第430話 東京湾強行突入

 東京湾は、昔から世界有数の海上交通過密海域である。


 一口に「東京湾」と言っても、その内側には主港である「東京港」のほかに、主要港だけでも「川崎港」「横浜港」「横須賀港」が西側沿岸――つまり三浦半島側に、「千葉港」「木更津港」が東側沿岸――つまり房総半島側の海岸線に沿って位置している。

 そのどれもが国際拠点港湾に指定されていて、利用する船舶はまさに世界中から集まってくる。最盛期には1日500隻以上の大小さまざまな船舶・艦船が行き来したという。


 湾の形状はひょうたん型というか「S」字状というか、とにかく湾口部が非常に狭く、奥行きが深い。そのうえ一部には「第三海堡」という暗礁があって、過去幾多の海難事故が発生した。

 それゆえ、東京湾はとにかく操船が難しいことでも有名だった。


 もちろん戦時下日本においては、その海上交通は極めて限定的である。少なくとも外国船舶の出入りは極端に少なくなった。

 だが一方で、日本の国土自体は今やあちこちが立入禁止区域PAZで寸断されていることから、他の都市域ミッドガルドとのヒト・モノの流れは、今ではむしろ陸路より海路が主流になっている。

 その結果、東京湾の海上交通は下手すると昔よりも多くなっているかもしれない。


 もちろん国防上の理由から、横須賀港とその周辺の「金沢港」「久里浜港」は完全に海軍が占有したが、それ以外の「磯子」以東の主要港は相変わらず民間船舶が頻繁に出入りする共用港だ(もっとも中国軍の侵攻以来、この数週間の民間船舶航行は殆ど見られない)。


 そんな東京湾には、昔から決められた海上交通路があった。

 「浦賀水道航路」と「中ノ瀬航路」だ。


 今から東京湾に入ろうとするイメージで想像して欲しい。まず、房総半島と三浦半島に挟まれた「浦賀水道」という狭い水路に静かに進入していく。平時の対水速力は12ノット以下義務付けだ。ここが東京湾口。ここからまずは北北東方向に進む。一路東京湾内へと進むのだ。


 しばらくすると、右側の房総半島から対岸の横浜市金沢区方向に突き出すかたちで「富津岬」という突端が見えてくる。そうしたら、この富津岬を避ける形で今度は取り舵に針路をとる。左側に横須賀市街を眺めながら、やや北西寄りに進むのだ。ここまでが「浦賀水道航路」。


 富津岬を越えたらここでぐいっと面舵に転舵だ。回頭して今度はやや北東に針路を変える。これが「中ノ瀬航路」。このルートに乗れば、そのまま東京湾の一番奥まで進んでいくことができる。

 ちなみに船舶はすべて右側通行だ。日本国内の自動車通行とは逆。これは国際的なルールでもある。


 さて、「中ノ瀬航路」には注意が必要だ。「浦賀水道航路」の幅が1,400メートルなのに対して、「中ノ瀬航路」の幅は僅か700メートル。一気に道路幅が半分に狭まるイメージだ。おまけに、喫水が20メートル以上の大型船舶はこの海路を通航できない。もっと西側の水深が深いところ、通称「中ノ瀬西側海域」と呼ばれる航路を進む。高速道路で大型車推奨レーンがあるのと一緒だ。


 当然、軽巡矢矧を含む小型の駆逐艦隊は「中ノ瀬航路」を、超弩級戦艦大和は「中ノ瀬西側海域」を並走して進むことになる。


 ところで、今回連合艦隊が目指す上陸地点は、当然ながら「東京港」だ。これはほぼ東京湾の最奥部。

 羽田空港沖で取り舵を切り、中央防波堤を右舷側に見ながらその左側水路を、いわゆる「お台場」沿いに進入していく。

 するとほどなくレインボーブリッジをくぐる。そのすぐ先には「芝浦埠頭」があって、さらにその奥には大型客船が停泊できる「晴海客船ターミナル」がある。上陸地点はまさにこの辺り。最初の橋頭保は「竹芝桟橋」付近という想定だ。


