第433話 共依存

 ガンダルヴァことアイシャが、如何にしてこちらの世界に戻ってきたのかは今ひとつ判然としない。

 

 ここで、彼女が今までにいったいどんな変遷を辿ったのか、あらためて確認しておこう。


 生まれはインドの某所だ。

 5つの階層で構成されるこの国のカースト制度において、彼女はその最下層『アチュート』に生まれた。いわゆる「不可触賤民ダリット」だ。彼女がただ単に「アイシャ」と呼ばれ、誰も苗字を知らないのもこのせいだ。


 カースト制度においては、それぞれの階層で名乗れる苗字も決まっている。だから、この世界最悪の身分制度が建前上廃止されたこの国の人々は、基本的にお互い苗字を名乗らないのが慣例なのだ。分かった瞬間、その人がどの階層出身か知られてしまうからだ。

 それでも、もともと高位階層の『バラモン』や『クシャトリヤ』出身者は、今でも気兼ねなくフルネームを名乗る――自信をもって。彼らは生まれながらに“高貴な人”だからだ。

 だが、それより遥か下の低位階層出身者、とりわけ最下層のアチュートは、名乗った瞬間軽蔑される。目の前にいるその人が、どれだけ人間として素晴らしい人であってもだ。


 なぜならカースト制度における「階層」は、すべてその人のによってあらかじめ決められたものだからだ。

 高い階層の人は、前世に素晴らしい行いをしたお陰で、今生こんじょうでは誰もが羨む高位の家に生まれたという。逆もまた然り。卑しい階層の者は、前世で恐らく盗人や人殺しをした極悪人――蔑まれて当然というわけだ。


 前世の行い――!?

 そんな馬鹿げた話でその人の価値を決めてしまうのか!?


 世界中の、大多数の人はそう思うだろう。だが、肝心のインド人たちの精神構造の中には、今でも根強くこの偏見が残っている。これがすなわち『因果応報』――“カルマ”と呼ばれるものらしい。


 だから世界有数の数学的素養を持ち、その潤沢な人的資源によって目覚ましい経済発展も遂げ、あまつさえ核兵器まで持つほどの強大な軍事力を誇り、21世紀になって「地域大国」の一角を占めるまでに発展したはずのこの近代国家は、今でも都市部以外の庶民の自宅にトイレがないことが多く、集落の周りが糞便だらけだったりする。


 そう――この国はどこか、いびつなのだ。


 もちろん、日本人の価値観で他国の文化を一方的に批判するのは危険だ。

 だが、少なくとも「基本的人権」というのは、世界中に普遍的な人類の価値観だ。何人も「差別されない権利」「自由に生きる権利」「人間らしい生活を送る権利」を持つ。

 これらは俗に『平等権』『自由権』『社会権』などと呼ばれるが、自由主義国家の場合はこれに加えて『参政権』や『受益権』なども基本的人権に定義されるのが一般的だ(共産国家や独裁国家はその限りではない)。

 だから、自由主義陣営にくみするインドという国は、本来はこれら基本的人権を国民にあまねく保障しなければならないはずなのだ。


 もちろん、インド政府は近代化の過程で、国民の意識改革を強力に推し進めてきた。その具体的な成果がまさに“カースト制度の廃止”だ。

 だが、1950年に廃止されたはずのこの「前近代的で不合理な差別制度」は、100年以上経った今でもインドの人々の間で不文律として明確に生きている。


 異なる階層出身者同士の結婚が未だに許されないのもその一例だ。法律では禁止されていないが、お互いの家族がその結婚を忌み嫌う。仮に当人同士が婚姻を強行しても、親族が押しかけて来て相手を焼き殺してしまうのがオチだ。

 職業選択の自由も実質的にはない。各階層で、就ける職業が昔から決まっていたからだ。


 だから、アイシャの出身階層であるダリットは最悪だ。そもそも「最下層」と言っているが、本来はその階層にすら序列することも許されない、いわゆるアウトカーストなのだ。


 彼らは基本的に人間扱いされず“触れるだけで穢れる”とされたため、一般的なインド人は今でも絶対にダリットに話しかけないし、それどころか彼らが井戸や貯水池など何らかの公共物を使用することすら絶対に認めない。

 保守的な田舎に行けば行くほどその傾向は強く、ダリットが近付いたら鐘や笛を鳴らしてそれを集落の人々に知らせるほどだ。


 だからアイシャはもちろん学校に行ったことがない。もともとダリットの子供は学校なんか行かせてもらえないのだ。家族はみな、汚物を汲み取るような仕事にしか就けず、その家族もある時呆気なく殺されてしまった。

