第432話 講和の条件
「東京湾から逆上陸してきただと――!?」
「は、はい……このままでは、現在皇居を取り囲んでいる我が部隊の後背を突かれ、挟撃されてしまいます」
「ぐぬぬぬぬ……」
その頬はまるで腐ったバナナのように変色していて、見るからに不健康そうであった。おまけに右脚を引きずっている。男はそれを庇うようにして右腕に杖を嵌め、部屋の中心に立ち尽くしていた。
現代日本――中国侵略軍の総司令部。都内近郊某所――
目の前には、東京都心部の大型マップが映し出されていた。マップの各所には赤と青の「凸」マークが多数表示されていて、しかもあちこちに向いている。それが敵味方各部隊の布陣であることは、一目で分かった。今のところ赤と青の色は拮抗している。
マップの中心には、日本の天皇家の居所である江戸城――いわゆる皇居が位置していた。それを完全に包囲するかたちで、自軍を示す青色の「凸」マークが多数描かれている。だが、つい先ほどその南側の東京湾岸沿いに、敵軍を示す赤色の「凸」マークが多数追加されたところだった。
「
「
「想定外!? それをも想定して対策を立てておくのが将たる者の務めではありませんか!?」
ようやく元の世界に戻ってみれば、この有様だ。まぁ、あの極限状況で無事にこちら側に戻ってこれただけでも御の字としなければならないのは分かっている。
だが、戻ってきたら戻って来たで、やはり李軍は諦めきれないのだ。こうやって、現代の日本でも我が中国軍が攻勢に出ている姿を見てしまうとなおさらだ。
「――しかし、一般的に考えてあのような狭い湾内に艦隊が突入してくるなど……しかもあの艦隊は、どう考えてもこの時代の者たちではありませんぞ!? そこまで想定しろというのはさすがに――」
「そんなことは分かっている! だが、事実敵は上陸してきたではないか!? どうするのです!」
現場からの報告によれば、それは第二次大戦中の日本海軍の艦隊だった。
まさか海軍まで現れるとは――
李軍だって、この現象について疑っているわけではない。事実、自分たちだって異なる時空の中国軍をこうやって現代世界に現出させ、宿敵日本への侵攻作戦を行っている真っ最中なのだ。自分たちに出来ることが、敵には出来ない理屈はない。
それに、日本軍は
その時点で、もはや次元転移は自分たちだけの優位的技術ではないということは分かっているのだ。
しかしだからといって、よりにもよって第二次大戦中の大日本帝国の軍隊が現代に召喚されるとは……
軍事力という点において、当時の彼らが世界有数の軍隊を持っていたことは否定しようのない事実だ。李軍だって、軍事史の知識くらい少しは持っている。
第二次大戦中の日本は国民皆兵で、その総兵力は陸軍が約677万人。海軍は約300万人だ。合わせると1,000万に近い大兵力を有していたなど、現代の感覚で言うと想像を絶する規模感だ。
しかも、実戦で空母機動部隊を運用していたのは、世界でたった二ヵ国。この日本海軍と、アメリカ海軍だけだ。その空母同士の艦隊決戦を繰り広げていたのも、世界で唯一この二ヵ国だけ。そして現代に至るまで、その事実は更新されていない。それほど空母の運用というのは高い練度が求められる。つまり――「日本海軍」というのは、それだけ途轍もない存在だったということだ。
そういう意味では、第二次大戦で日本が仮に敗北しなかったら、世界は今頃この日本とアメリカの二ヵ国で分割統治されていたかもしれない。
その点、正史として我が中国がその日本に取って代わり、21世紀初頭唯一アメリカと張り合える超大国にまでのし上がっていたのは僥倖だった。
結果的にその後の中米戦争で我が国が負けさえしなければ、もしかしたら今頃世界の半分は大中華にひれ伏していたかもしれないのに――
ともあれ、そんな筋金入りの時代の日本軍がこの世界に召喚されている――という事実は、我が国にとって悪夢以外の何物でもない。
前線からの報告によれば、幸い空母機動部隊までは確認されていないようだが、あの超弩級戦艦大和が目撃されている以上、とてつもない兵力が現代日本軍に加わったのは間違いないだろう。
