らは、自分たちが必死で守ろうとしているその群衆たちに、恐らくは酷い暴行を受けていて、そしてそれは未だに現在進行形なのだ。

 なのになぜ――

 こんなうっとうしい存在、とっとと殺しちゃえばいいのに……


  ***


 蒼流久遠は困惑していた。

 なぜこの者たちは、必死で群衆を守ろうとしているのだ。


 自らを盾にして私たちに立ち塞がっているのが、同じ国防軍の兵士であることは十分認識していた。

 自分が今、アグレッサーモードに突入していることの自覚もある。そう――誰であれ、この世界の人間をことごとく抹殺するという、あの恐るべき衝動。

 幸い、兵士たちには殺意を抱いていない。いつの頃からか、私たちオメガは国防軍の戦友たちに殺意を抱かなくなったのだ。それは確か、士郎のDNAを使ったワクチンを全兵士が接種したお陰だ。だが――


 なぜ兵士たちは、こんな者たちを今さら必死で庇うのだ!? これではまるで、私が悪いみたいじゃないか。

 群衆に対する殺意はまったく消えていない。それは、胸をかきむしるような衝動。いや――強迫観念と言っていいかもしれない。ただそうするのが私の使命だと言うように、そうしない自分に対して激しい焦燥感を抑えられない――


 なぜ兵士たちは、私の邪魔をするのだろう。

 果たして彼らが必死で守ろうとしているこの人々は、守るべき価値のある存在なのだろうか。そんなことはないはずだ。だって彼らは、ここにいてはいけない人たちなのだから。

 私の本能が、そう告げている――


  ***


 西野ゆずりはは、清々しい思いに浸っていた。

 ようやく思い通りに出来る。さっき通り過ぎてきた戦闘地域では、無理をして中国兵たちと戦ってきた。それは、内心とても辛くて、心苦しいことだった。

 『幽世かくりよ』から来た中国兵に、私は何の感情も抱いていない。もし目の前から立ち去ってくれるなら、別に追いかけようとも思わない。

 ただ、彼らはどうしても私たちの邪魔をしてくるから、やむを得ず殺してきたのである。

 私は兵士だから、そのこと自体に文句を言うつもりはないが、それはやっぱり少しずつ精神を削られていく、とても嫌なことなのだ。


 だから今、目の前にいるこの群衆に対して抱く殺意は、とても気持ちいいものだ。この人たちは、殺してもいい人たち。というか、殺さなければ気が済まない――という湧き上がる衝動。

 それがオメガの本能であることも十分承知している。でも、その感情はどうしても抑えられないものだ。だって私にとっては、そうすることが正しいことだから。


 でもなんでこの人たちは、そんな必死な顔をして私を睨みつけているの!?

 この人たちは、殺しちゃいけないの……?


  ***


 あの時と一緒だ。初めて士郎くんたちを助けに行った時と同じ……

 未来みくは思い出していた。


 あの時、私は不思議と士郎くんを助けなきゃいけないと確信していた。だが、言ってしまえばそれだけだ。他の人たちは、正直眼中になかったのだ。

 だが、いざ戦場に着いて士郎くんを助けようとしたら、彼は傍にいる数人の兵士たちも、必死で守ろうとしていたことを思い出す。

 結果的にその人たちこそが、田渕軍曹であり、各務原かがみはら伍長であり、香坂上等兵だった。ちなみにこれは当時の階級。


 あの時は“士郎くんが守ろうとしているのだから、この人たちも助けよう”と自然に思えたのだ。それまで人を殺すことに何の躊躇も感じていなかったが、あの時は、なぜだかそうしなければいけないような気がしたのだ。

 それを自分の感情として受け入れた途端、喉の渇きが急速に収まっていき、殺意が減退したことを思い出す。


 今回のこの感情も、あの時と一緒だ。群衆たちを、必死で守ろうとする兵士たち。

 私は、どうすればいい――!?


  ***


 不意にかざりが声を掛けてきた。


「――みくちゃん! この人たちは、たぶん殺しちゃいけないんだよ」


 その一言に驚いて、未来は文を見つめ返した。その瞬間気付いたのは――


 文ちゃんの瞳が、青く光っていない――!?


「え……? どうして……」


 6人の中で唯一、アグレッサーモードになっていなかったのは月見里やまなしかざりだ。何でそんなことが――と思いかけて、未来はたちまちその原因に思い至る。

 恐らくそれは、彼女が何度か“容れ物”を乗り換えているせいだ。


 かつて叛乱騒動で自軍の特殊部隊にその右眼を貫かれ、長期に亘って意識不明の昏睡状態に陥っていた彼女は、並行世界に存在したもう一人の自分にその意識を乗り移らせることで、見事復活を遂げたのだ。

 さらにその後、再びこちら側の世界に還ってきた時には、彼女の意識は再度、元の身体に戻っていた。しかも、オリジナルの肉体はその際昏睡状態から目覚め、今は隻眼の兵士として再び戦場に立っている。


 つまり――都合2回、文はその肉体を乗り換えているのだ。


 それがなぜ、今彼女の殺戮衝動を抑えることに繋がっているのかは定かではないが、他に思い当たる節がない以上、それが何かのトリガーになっていることは間違いないのであろう。

 そして、今はその因果関係自体に何の意味もない。


 大切なのは、この状況下にあって、一人冷静なオメガが存在しているという、その事実なのだ。


「かざりちゃん、わたし――」

「分かってる……みくちゃんも、他の人たちも、衝動が抑えられないんでしょ……?」


 ふと周囲を見回すと、他のオメガたちが必死で殺戮衝動と戦っているのが見て取れた。どの顔も、苦しそうだ。それはまさに禁断症状とも呼べるかもしれない。

 だが、その一角で未来が見つけた光景こそ、もしかしたら今最も必要な姿だったのかもしれない。


 士郎くん――!


 石動いするぎ士郎は、オメガたちの間近で必死に彼女たちの行動を諫めていた。そう――群衆の前に立ち塞がるあの近衛兵たちと同じように、オメガたちが人々を手にかけることを、何とかして抑えようとしていたのだ。


 ドクンッ――


「――どうする……? みくちゃん……」

「……あ……」


 文が問いかける。私たちのリーダーが……いや、私の愛する人が、そうしちゃいけないと必死で呼びかけている――

 それは、本来なら口で言ってどうにかなるようなものでもないはずだった。鳥が空を飛ぶように、魚が水の中を泳ぐように、ライオンが草食動物を狩るように、オメガが人間を殺戮するのは本能であり、あまりにも自然な営みだったからだ。


 オメガが人を殺戮するのは、彼女たちが人類を絶滅させるためのある種のリセットボタン、消去装置デリーターだからだ。したがって、目の前の群衆にオメガたちが殺戮衝動を抱くのは、この世界を一旦終わらせようとする、大いなる意思の表れでもある。

 それは、この『現世うつしよ』という世界における人類の営みがと神が見做しているということに他ならない。でも――


 ドクンッ――


 私たちは、本当にそれでいいのだろうか。大いなる意思のままに、本能に従っていさえすればいいのだろうか!?

 本当に人類は、もはや絶滅すべき存在なのだろうか――

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