第438話 フェアウェル トゥ アームズ

 広い東京都市域ミッドガルドの一角、小さな保育所で起きたあの些細な一件以来、事態は急速に動き始めていた。

 辟邪が、両軍問わず無差別に攻撃を始めたのである。


 辟邪ガンダルヴァが中国軍側の切り札であることは、もちろん中国陣営も承知していたことだ。だから彼女アイシャが東京上空に突如として現れた時、中国兵たちは歓喜したのだ。


 皇居を包囲していた中国軍が挟撃の恐怖に陥ったのは、もちろん帝国海軍の駆逐艦隊が東京湾に強行突入し、日本国防軍の精鋭、水陸機動団を強襲逆上陸させたからだ。

 このままでは皇居包囲部隊がさらに日本軍上陸部隊に背後から包囲され、全滅の憂き目に遭ってしまう。そこへ救世主のように現れたアイシャは、期待通りに日本軍上陸部隊への圧倒的攻撃を繰り返し、見る間にその戦力を削り取っていった。これなら勝てる――!


 だがそれは、あまりにも唐突に始まったのだ。


 味方だと思っていた辟邪が、突如として友軍である中国軍部隊への攻撃を始めたことで、兵士たちはパニックに陥ったのだ。最初の一発目が着弾した時も、誰もが“誤射”だと思ったくらいだ。だが、続けざまに二発目、三発目が同じ中国軍部隊の陣地に着弾し始めると、それが彼女の意図的な攻撃だという現実を受け入れざるを得なくなった。


 そこから先の戦場の様相は、まさに混沌カオスという表現がピッタリなのかもしれない。


 日本軍上陸部隊への無慈悲な攻撃に高みの見物を決め込んでいた中国兵たちは、その鉾先が自分たちにも向けられたことを悟ると、何らかの対処をしなければならなくなった。

 このままでは、堅牢な攻城陣地を構築していた分、身動きが取れないまま座して彼女の恐るべき攻撃に晒されるだけだ。それに、辟邪に通常攻撃が効かないのは中国兵たちも最初から承知している。そんな状況で出来ることはひとつしかなかった。そう――


 逃げるのだ。


 逃げると言っても、一応皇居周辺では優勢に包囲していたわけだから、ここで完全撤退して郊外に離脱するわけにはいかない。それでは日本軍に蹴散らされたのと同じになってしまう。だから中国軍は、あくまで現在の陣地から出て辟邪の攻撃を躱しつつ、当初の戦略目標である皇居そのものの奪取を狙うしかなくなったのだ。


 つまり――東京都心を舞台に、両軍入り乱れての大混戦が始まったということだ。


  ***


『――全上陸部隊に通達。辟邪に遭遇したら、迷わず武器を捨てて抵抗するな! アレは非武装の人間を攻撃しないと思われる。繰り返す――』


 先ほどから繰り返し、本部からの通達が無線に流れ込んでいた。田浦たちがイチかバチかで試みた“武装解除した状態で辟邪に近付く”という手法が、もしかしたら有効かもしれないと上層部に判断されたからだ。


 だから上陸部隊の兵士たちは、辟邪からの距離があるうちは武器を持って中国兵たちと戦い、辟邪が近付くと銃をその場に投げ捨てて両手を挙げるという、ある意味あり得ない方法で戦うことを余儀なくされていたのだ。当然、まだ目の前に中国軍がいる場合は、武器を捨てた日本兵は丸腰になってしまう。そのせいで、少なくない人数が中国軍の銃弾に斃れていった。

 だが、時間が経つにつれて、この「田浦方式」はやはり有効なのではないかと全軍に認識されるようになっていった。事実、あれ以来この方式を取り入れた日本軍は、急速に辟邪からの攻撃を受けなくなってきたからである。


 対して中国軍の被害は、加速度的に大きくなっているようだった。

 確かに中国兵の銃弾に一時的に晒されるリスクはあるが、その後武器を持っている中国兵は例外なく辟邪に焼き尽くされて全滅するのだ。キルレシオが、徐々に日本側に有利に働いていくにつれ、バッファタイムでの被弾は甘んじて受け入れようという意識が日本軍全体に浸透していった。


 それにしても――と田浦は思う。

 彼らとて、通常兵器が彼女に効かないことくらい知っているだろうに――目の前の中国兵たちが業火に焼かれるのを横目に見ながら、田浦は武器を捨てる勇気を持てない彼らに少しだけ同情する。

 中国兵たちは辟邪が近付いてくると、毎度のようにありったけの火力でこれを迎え撃った。だが当然ながら、それらの火力は辟邪に何の打撃も与えられず、却って火に油を注ぐようにその怒りをまともに喰らっていた。異国の地で武器を手放すというのは、それほど恐ろしいことなのだ。


