第408話 繋がる命
ガララララッ――
スライド式のドアを勢いよく開けて飛び込んできたのは、予想通り士郎だった。
「――くるみッ!」
ハァハァと肩で息をしているところを見ると、屋上へリポートからここまで全速力で走ってきたらしい。首許の黒いネクタイは無造作に緩められ、白いワイシャツの襟は大きく広がっている。冬だというのに、こめかみにははうっすらと汗が滲んでいた。
くるみはそんな夫の姿に、少しだけ困ったような顔をして微笑む。
「……士郎さん……だから大丈夫だって……つッ――」
「あッ! くるみっ!?」
慌てて駆け寄ろうとする士郎を、傍にいた助産師が制する。
「あのっ! 奥さままだ大丈夫だと思いますっ……今は少し……」
そこまで言って、その若い女性は先を言い淀んだ。
理由は明らかだった。くるみが、ベッドの脇に中途半端な格好で腰をかがめて立っていたからだ。右手はベッドのヘッドレストをぎゅっと掴み、左手はマットの上に添えている感じで。要するに、何だか電車の中で倒れそうになりながら、中腰で掴まるおばあさんのような恰好なのだ。
「――えと……何でそんな恰好……」
士郎は困惑して誰訊くとなく尋ねる。するとくるみが苦しそうに口を開いた。
「――あのね……今ちょっと苦しいから、助産師さんが一番楽な体勢で居ていいよって……それで今はこの格好が一番楽というか……」
あ――そうなんだ……という顔で士郎はくるみに恐る恐る近づく。だが、声には出さないまでも、くるみは時折苦しそうに顔を歪ませる。
「ほ、ホントに大丈夫なのか!?」
「へ……平気だよ……まだ陣痛の間隔だいぶあるから――」
「あの……ご主人さま? 奥さまの仰る通り、まだまだお産までには時間がかかります。一度向こうの談話室で一息入れられては……?」
話しかけてきたのは、最初に士郎を制した子とは別の助産師だった。彼女は直後、テキパキと何やら周りのスタッフに指示を与えると、士郎が飛び込んできたことで恐らく一時中断したであろう作業を再開させる。
なるほど……どうやらこちらの方が本物の助産師で、最初の子や周囲のその他のスタッフは、助産師補助かナースなのだろう。
「――ご主人さま!? ほら、奥さまの身体に障りますから、一旦出てってください」
「あ――あぁ……」
体よく追い出されてしまった士郎は、あらためて扉の上に書かれた表示を見る。
『出産準備室』――
なんだ……ホントにまだ産まれそうにないんだ。張り詰めていた緊張が、急に弛緩する。すると、部屋の中から先ほどの助手たちが騒いでいるのが少しだけ漏れ聞こえてきた。
「――すごーい! チーフ、大尉さん追い出しちゃった」
「当たり前です。大尉だろうが大佐だろうが、ここでは妊婦が一番偉いんですっ」
「あはは……」
最後の笑い声は、くるみだった。だったらひとまず安心だ。士郎はなんとなく廊下の向こう側に視線を送る。すると、突き当たりに何やら明るい電気の点いた部屋がチラリと見えた。あれが談話室かな――
士郎はパタパタとスリッパの音を立てながら、そちらに歩いて行った。
***
くるみは、いよいよ追い詰められていた。
出産がこんなに大変だとは……覚悟はしていたが、世の中にはこれほど辛いことがあるのだと改めて思い知らされる。
何せ、立ってても座ってても横になっても、苦しくて苦しくて堪らないのだ。腹の中にいる新しい生命は、いったい外に出たがっているのか出たくないのか、さっぱり分からない。もちろんくるみ自身は早いとこ産み落としたいのだが、これが出そうで出ないときた。一番つらい状態のまま放置されている――というのが今の正確な状態だった。
気が付くと、先ほどまでたくさんいたスタッフは、皆部屋の外に出ている。長期戦と想定して、態勢を組み直しているのか――
残っているのは、若い助産師補助の子がひとり。
「――大丈夫ですかっ!?」
くるみの苦しそうな様子を見かねたのか、その若い女の子が背中をさすってくる。直後――
「触んなッ!!」
「ひゃっ! すっ……スミマセンッ」
苦しさに、思わず怒鳴ってしまった。まったく――何やってんだこのガキは!? 殺す気かッ!!
心の中で酷い悪態をついてしまう。
こんなとこ、絶対に士郎さんに見せられない。私、滅茶苦茶性格悪いみたい……だってホントに苦しいんだもん! 軽く触られただけで、それまで何とか小康状態を保っていた身体の防衛機構が、一気に突破されそうになったんだもん――!