 ここに上陸できれば、現在皇居を取り囲んでいる敵陸上部隊の背後を突くことができる。皇居に立て籠もっている近衛連隊とともに、この連中を一気に挟撃できるわけだ。


 さて、大型艦が通る「中ノ瀬西側海域」の左側に見えるのは、磯子、本牧、そして川崎区の沿海部となる「扇島」あたりだ。この辺りの湾岸工業エリアは、先ほどの艦砲射撃で徹底的に破壊してあった。

 仮に残存兵力が海上に向けて発砲してきても、巨大な大和が盾となって、右舷側――つまり「中ノ瀬航路」を航行する駆逐艦隊はびくともしない。

 問題は、羽田空港沖合を通過してからだった。


 もちろん、入ろうと思えば大和だって竹芝桟橋まで突入できる。

 だが、晴海客船ターミナル付近から以北の湾岸一帯は、もともと都市インフラが密集している関係で、先ほどの艦砲射撃は必要最低限に留めてある。つまり、この辺りの敵兵力は未だ健在である可能性が極めて高かった。

 そんなところに大和が突っ込んでいけば、もちろんその火力は想像を絶するが、同時に海に浮かぶ巨大な的となるのは目に見えていた。艦体が巨大すぎて、このあたりでは回頭すらままならないのだ。

 使い潰すつもりで、つまり桟橋に突っ込んであとは砲台と化すのならばともかく、この日本人の誇りの塊である巨大戦艦を、これからも海に浮かぶ城として使いたいのなら、やはり大和だけは突っ込ませるべきではない。小沢と坂本は、少なくともその点では最初から意見の一致を見ていた。


 沖縄水上特攻の最終的な勝利条件が「沖縄本島に大和を乗り上げさせて、そのまま浮き砲台と化し、乗員3,000名は全員陸戦隊として引き続き沖縄に上陸して戦う」という無茶苦茶な作戦だったことを考えると、これは極めて賢明な判断だった。


 その代わり、羽田沖から先は、駆逐艦隊単独で東京港まで突っ込んでいくのが本作戦の肝だ。その俊足と小回りの利く機動力を生かし、できる限り上陸地点へ肉薄する。


 だが、それには大きな問題があった。

 ここから先は、右舷側のお台場にせよ、左舷側の大井埠頭にせよ、岸壁から航路中央までの距離はせいぜい200メートルほどしかない。つまり、ライフルの銃弾すら岸から余裕で艦隊に届くほどの距離しかないのだ。

 そこを単縦陣――縦一列になって突き進んでいく。盾となる大和が離脱した直後から、途轍もない敵の十字砲火が左右両岸から浴びせかけられるであろうことは、火を見るよりも明らかだった。


 グヮァア――――ン!!!


 突如として巨大な水柱が、冬月の右舷側に立ち昇った。いよいよ両岸からの攻撃が始まったのだ。コンパクトな艦体は、至近弾を受けただけで大きくかしいでしまう。


『右舷ッ! 至近弾ッ!!』


 艦内拡声が叫ぶ。

 帝国海軍式だと、本来なら海戦中にいちいちこんなことは言わないのだが、今回だけは特別だ。

 戦闘の様子が逐一、舷側に吊り下げられた国防軍兵士たちに伝わるよう、坂本から帝国海軍側に頼んであったのだ。

 普段戦況をすべて掌握しながら戦うことに慣れている国防軍兵士たちに、少しでも情報共有してやりたかったのである。


「うわぁぁッ!!」


 甲板こうはん員の大輔は、露天甲板に叩きつけられた。その直後水柱が落ちてきて、少年はずぶ濡れになり、甲板上を滑っていく。途中、甲板の突起物にしこたま膝頭をぶつけてしまう。