おまけに陸軍だ。もともと旧時代の日本軍が目撃されたのは陸軍の方が先なのだ。
自分が並行世界で向こうの中国軍どもを指導していた間、こちらの世界では逆に並行世界の中国軍が大活躍していた。上海を攻略して手中に収め、大陸中に離散していた我が同胞たちをこれによって糾合し、その余勢を駆ってついに日本本土に奇襲侵攻を仕掛けて以来、我が軍は圧倒的優位に戦争を遂行していたのだ。
それが、突如としてつい先日、日本軍が新たな兵力を投入してきたのだという。突然現れたそれら新手の日本軍は、我が部隊をあちこちで蹴散らし、一気に全国の戦線が崩壊しかけたという。
だから李軍はつくづく思うのだ。
手遅れになる前に、自分が無事こちらの世界に戻って来られて本当に良かった――
目の前で恐縮している
彼がこちらの世界に召喚されてきたのは、本当に偶然だった。アイシャを使った転移実験で、突如として現れたのが彼を含む小部隊だったのだ。もちろん、最初から可能な限り高位の将校を召喚するつもりだった。だから意図的に、中国軍の幕僚部を狙って実験を行ったのだ。
だが、結果的に現れた彼はまさしく適任者だった。
最初こそかなり激しく狼狽していたのは事実だが、やがて現実を受け入れ、次いでこちらの“大戦略”を、彼自身の“野望”と上手く連動させてくれたのだ。
それからは、トントン拍子だった。彼は再度もといた並行世界に戻り、
彼ら日本占領軍自体が、既に閑職に追いやられていたことだ。
向こうの並行世界では、世界の最前線は既に欧州に移っていたのだ。
世界史が、一周回って元に戻っていたというわけだ。それはすなわち、西洋と東洋の“文明の衝突”だ。かつてギリシャとペルシアが戦ったように、キリスト教世界とイスラム教世界が戦ったように、白人種と有色人種の最終決戦が始まろうとしていたのだ――
そんな世界にあって、同じアジア人同士の中国が日本を占領するなど、取るに足らない辺境の出来事だったのだ。日本占領軍という地位が、中国軍の中でもはや傍流とされ、閑職となっていくのもまぁ分からないではない。
だから李軍の申し出は、朱上将をはじめとした日本占領軍総司令部の面々に響いたのだろう。
「自分たちの世界だけでなく、並行して存在する別世界の日本をも支配し、しかもその先行するあらゆる未来兵器、軍事技術を我が物にすれば、再び中国軍の中で脚光を浴び、主流派に返り咲けますぞ――」
常に軍内部での激しい権力闘争に勝ち残り、出世し続けなければ、すぐに閑職に追いやられ、二度と再起できなくなる――という人民解放軍特有の世界において、一度階段を転げ落ちてしまった彼らは、こうして見事に李軍の誘いに応じてくれたわけだ。
『
これほどお互いウィンウィンの関係を結べる関係など、そうあるものではなかった。
ともかくこの時から、李軍と異世界中国軍の蜜月は始まる――
その後手始めに、日本占領軍から派遣された異世界中国軍は、こちらの世界の上海を侵攻した。既に諸外国にいいように蹂躙されていたこの地を、我が中国人民のもとに取り戻すためだ。
その作戦の大成功を元にいよいよ決行したのが、今回の日本本土侵攻作戦なのである。
その時彼――
少なくとも100年以上は遅れていた彼らの軍事技術を、李軍の手で一気に近代化したのもそのテコ入れの一環だ。逆にそれがなかったら、こちらの世界にいくら大軍を放り込んでも、簡単に返り討ちに遭っていたかもしれない。
それに、向こうの世界に残存する部隊が同様の近代化を成し遂げつつあったことで、想定外に転移してきた現代日本軍にもある程度対抗できた。
向こうの世界では、結果的に地力に勝る現代日本軍に押し切られるかたちにはなったが、それでも朱上将たちに自分の考えが間違っていないと思わせるだけの力は、見せつけることが出来ただろう。
だが、いずれにしても向こう側の中国軍はもうお終いだ。
現地の日本人たちが一斉蜂起した以上、占領政策の管理責任を本国から問われるのは間違いない。その時に、朱上将が巧みな政治手腕を発揮して弁明に成功するか、それとも十人並みの凡将として詰め腹を切らされるかは李軍の知ったことではない。