傍らに立つ先ほどの補助スタッフを、チラッと盗み見る。すると、くるみに怒鳴られたことが余程ショックだったのか、彼女は少しだけ涙ぐんでいた。あらためて観察すると、歳の頃はどうやら自分よりも随分若いようだ。もしかしてまだ高校生? 学徒動員だろうか……ということは、恐らくは戦場になど出たことないのだろう。くるみから見たら、まるで何も知らない無垢なお嬢さんだった。
「……あなた……さっきは怒鳴ってごめんなさい」
お腹全体に広がる、ギリギリと万力で締め上げられるような感覚は相変わらず不快だったが、この気まずさも同じくらい不快だった。他人のことに気を回すほどの余裕は正直ないが、それでもさっきのは私が言い過ぎた。
「――い、いえっ……」
くるみに謝られたことが意外だったのか、真っ赤に目を腫らしながらも、彼女はなんとか笑顔を取り繕ってこちらを見つめ返した。
「……気を紛らわしたいの……何かお話しましょ……」
不意に襲ってくる痛みに時々顔をしかめながら、くるみもなんとか笑顔を作る。すると、彼女は自分が嫌われたわけでないと悟ったのだろう。さっきよりもパァっと笑顔を咲かせてくるみに向き直った。
「は、はいッ! あの――」
「まだお名前聞いてなかったわね……?」
「あ、えっと……まゆ……ひろせまゆ……と言います」
「そう……どういう字を書くのかしら?」
「えと……日露戦争の旅順港閉塞戦で有名な広瀬中佐の広瀬に、
……ん……?
くるみは、その名前に何だか聞き覚えがあるような気がした。だが、記憶はぼんやりしていて今ひとつ思い出せない。
「――じゃあ……繭ちゃんでいいわね……あなた、学生さん?」
「あ、はい……中学を卒業してすぐ、軍の看護学校に入ったんです。軍学校に入ると授業料もタダだし、お給料も少し貰えますから……いま、一年生の後期実習なんです」
ギンッ――
不意に鋭い陣痛がくるみを襲うが、少しだけ我慢していると、やがてまた穏やかになってくる。
繭は、妊婦の陣痛に周期があることくらいは承知している様子で、くるみが痛みを我慢している間、じっと波が過ぎるのを待っていた。
「……ふぅ……大丈夫よ……お話を続けましょ」
「は……はい……」
繭は気が付いたようにミネラルウォーターの水差しを手渡す。くるみはそれを受け取って、こくりと一口飲んだ。
「――じゃあ、さっきからたくさんいるスタッフの女の子って、みんな実習生なの?」
「はい……すいません……今、ベテランさんはみんな戦争に駆り出されてて……あ、でもチーフは凄い人ですからご安心ください!」
「そうなんだ……」
確かに、今の時代キチンと機能している行政サービスは、軍や警察くらいのものだろう。民間の医療施設は度重なる戦闘被害や停電などのインフラ障害のせいで、まともに機能しているとは言い難い。
民生サービスを兼ねて、軍の医療関係者はたびたび全国各地に派遣されているのだ。
「――あの! くるみさんの旦那さまって、凄い人なんですよね!?」
繭が、不意に話題を変えてきた。でも、士郎さんの話なら確かに今の私にピッタリだ。何せ、この苦しみと痛みは全部あの人のためだと思えば、少しも苦にならないから――
くるみは、何時間かぶりに作り笑顔でない微笑みを浮かべる。
「そ……そうかしら!? ずっと一緒にいたから、第三者の印象は良く分からないけど――」
「凄いですよ! だって、あのオメガ特戦群の隊長さんなんですよね!? さっきも制服に殊勲十字章付けてたじゃないですか!?」
凄い勢いで繭が食いついてきた。確かにあの勲章は、一般的には「死者に与えられる名誉」として有名なものだ。しかも、その勲章に値する者は、過去に数人しかいないと聞いている。だが、それだってくるみからしたら当然だ。だって、士郎さんはそれに十分値するだけの武功を上げたのだから――
「……あの人は……ただ一生懸命なだけなのよ……実を言うとね、アレだって、本当は辞退するところだったのよ」
「えぇっ!? なんでですか? あれほど名誉なことないのに!」
「これは、自分一人が受けていいものじゃない――受けるなら全員で、全員が受け取れないなら俺は辞退する……って」
「全員って……もしかしてあのオメガ兵士たちのこと!?」