「おいッ!? 大丈夫かッ!?」


 安達兵曹が、上陸用舟艇から首を伸ばして露天甲板の大輔を覗き込んだ。国防色の戦闘服が、海水でグジュグジュになっている。左膝から下が、真っ赤に染まっていた。

 余談だが、水兵が皆セーラー服を着ていたというのは幻想だ。特に戦争末期は、海兵たちも大抵陸軍兵のようなくすんだ戦闘服を着こんでいる。

 大輔は顔をしかめながら、それでも気丈に起き上がろうとしていた。先ほどまで背中に背負い込んでいたはずの、ガスマスクの小さなタンクはどこかに流れ去っている。


「――だ、大丈夫ですッ!」


 大輔は何とか立ち上がった。まだまだ! 戦闘は始まったばかりなんだ――

 その瞬間、今度は安達たちがぶら下がっている左舷側から、激しい銃撃が浴びせかけられた。


 カカカカカンッ――!!!!


 幸い艦体が波で大きくうねって、銃弾はすべて弾き飛ばされたようだ。すると突然、艦首方向に据え付けられている65口径10センチ連装高角砲の二番砲塔が、ギュインと左舷側を向く。冬月の主砲は、この高角砲なのだ。


 ダンダンダンダン!

 ダンダンダンダンッ!!!


 殆ど水平角で、左舷側の大井埠頭目掛けて激しい射撃が始まった。砲口から黒煙が立ち昇る。一番砲塔はその逆舷、右舷側のお台場に向かって発砲を開始していた。水筒くらいの大きさの薬莢が、ドカンドカンと次々に甲板上に転がっていく。


 それとほぼ同じタイミングで、今度は中央魚雷発射管付近に設置されている25ミリ連装機銃が狂ったように両舷に向けて発砲を始めた。


 ガガガガガッ――!!!

 ダンダンダンダンッ――!!!!


 ズゥゥゥゥン――

 バシャアァァァァッ――!!!


 また至近弾の水柱だ。安達たちも死ぬほど海水を浴びる。

 落水は、まるで数十メートルの滝に打たれているかのような酷い衝撃だった。下手すると首の骨が折れるかもしれない。

 艦上は、一気に硝煙の臭いに包まれた。


「わぁぁッ――」


 誰かの悲鳴がどこかで響く。その時――


 ゴゥンッ――!!!


 鈍い音を立て、艦橋鐘楼の根元の壁に大穴が開いた。ロケット弾か何かが直撃したのか!?

 直後、バァァァンと黒煙が中から噴き出した。同時にゴゥッ――と火柱が真横に突き抜ける。ようやく立ち上がっていた大輔は、今度はその煽りを食らって横っ飛びに吹き飛んだ。グシャッ――と嫌な音がして、そのまま甲板の上に倒れ込む。