「――軍曹、辟邪は飛び去ったようです。早く武器所持の許可を!」


 チームのメンバーが急かす。もちろんその気持ちは十分わかる。敵は『辟邪』だけではなかったからだ。

 目の前には、焼け焦げた中国兵たちの遺体を乗り越えるように、灼眼で四ツ足の異形の子供たちがカサカサと迫りつつあった。


「許可する! 全員、目標を各個撃破せよ」

「アイサーッ!」


 ガガガガガッ――

 ダダダダダダダダッ――


 その途端、狂気の気配で急速に押し寄せてきていた子供たちの一群が、ビチャビチャと不気味な血飛沫を上げて砕け散っていった。

 こっちの敵は、とにかく「口から吐きだす強酸」と「抱きつき」に厳重警戒だ。


「――萌香さーんッ! もう少し下がっていてくださーいッ!!」

「は……はーいっ! すすす……すいませぇんっ」


 田浦は先ほど保護した子供たちと母親たちを束ねる、保育士の萌香に必死で注意喚起する。残念ながらこの異形の子供たちには“非武装”という条件が何の役にも立たないことが分かったからだ。

 それを確かめるために、既に田浦たちは貴重な兵士の命を二つ、失っている。もうこれ以上、あんなふうに人間がバラバラに崩壊する様は見たくなかった。

 だが、残酷な戦場の現実は、小さな子供たちの眼前にも容赦なく降りかかる。大人たちが必死で子供たちの目を隠していたにも関わらず、血飛沫がその幼い顔面に降り注いだ。


「ひぃっ!!」


 保育所で田浦の親指を握り締めてくれた5歳くらいの女の子が、またしても血を浴びる羽目になった。


「――大丈夫! そんなもの、拭き取ればなんてことないから……」

「……おじちゃんのお腹も……?」

「あぁ、そうだぞ!? だってほら、おにいさん撃たれたけどピンピンしてるだろ?」


 まぁ、田浦がピンピンしているというのは嘘だ。

 実際は腹膜を貫通しているから、内臓も傷ついているだろうし、普通なら起き上がれない。だが、今のところ国防軍の防爆スーツは、この腹部貫通銃創をたちどころに止血しただけでなく、断裂した腹直筋の代わりに腹圧を支えるサポーターの役割まで果たしてくれていた。

 おまけに痛覚遮断処置は最初から施してあるから、痛みも殆どない。そう長く放置させるわけにはいかないが、あと数時間くらいはこのままでも、作戦行動に支障はなさそうだった。


 それより何より、二十代後半の田浦にとって「おじさん」と呼ばれるか「おにいさん」と呼ばれるかは大変大きな問題だった。確かに軍の中ではまだまだ若手で、ベテラン軍曹から「よぅニイチャン」と呼ばれることも少なくない。だが、この女の子からすれば、自分は下手すると彼女の父親と同じくらいの見た目かもしれなかった。だとすれば『おじちゃん』呼ばわりされても致し方ないのだが、それでも自分では「おにいさん」と言い続けたい。だって俺まだ彼女すらいないんだぜ――?


 灼眼の子供たちの襲撃を退けると、束の間安全な空気が漂った。


「――軍曹さんってさすがなんですね」


 突然声を掛けてきたのは、ひとしきり子供たちの様子を見て回っていた保育士の萌香だ。彼女は特別に美人というわけではないが、誰でも親しみやすそうな、人懐っこくて優しい顔立ちをしている。きっとあと10年くらい経ったら、いい「お母ちゃん」になりそうな雰囲気と言えば分かるだろうか。まぁ、だからこそ子供たちからも慕われているのだろう。

 そんな彼女が、田浦を尊敬の眼差しで見つめている。


「……えっ……?」

「だって、銃で撃たれているのに痛がりもしないし、スーパーマンみたいです」

「……あ、はい、まぁ……」


 クリクリとした彼女の瞳を見て、田浦は思わず「痛覚遮断で痛みを感じないのだ」という事実は黙っておこうと思った。自分を見つめる彼女の瞳には、尊敬以上の何らかの感情が含まれているような気がして、なんとなく今だけはカッコつけたかったのである。でも――ただ、それだけだ。

 彼女からしてみれば、自分は窮地を救ってくれた命の恩人だ。黙っていてもバイアスはかかる。その感情が、極限状態に置かれたことによる一時的なハレーションを引き起こしているであろうことも、田浦は承知していたのだ。なのに――