 彼女は生まれながらにして、この世の地獄のような場所で、虫けらのように生きてきたのだ。


 だからきっかけはどうであれ、そんな地獄から自分を何の偏見もなく救い出してくれた李軍リージュンを、アイシャは「リー小父さんチャチャ」と呼んで長年慕ってきた。

 もちろん李軍には別の意図があったのだが、それでも彼女は生まれて初めて自分のことを“普通の人間扱い”してくれたこの男を、盲目的に慕い、絶対的に信頼したのだ。


 もしそれが、李軍ではなく例えば叶とか――誰でもいいがもっと別の、普通の人間だったなら、彼女の人生はもっともっと輝いたことだろう。かつてフランスの地で不当な差別に苦しんでいたサイードファミリーを、石動いするぎ洋介が助けたように――


 だが、李軍はそもそも自分の研究のために、辟邪の能力を持っていた彼女を保護したのだ。当然、その後の生き方は血にまみれたものになっていく。だが――


 それでもアイシャは幸せだった。


 自分を必要としてくれる人がいて、しかもその人は本当に自分のことを大切に思ってくれている――少なくともアイシャ自身には、李軍の態度がそう見えたのだ。

 実際、李軍はアイシャを溺愛していた。彼女の能力が、素晴らしい可能性を秘めていたからだ。


 これは、個別具体的な人格云々ではなく、科学者特有の行動原理なのかもしれない。稀代の天才科学者、叶元尚にもそういう傾向は確かに見て取れる。彼のオメガに対する愛情は、現在はともかく最初の頃は純粋に科学的探究心から発するものだったのだろうということは、容易に想像がつく。

 そして李軍のアイシャに接する態度は、彼が辟邪ビーシェ研究にのめり込めばのめり込むほど、ますます強い愛情を滲ませたものとなっていった。


 だからアイシャは、李軍の要求するさまざまな科学実験に、積極的に協力したのだ。

 他人からの善意を受けたことがなく、愛情に飢えていた彼女は、李軍の歪んだ愛を、それと知らずに自分へ向けた好意だと受け止め、精一杯その愛情に応えようとしたのだ。

 その結果、アイシャがついに身に着けたものこそ『次元転移における触媒能力』だ。


 しかも、彼女の能力発動には、さまざまな付加的現象が付随していた。いや――彼女の過酷な運命を決めたのは、もしかするとむしろ、この付随的現象だったのかもしれない。


 そのひとつが、例の覚醒現象――すなわち大火球による小型熱核爆発現象だ。


 結果としてアイシャは、そのせいで実に多くの人々を死に追いやり、その無意識的後悔、良心の呵責から来る負の感情によって、いわゆる『精神汚染』の能力すら発動させるようになってしまった。

 彼女の“負の感情”が、周囲に伝播するのだ。

 その結果、彼女の精神汚染を受けた大抵の人は、その意に反して強い自殺願望、破滅願望を抱くようになる。


 この能力は、ある種のマインドコントロールだ。

 それは人間のみならず、たとえば獦狚ゴーダンのような獣にも有効だった。出雲攻防戦最終盤での、獦狚ゴーダンの統制の取れた組織的な行動も、すべて彼女の「精神支配」によるものだ。


 そう考えると、やはりアイシャは、結局は不幸だったのだろう。


 彼女の行動原理はたったの二つだった。ひとつは李軍への忠誠。これはもしかしたら愛情のようなものに近かったかもしれない。

 そしてもうひとつは、彼女自身の負の感情に起因する攻撃衝動。結果的に多くの人々の命を奪うことになってしまったことで積み重なっていった彼女自身の「良心の呵責」は、彼女が引き起こす「爆発現象」となってこの世界に表出した。

 これは、すべて自分自身がしでかした「取り返しのつかない黒歴史」を清算するための、ある種の破壊衝動だったのである。


 だから詩雨シーユーが「ゆるす」と言った時、アイシャは初めて李軍以外の人間に心を開いたのだ。


 超回復の異能を発現させていた詩雨は、興奮したアイシャに一度は焼き殺されかけたのだが、それでもまるでヴァンパイアのようにその身を瞬時に回復させながら、アイシャの衝動を受け止め続けたのだ。結果――


 アイシャは生まれて初めて詩雨と「ともだち」になった。

 そのともだちから、アイシャは諭されたのだ。


「赦す――でも、償わなければならない……」


 だから、あの時転移をするにあたって、彼女はその全身全霊を大質量の部隊転移のために使おうとしたのだ。それによって自らの保持していた生命エネルギーを大量消費し、自分の命が失われるリスクを負ってまでも――


 だが、ここでも李軍は邪魔をしてきた。

 国防軍の士郎たちに保護されていたアイシャを“救出する”と称して、自軍の兵士たちに『三屍サンシィ』と呼ばれる異形の生物を寄生させ、わざわざ出雲大社本殿に襲撃を仕掛けてきたのだ。