いずれにせよ潮時だった。
あとはこの
そうすれば、我が軍は“名誉ある撤退”と称して大陸に引き上げ、その代わりに一定の支配地域を国際社会に認めさせることができる。
そうだな――既に占領中の上海あたりを首都にするか。
『華龍』がもともと支配していた東北三省は、今や何の価値もない荒れ果てた大地だ。失地回復としてそんなところにしがみつくくらいなら、いっそそこの権益は放棄して、代わりに豊かな沿海部をいただいた方が100倍マシだ。
それでようやく、中米戦争で売国奴どもに切り刻まれた祖国――大中華再興のための足掛かりが造れるというものだ……
だからこそ、この世界に現れた大日本帝国軍は厄介なのだ。
思わぬ形でこちらの世界に戻ってきた李軍は、こちらでも想定外の事態――日本帝国軍の出現――が発生し、それによって日本本土侵攻計画が瓦解しかけていることを把握した。
その直後、孔上将に部隊を集中運用するよう、強く要請したのだ。侵攻軍が全国に分散していては、各個撃破されるのを待つだけだ。
「――まぁ、不幸中の幸いだったのは、我が軍の主力をすべて東京に集結させていたことです。今の戦力ならば、そう易々と敵上陸部隊に蹴散らされることはありますまい。しばらくは抵抗してみせますぞ」
孔は少しだけ引き攣った顔を見せながら、李軍に申し開きを行う。
「それは……すぐに軍を集中させるように言ったのは、この私ですよ!? それに、今持ち堪えるだけでは駄目なのです。対等な講和に持ち込むには、日本の象徴である皇居を我が軍が占拠しておくことが絶対必要だ。王家を人質に取られては、連中も強気には出られない」
「それは……分かりますが……日本帝国軍は強敵です。ましてやこの状況から皇居を奪取するなど不可能に近い……もしそんなことをしたら、奴らは特攻を仕掛けてでも奪還に動くでしょう。日本人の皇室への特別な感情を侮ってはいけない……」
孔は、元いた並行世界で占領軍が天皇家をないがしろにしたことが、現在の日本人民一斉蜂起の遠因だと思っていた。その感情は、たとえ世界が変わっても同じだろう。
「――ではこのまま撤退すると!? 何処へ? もといた並行世界ですか? あそこは既に日本人民が一斉蜂起して大混乱に陥っている。現地に残留していた部隊も、こちらの世界から乗り込んでいった現代日本軍に手酷くやられました。朱上将も今や無事かどうか分からないのですぞ!?」
李軍は、その元凶がもともと自分であるという事実はしれっと棚に上げて、孔を叱りつけた。
「ではどうすれば……」
「徹底抗戦するのです。今踏ん張れば、何とか講和に持ち込める。それによって中国大陸の支配権を部分的にでも奪還し、そこを足掛かりに大中華を再興するのです。孔上将、こうなったらあなたが主流派の人民解放軍を一から造り直すのですよ。朱上将の安否も分からない今、全中国軍を統率できるのはあなたしかいない」
これが李軍の狡猾なところである。
相手の琴線に触れる未来を巧みに想像させ、そのために今やらなければならないのはコレだと断言してみせる。それは、あるいは現代の怪僧ラスプーチンとでも言っていいかもしれない。
並行世界に残留している朱上将も、そして目の前の孔上将も、決して愚かというわけではないのだ。だが、李軍にかかれば二人とも、それが一番正しいやり方なのだ――と思い込んでしまう。李軍という人間は、彼らの“夢”を食う怪物なのだ。
「……だが……実際問題として、今の我々には日本軍の攻勢を食い止める手立てが――」
「ありますとも!」
李軍が孔の言葉を途中で遮る。
「……え……?」
「ある、と言ったのです。お忘れですか!? ガンダルヴァのことを……彼女もまた、私と共に無事この世界に戻ってきたのです。さぁ……これからとっておきのショーをお見せしましょう」
李軍はそう言うと、マップの横の現地ライブ映像画面を拡大するよう、
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