 紅潮した彼女の頬を見て、田浦は不覚にもドキッとしてしまった。あれ……俺、そんなつもりじゃねぇのに……


「あー! もえちゃんせんせーとへーたいさん、けっこんだー!」


 突然、傍にいた男の子がはやし立てた。


「え? はっ!? こんなので?」

「こら、だいちゃん、大人をからかっちゃいけませんっ!」


 萌香が真っ赤な顔をして子供たちをたしなめる。だが、そんな子供たちの笑い声が久々に響くのを見て、母親たちもようやく顔をほころばせた。

 すると、兵士たちもすかさずみんなの士気を高めようとワル乗りする。民間人の避難誘導の際は、なるべく心理的なストレスを軽減させるべしというマニュアルだってあるくらいだから、兵士たちも心得たものだった。


「――そう言えば田浦一曹、萌香先生みたいなのがタイプでしたよね?」

「えっ……!?」


 萌香が耳まで赤く染める。


「はぁ!? おま……何言ってんだ!?」

「だって、軍曹の好きな女優さん、ホラ……あの……」

「あぁー、あのタヌキ顔の!」

「そうそう、あの人と先生、どことなく似てません?」

「おまっ……タヌキ顔とか失礼だろっ!」

「え……いえ……割と自覚症状あるんで……」

「あはははっ! たぬきせんせー! もえちゃんたぬきー!」

「こらっ! あんたたちは言っちゃダメッ!!」


 今度は母親たちが焦り出す。しかも全然フォローになってなくて、もはやしっちゃかめっちゃかである。田浦はと言えば、兵士たちの指摘が実際その通りであることと、これで民間人たちの戦闘ストレスが軽減されるならばと半ば諦め気味になりつつあった。

 だが、男女の仲なんて、ほんの些細なきっかけでお互いを意識し始めるものだ。お陰ですっかり田浦と萌香はぎこちなくなってしまった。


「――よ、よしお前ら! 無駄口叩いている暇があったら、ここから離脱すんぞ!」


 田浦がすっかり逃げ腰になってチームに号令をかけた瞬間だった。


「軍曹! 8時の方角! 中国軍ッ!」

「クソッ!!」


 次の瞬間、兵士たちは弾かれたように足許に置いた銃を手に取った。強化外骨格はいちいち着脱が面倒なので、あれから川岸に武器だけ取りに戻って、今は分隊火器シグザウエルだけ身に着けている状態だ。だから21世紀初頭の兵士たちと同様に、今は殆ど身体を守る装甲を身に着けておらず――防弾ベストさえだ――ほぼ生身を剥き出しに晒した状態で戦闘に臨むしかない。

 当然、戦闘のたびに少しずつ怪我は増えていく。


 ガガガガガッ!!

 ダダダッ!! ダダダダダッ――!! プィン! ピィンッ――!!


 早速、中国軍からの激しい銃撃が、田浦や萌香、子供たちの周囲に何のためらいもなく着弾する。明らかにこちらには民間人がいると分かっていても、彼らは相変わらず一切の容赦がない。弾は当たらないまでも、辺り一面に濛々と土埃や跳弾片を撒き散らす。


「ぎゃあー!」

「だいじょうぶ! 大丈夫だから! せんせいついてるからね!」


 萌香が泣き叫ぶ子供たちに必死で覆いかぶさる。田浦から貰って頭に被っていた萌香の鉄帽に、チィーン――と跳弾する。

 だが、田浦たちにはそんな彼女を庇う暇がない。既に6人にまで数を減らしていた分隊は、持てる火力を総動員してこの攻撃を凌がなければならないのだ。


「――分隊ッ! 交互後退戦ッ!! 川岸に向かうぞッ!!」

「ウーオッ!!」


 もはやここまでくれば、川岸に戻って一気に海に抜け離脱を図るしかない。それに、置いてきたエグゾスケルトンには小型誘導弾の発射装置もついている。何とかなるだろう。


 田浦の指示を受け、隊員のうち半数の3名が子供たちと母親、萌香を含む数名の保育士たちを抱きかかえるようにして後ろの方へ誘導していく。当然その間、田浦たちは猛然と中国軍に撃ち返し、牽制する。一定距離まで後退したら、今度は最初の3名が敵陣に向けて銃撃を再開し、田浦たちはその間にすかさず後退を図る。

 これを何度か繰り返すと、あと一歩のところで元いた川岸という位置まで後退することが出来た。


「よしッ! 全員無事だなッ!! あと一息だから――」

「軍曹ッ!! 正対方向に辟邪!!」


 正対方向――つまり、田浦たちが向き合っている中国軍の、その更に後方からあの辟邪が再び現れたのだ。なんてことだ――! よりにもよってこのタイミングで――!!

 今この瞬間、辟邪はこちらを認識しているわけではない。火球はまったく別の方向に投じられている。だがこのままここで派手に撃ち合っていれば、早晩気付かれるだろう。そうなったら――


「ぶ……武器を……降ろせ……その場で地面に放り投げるんだ……」

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