 この生物――士郎たちが“蟲”と称していたものだ――は、宿主である人間が仮に絶命してしまったとしても、まるでゾンビか死霊術師ネクロマンサーのように人間を操り続ける。

 その“死をも恐れない”――だってもうとっくに元の人間は死んでいるのだ――ゾンビ兵たちの、命知らずで躊躇ない攻撃の間隙を縫って、李軍はついに保護されていたアイシャの元までやってきた。


 そのうえ李軍は、その場にいた士郎たちに圧倒されて追い詰められると、あろうことかアイシャにその『三屍サンシィ』を寄生させ、彼女からその自由意志を奪おうとしたのだ。


 “償い”のため、その命を懸けて彼女が本来持つ『次元転移の触媒機能』を最大限発揮しようとしていたアイシャは、その瞬間そのせいでまたもや前後不覚に陥った。


 直後、出雲大社本殿はまさに大混乱に陥った。

 この狂気の科学者は、結局もう一人の天才科学者、叶との論戦に敗れ、ついに観念してアイシャに仕込んだ『三屍』を解毒したのだが――

 その瞬間――アイシャの腹部は破裂した。


 李軍が、彼女の腹の中に何らかの破壊デバイスを仕込んでいたのだろうか――


 その時、どこかから投げ込まれた“漆黒の物体”は恐らく出雲大社のご神体だ。


 既に転移現象が始まっていたあの状況で、触媒となるアイシャが途中でこと切れては大変困ったことになるからだ。

 転移エネルギーが途中消えになれば、当然転移対象の士郎たち国防軍を始め、等価交換で現世日本に侵攻していた中国軍の引き戻し作業にも大きな影響が出る。

 それを知っていたのは恐らくあの場に同席していたウズメさまだけで、だから緊急避難的に急遽ご神体を投げ入れてくれたのもウズメさまに違いないのだ。


 結果的に――士郎とオメガたちは、元の世界に戻れなくなった。


 より正確に表現すると、その肉体だけは現世に戻ってはいたものの、彼女の人格を成す肝心の『精神』あるいは『魂』と呼ばれるものは、どこか次元の狭間に跳ね飛んでしまったのである。

 ありていに言うと、不安定な次元転移のせいで、遭難事故に巻き込まれたのだ。


 そして一方の当事者、アイシャは――


 なんとか無事に肉体も精神も、元の世界『現世うつしよ』に戻って来ていた。ただし瀕死の重傷を負って――


 もともとあの時点で、アイシャはかなりの重傷を負っていたのだ。何より天敵「オロチさま」に偽神として痛めつけられていたし、オメガたちとの度重なる戦闘のせいで満身創痍だった。


 そこに来て進退窮まった李軍からの、突発的、刹那的な酷い仕打ち――

 腹部が内側から爆発するなど、通常ならあり得ない事態だ。だが、李軍は我が身可愛さに、恐らくアイシャを盾にして逃走を図ったに違いないのだ。


 なのに憐れなアイシャは、こうしてまた李軍の手先として現世うつしよの戦場に立っている。


 せっかく詩雨と「ともだち」になり、自分のやらかしたことの責任を自覚し、“償い”をするためにその身を捧げようしていたはずの彼女は、ふたたび国防軍とは逆の陣営に戻ってしまったのだ。


 それはもしかしたら、パートナーからDVを受けても受けても離れられない女性に似た心境なのかもしれない。愛情に飢えていた彼女は、どうしても李軍との関係に陥ってしまっていたのだ。

 どんなに酷い仕打ちを受けても、一緒にいることが自分のためにならないと分かっていても、それでもまた元の関係に戻ってしまう。そんな生き方しかできない、可哀想なアイシャ――


 モニターに映る彼女は、明らかに異様だった。

 その腹部――転移の瞬間何かが爆発して、致命的な大穴が開いたはずの腹部――には、何か黒い物体が嵌め込まれていた。漆黒の塊――その表面には、何か青い光が細かくうねっている。


 それが、あの瞬間投げ込まれたご神体の欠片だと気付いた者は、李軍以外の中国軍側には誰もいない。


 そして、もともと瀕死だった彼女は既に、肉体的にはほぼ死んでいた。

 今回の転移によって、アイシャはその持てる生命エネルギーのすべてを使い果たしていたのだ。本来ならとっくに絶命していてもおかしくはない。

 なのにまだ立っていられるのは、このご神体の欠片こそが、彼女の僅かな生命の灯火を辛うじて守っていたからに過ぎない。


 まるで何かに操られているかのように、虚ろな瞳がまっすぐモニター越しに李軍たちを睨みつけ、ニヤリと凄惨な笑みを浮かべた。


 孔浩然コンハオラン上将は、その視線に心の底から恐怖する――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る