第437話 指揮官殺し

 今の東京は、言ってみればかつてのスターリングラードのようなものだ。

 多くの民間人が市街地に取り残され、そのすぐ傍で兵士たちが戦っている。もともと中国軍の侵略は奇襲攻撃だったから、非戦闘員が郊外に疎開する暇もなかったのだ。

 まぁ、どのみち現状は、日本のどの地域に避難しようがさしたる違いはない。主要都市には漏れなく中国軍が侵攻してきたから、別の街に逃げたところで状況は変わらなかったのだ。

 それでも、郊外に家を持つ人々はなんとか徒歩で数十キロを歩いて自宅に戻った者も多い。23区の外側、東京各市部がまだマシだったのは、中国軍がそうした地域にあまり興味を示さなかったからである。


 問題は、23区内――とりわけ山手線内側に住む人々だった。このエリアは中国軍が集結していて、既に泥沼の市街戦が2週間に亘って繰り広げられていたのだ。

 戦時下、特に国土が侵略されている場合、住民の避難誘導について中央政府は責任を負わない。この場合の政府の第一の義務は外敵の撃退であり、民生については地方自治体の役割なのだ。その点、東京都は既に当事者能力を失っていた。都庁は初期段階で攻撃を受け、機能を喪失していたし、もとより1千万都民――それでも最盛期に比べれば人口は激減していたが――全員の安全を確保することなど、最初からできない相談だったのだ。

 まぁ、住民自身もその辺りは心得たもので、行政によるサポートがないと騒ぎ立てる者など最初からいない。数十年前の半島国家からの弾道弾攻撃以来、国民の意識も劇的に変わっていたからだ。だから町内会とか自治会とか、住民の自主的な互助組織は本来の意味を取り戻し、こうした戦闘に巻き込まれた場合には、いわゆる“向こう三軒両隣”の精神で助け合っていたのである。


 だが、それでも現在の状況は極めて厳しいものであった。助け合おうにも、すぐ目の前で銃弾が飛び交っているし、時に砲撃が建物に直撃する。今のところ中国兵たちは、意図的に住民たちに危害を加えようとはしていなかったが、それでも不用意に目の前に飛び出していけば、容赦なく銃撃され、自分たちの攻撃対象付近に住民がいたとしても、それを理由に攻撃を中止したりはしてくれなかった。


 この保育所にいるのは、間違いなくそういった市街戦で逃げ場を失った人たちだろう。もとより子供の足では、数十キロを踏破して郊外に逃げ延びることもできない。

 だから親子ともども立て籠もっていたのだ。それに加えて、自らの責任を果たそうとする幾人かの保育士たち。


 そんないわゆる“女子供”を、醒めた目で見下ろしていたのが、例の敵辟邪だ。

 保育士たちは、恐怖で号泣しながらも、それでも子供たちや母親のその前に立ち塞がって、大きく両手を広げてその異形の存在に対峙していた。


 その光景をモニター越しに確認し、田浦たちは胸を痛める。


「軍曹、あの人たち、なんとか助けられませんか!?」

「――あぁ! 今その方法を考えているところだ……迂闊に飛び出していったら、あの子たちも含めて全員が蒸発しちまう……」


 とはいえ、一刻の猶予もなかった。あの怪物も、他の中国兵同様、民間人だからと容赦しているようには見えない。先刻からの攻撃でも、恐らく多くの非戦闘員が巻き込まれて命を落としているのだ。はッ――


「……待てよ……巻き込まれ……」

「どうしたんです軍曹!?」


 田浦は必死に考えを巡らす。そしてついにある決断を下した。


「おい、お前ら、強化外骨格エグゾスケルトンを外せ」

「は!? そんなことしたら丸腰で――」

「いいから――もしかしたら、非武装の奴にはアレは手を出さないかもしれん」

「そんな……確証はあるんですか!?」

「どのみち武器を向けたって通用しないんだ。だったら可能性に賭けようぜ!?」


 戦場の兵士が武器を捨てるというのは、心理的に相当しんどい決断だ。「武装解除」というのは、降伏を意味するからだ。

 だが、田浦は率先して自らのエグゾスケルトンをパージしていく。

 兵士たちも、分隊長の行動を見て仕方なく装備を外していった。


「――せめて分隊火器くらいは……」


 そう言ってある兵士が外骨格の背中部分に格納されていた突撃銃NGSWを取り出そうとする。だが、田浦はそれを鋭く制した。


「それも駄目だ。いいかお前ら、覚悟を決めろ!? 気休めに武器を持っていたせいでアイツが逆上するかもしれねぇんだ。子供たちだって今、丸腰でアイツと向き合ってるんだぞ!?」