 さらに敵の機銃掃射。カカカカカンッ――と跳弾が火花を散らす。火薬の臭いと海の匂いが混ざり合って、思わず吐きそうになる。

 甲板上の硝煙がすぐに後方に掻き消えるのは、冬月が未だ最大戦速で疾走している証拠だ。


「――おいッ! しっかりしろッ!? ――くそッ!!」


 安達は、上陸用舟艇から半身を起こすと、機体に据え付けられているガトリングガンに手を伸ばそうとした。だが、後方の兵士に止められる。


「やめろッ! 上陸の時に弾薬が足りなくなる!!」

「あぁ?」


 安達は思わず戦友に言い返そうとして、それからハッと気づいたように再び舟艇のシートに座り込んだ。

 そうだ――今は帝国海軍に任せるしかない。我々の使命は、最後の瞬間に初めて駆逐艦から切り離され、竹芝桟橋に殺到することだ。


 深呼吸をして、周囲を見回す。前方の舷側に吊り下げられていた仲間の舟艇が、いつの間にか手酷い有様になっていた。ちょうど一番砲塔と二番砲塔の中間あたりだ。

 舟艇は三つ四つ消失していて、その前後の舟艇も半壊していた。座乗していた水陸機動団の兵士たちが、無残にもバラバラになったまま半分海に向かってぶら下がっている。

 敵砲弾の直撃を受けたのだ。まぁ、お陰で冬月の艦体には殆ど傷がついていないのがせめてもの慰めだ。だが、甲板上はもっと酷い有様だった。


 既に露天甲板は、大量の赤い水たまりとそれがあちこちに流れ出した筋が、前後左右に広がっていた。

 何人もの水兵が、あちこちでうずくまったり甲板に横たわったりしている。みな大輔と同じ甲板員だろうか。先ほどからひっきりなしに続く銃砲撃の嵐の中で、斃れた兵士たちだった。


 ダァァァァンッ!!!


『一番砲塔に直撃弾ッ!』


 艦内拡声が再び悲鳴のような報告を上げる。ほぼ同時に、一番艦首に近い砲塔が、内側から大爆発を起こしてボンッ――と一瞬浮き上がるのが分かった。中から全身火達磨の兵士たちが数人這い出て来て、すぐにこと切れる。


 ボボンッ――!!


 今度は、艦橋のすぐ後ろの煙突部分から一瞬火炎が立ち昇った。それから異常な黒煙がモクモクと上がり始める。吃水下の主罐室が吹き飛んだか――!? 重油の焼ける、嫌な臭いが辺りに充満する。

 冬月は、先ほどよりも少しだけ速度を落としていた。もしかしたら、片軸航行になったのかもしれない。


 次の瞬間だった。


 グワァァァァァァン――――!!!!


 すぐ後方から、雷鳴のような大爆発が巻き起こった。冬月に後続していた『涼月』が、大爆発を起こしたのだ。

 涼月は艦首が突然浮き上がったかと思うと、そのまま一番砲塔の後ろ辺りでバキッと「へ」の字に折れる。直後、涼月の行き足が止まって、あっという間に後方に置き去りにされる。


『涼月、触雷した模様ッ!』


 刹那――二度目の大爆発。主砲弾薬庫に誘爆したか――!?


 ガァァァァァン!!! ダァァァァンッ!!!!

 涼月は、そのままあっという間に火柱を上げて爆沈していく。冬月と同様、両舷には上陸用舟艇が鈴なりにぶら下がっている。数十機の舟艇が、そのまま涼月に巻き込まれる形で海中に引きずり込まれていく。


『――涼月、轟沈!』


 艦内拡声の声が悲痛に裏返る。

 あぁ! なんてことだ――

 恐らく涼月は甲板員が全滅して、懸架ワイヤーを切断できなかったのだろう。舟艇に乗り組んだ多くの国防軍兵士たちが必死で離脱を試みるが、あっけなく次々と海に呑み込まれていった。


 ふと気が付くと、駆逐艦隊はどれも満身創痍だった。安達が冬月の艦橋を見上げた時、既にそこは滅茶苦茶に破壊されていた。天蓋は吹き飛び、窓枠に何人もの艦橋要員が突っ伏しているのが見える。

 だが、それでも冬月は白波を蹴立てて全速前進を続けていた。


 誰かが、まだ生きて艦を指揮しているのだ。そして恐らく主罐室でも、機関員たちが必死で罐を焚いている。操舵室で、舵輪を握っている航海士がいる。そして、まだ二番砲塔は断続的にではあるが両岸に向けて発砲を続けていた。


 すると今度は、艦体中央部にある、61センチ四連装魚雷発射管のところに、何人もの水兵が取りつき始めた。魚雷の航跡を目視確認できる気泡を一切発しない、日本海軍の秘密兵器――『酸素魚雷』の発射準備を始めたのだ。

 誇り高き駆逐艦乗りたちは、まだ戦うつもりでいる――!

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