「……はぁ……分かりましたよ」


 やがてチームは、自らのエグゾスケルトンを川岸の縁に並べて立てかけさせ、本当に丸腰になってのっそりと地上に這い上がった。

 十数メートル先に、先ほどの保育所がある。田浦たちは、匍匐前進を始めた。その時、中国兵の斥候が密かに後ろに続いていたのも気付かずに……


  ***


 その時、保育士の萌香は視界の片隅に何かが動くのを知覚した。


 目の前には、数メートル上空にぽかりと浮かぶ褐色の肌の少女。人間が浮いているというその事実だけで、萌香はそれが現実のことなのか、俄かには信じ難いのだ。その瞳も、なぜだか知らないが青白く光っている。

 だが、この少女が先ほどから街を破壊する火球を四方八方に撃ち出していたのは紛れもない事実だ。それによって、多くの日本軍が犠牲になっているのもこの目で目撃している。だから、この存在が少なくとも“敵”であるのは間違いなさそうだった。


 なんでそんなのが私の保育園にいるのよ――!?

 萌香は、自分のお尻のところに子供の一人がひしと抱きついているのを感じながら、気丈にソレを睨みつけていた。来るなら来なさいよ! 子供たちには、指一本触れさせないわ――

 お母さんたちも、必死で子供たちを庇ってくれている。大抵の大人は、既に涙交じりだ。そりゃあそうだ。多分、自分たちはここで殺されるのだろう。そんな残酷な未来が数分後か、あるいは数十秒後に迫っていることを自覚していて、冷静でいられるわけがない。

 それでも皆が子供たちを守るように人間の盾になっているのは、それが大人の務めだからだ。いつの世だって、子は宝だ。未来を切り開くのは、今はまだ幼いこの子たちなのだ。だから、もしコイツが「子供たちには手を出さないからお前たちは命を差し出せ」と言ってきたら、二つ返事で応じることだろう。

 怖いのは、大人たちが殺された後、子供たちまで理不尽に命を奪われることだ。私を含めた保育士たち、そしてお母さんたちが本当に心配しているのはそこなのだ。


 だから萌香は、その異形の怪物の背後――保育園の柵の外側からひょいと顔を覗かせた男たちを見て、心から安堵したのだ。

 この進退窮まった状況にあって、国防軍が助けに来てくれた――!


 その精悍な男たちは、顔面を迷彩に塗りたくっていて表情はほとんど分からなかったが、明らかに萌香たちに何らかの合図を送ってきていた。不思議だったのは、彼らがどうやら丸腰であることだ。萌香のよく知る兵士たちは、いつも何やら身体中に重たそうな装備を纏っていて、銃だって構えているのが普通だったから、彼らの異様に身軽なその姿はとても印象的だったのだ。


 ともあれ、助けに来てくれたのは間違いない。やがて男たちは、信じられないことに堂々と歩いて萌香たちに近付いてきたのだ。


「――やぁ、お待たせしました。小官は国防軍水陸機動団所属の田浦一曹です。さ、ここから避難しましょう」


 そのあまりにも堂々とした立ち居振る舞いに、その場にいた保育士、そして母親たちは呆気に取られて硬直してしまう。


「……あ、あの……」


 萌香はすぐ頭上に浮かび上がるあの少女をビクつきながら見上げる。だが、想像に反して少女は無表情のまま、自分たちを見下ろしているだけだった。


「……ぐ、軍曹……やはりコイツ、非武装の相手には手を出さないようです……」


 同行してきた他の兵士が、田浦一曹と名乗った兵士に話しかけていた。そうか――

 だからこの人たちは、武器を持っていないのだ。しかも、兵士たちの口ぶりからして、その確証のないままに、萌香たちのところに近付いてきたに違いなかった。

 萌香は、兵士たちの勇敢さに脱帽する。この人たちは、私たちを助けるためにイチかバチか賭けに出てくれたのだ――


「――あ……ありがとうございます! じゃあまず子供たちから――」


 他の母親たちも、兵士たちの勇気に気付いたようだった。みなそれまで張り詰めていた緊張感が一気に緩んだのか、違う意味で号泣し始めた。


「ママぁ……だいじょうぶ?」

「あ、うん……さぁ、兵隊さんたちが助けに来てくれたからね……みんなで一緒に逃げよ?」


 涙で顔をぐしゃぐしゃにした若い母親が、自分の子供に慰められていた。子供たちだって、先ほどまでの恐怖に満ちた数分間を理解していなかったわけではない。自分の母親や、大好きな保母さんたちが涙を流しながら自分を守ってくれている姿を見て、何かとんでもない怖い出来事が起きているということくらい、どんなに小さな子だって分かるというものだ。


 その分、大人たちの安心は瞬時に子供たちにも伝わる。

 田浦たちが現れたことで、母親たちが涙を流しながら喜んでいる姿を見たら、自然と兵士たちへの好感度も上がる。頼るべき母親のいない何人かの子供たちが、思い思いに近くの兵士の手を握り締めた。


「大丈夫だぞ、お兄ちゃんたちが助けてやるからな」

「うん! 私、怖くないよ!」


 真っ赤に泣きはらした目をクリクリさせながら、5歳くらいの女の子が田浦の親指を小さな手で握り締めてきた。その時だった。


 突然、パンッ――と大きな音が轟く。その瞬間、田浦はドゥとその場に崩れ落ちた。


「――えっ!? 軍曹ッ!?」

「キャアぁぁッ!」


 急いで隊員が田浦のところに駆け寄ると、地面に大きな血だまりがじわじわと広がってくところだった。女の子が顔を引きつらせ、一歩、二歩と後ずさる。


「――敵襲ッ! クソッ! どこからだ!?」


 隊員たちはすぐさま円陣を組み、全周を警戒するが、何も武器を持っていないからただ周囲を鋭く観察することしかできない。すると、保育園の外周柵のところから、逃げ去る人影があった。


「アイツかッ!」

「……や……やめとけ……」


 不審人物を追いかけようとした隊員を、倒れ込んだ田浦が制する。


「軍曹ッ!?」

「……俺はまだ……大丈夫だ……それより……子供たちを逃がすのが先だ……」

「――し、しかしッ!」

「あれは……中国軍の……指揮官殺しコマンダースレイヤーだ……」


 指揮官殺し――

 それは、野戦において敵陣の中に入り込み、最前線で指揮を執る分隊長や小隊長だけを狙って命を奪う輩のことだ。指揮官を殺せば軍隊は組織的な行動を取りづらくなる。前線の混乱を狙ってこういう嫌がらせを仕掛けてくるのが中国軍の恐ろしいところだった。


 だが次の瞬間、田浦たちにとって想定外のことが起こった。


 先ほどまで無言で田浦たちの行動を見守っていたあの辟邪が、俄かに憎悪の表情を浮かべ、ギュインと上空に浮かび上がったのである。


「へ……!?」


 その直後、辟邪はとある方角に向かって火球を撃ち込んだ。


 カッ――


 猛烈な熱気が保育園を襲う。爆心地は恐らく数百メートル先だ。だが、何より驚いたのは、その辺りが中国軍部隊のいるところだったことだ。


「――あれ? あそこは中国軍の……」


 言い終わらないうちに、次々に爆発音が連続した。火球により、弾薬に誘爆でもしたのだろうか。風に乗って中国兵たちの悲鳴と、焼けたオイルの臭いが流れてくる。


「……ど、同士討ちでしょうか!?」

「……わ……分からん……だが、ここを離脱するなら今だ」


 その時、小さな男の子が一人、母親に話しかけていた。


「さっきのおじちゃん、悪いことしたからあの人がバチを当てたんだよね」


 ――!?

 そうか……あの辟邪は、もしかしたらさっきの指揮官殺しコマンダースレイヤーを狙ったのかもしれない。するとやはり、武装をしているかどうかというのが、アレの攻撃対象になるかどうかの分かれ目ということなのか――!?

 それとも……!?


 田浦は、まさかそんなことはないだろう……と自らの考えを打ち消そうとした。ほんの少しだけ思ったのだ。あの辟邪は、母親や子供たちに害をなす者に対して攻撃しているのではないかと――

 だって、自分が狙撃されたのは、幼い女の子と手を握っている時だった。そんな状態の時に撃たれたのだから、辟邪があの指揮官殺しを“子供の敵”と認識した可能性はないだろうか――


  ***


『現地より入電――辟邪は……え? 本当か!?』

「どうした!? 報告は簡潔明瞭にせよ」


 東京湾の外側、沿岸沖合に遊弋する空母赤城の艦内に設けられた作戦室の幕僚たちが、観測員の中途半端な報告に苛立ちを強める。あの辟邪の出現によって上陸部隊第一波の半数が蒸発し、先ほどから打つ手もなくて困り果てていたのだ。


『しッ――失礼しましたッ! 現地残存部隊からの報告によると……辟邪が中国軍に対しても攻撃を始めたとのことです』

「は――!? それは何かの間違いではないのか?」

『いえ――間違いありません。先ほどから高エネルギー反応が中国軍展開地域にも広範囲で放たれているのを確認し始めています』


 別の観測員が助け舟を出す。


「一体どうなってる……」


 直後、陪席していた四ノ宮の目が鋭く光った。


「幕僚長――これは千載一遇の好機かもしれません。今こそアレを投入しましょう」

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