「そう。あのオメガたちよ」
オメガ――
それは、今や国民の間で伝説となっている、異能を持った
だがその割に、オメガたちに関する情報は皆無なのだ。
世論に押される形で、人数だけは軍が公式に発表したが、その6人が具体的にどこの誰で、今何をしているのかなどの詳細は、一切伏せられている。国家最高機密なんだそうだ。
だが、オメガたちと一緒に肩を並べて戦った多くの特戦群兵士たちの口から、断片的に彼女たちの情報が都市伝説のように巷に伝わっている。人の口に戸板は立てられないのだ。
もちろんSNSや何らかの出版データなどにオメガのことが書かれたら、秒速でその情報は削除される。世界中のネットワークに、国防軍のクローラが張り巡らされているからだ。
だから余計に、オメガの話題は人々の間で増幅する。国民は、本能的に勝利の裏側を知りたがるのだ。そうして、この戦争の意味をそれぞれの人生の中で総括したいのだ。
「……でもね、そのオメガたちが彼に言ったの。私たちのために受けてくれ――って。私たちは、所詮軍事機密だから、どうやったって表には出られない。でも、人々は英雄を求めているんだって。その英雄から、私たちがどんな思いで、どう戦ってきたのか、いつの日か正しく伝えて欲しいって……」
それを聞いた繭は、驚いたようにくるみを見つめた。その顔は、まるで凍り付いたように……そして、信じられないモノでも見るように、瞬きすら忘れている。
「…………まさか…………」
その時だった。
「――うッ!! くぅッ――」
くるみが急に嗚咽を上げて苦しみ出した。ベッドに横倒しになり、激しく悶絶する。
「――き、来たッ! 今回は……ホンモノっ!!」
「わッ! 分かりましたッ!! 今すぐチーフを呼びますッ!!」
繭は言うなりナースコールに飛びついた。
「チーフっ!! くるみさん、陣痛ですッ!! おっ……お願いしますッ!!」
廊下から、バタバタバタと多数の足音が聞こえてきた。繭は、すぐに分娩室への移送準備を始める。
***
「はい吸って吸ってぇー……吐くー……吸って吸ってー……吐くぅ……」
「――もうすぐですよぉー、しっかりしてねぇお母さん……」
「はい頭見えてきたよぉー……はい、いきんでっ!!」
「んがぁぁぁッ!!」
「もうちょっと! もうちょっと力入るかなぁ!?」
「ふぅぅぅぅんッ!!」
「はーい! 頭半分出たよー! ここで力入れちゃダメよー……力抜いて抜いてー」
「ここ切っちゃお、ここ」
「はいッ!」
「はーい、もう一回いくよー、大きく息を吸ってぇ……」
くるみの周囲には、助産師チーフを中心に、多くの学生スタッフが押し寄せていた。みな真剣そのものの顔だ。士郎は、くるみの頭の方に立つように言われ、今は彼女の左手を握っている。さっきから、その左手は痛いほどきつく握り締められていた。既に手汗でビショビショだ。
「んんんぁぁあああッ!!!」
くるみが、今までで一番いきんだ瞬間だった。
「――おー、ほらほら! いいよぉ……よしっ! 生まれたぁ」
「ふぅぅぅっ――」
くるみが、大きく深呼吸した。左手の力がふっと緩む。次の瞬間――
「――おにゃぁっ! おにゃぁっ――おにゃぁっ!!!」
「おー、泣いたねー! よかったねぇー」
助産師が、明るい声でその場にいた皆に聞こえるように言う。つまり――
「――はーい、元気な赤ちゃんですよぉ……女の子だね」
その瞬間、周囲の学生スタッフたちが「きゃぁ……」と控えめに喜びを表した。そして何より、くるみがホッとした顔で頭の上の士郎を見上げてくる。
肝心の士郎は、なぜだか感激してしまって、鼻の奥がつーんとしている。目頭が、ちょっとだけ熱くなった。
助産師が取り上げたばかりの赤ん坊を手早くおくるみに包むと、くるみの胸に置く。彼女はそれを愛おしそうにそっと抱いた。繭が、彼女の額に浮かんだ玉のような汗を拭く。
「はじめまして……」
くるみの第一声だ。だが、すぐに肩を震わせる。笑っているのか……?
「くるみ?」
「……くくくっ……やっぱり士郎さんの言ったとおりだ。おサルさんみたい……」
その言葉に、助産師たちがぷっと表情を緩める。二人の愛の結晶が生まれた瞬間は、そんな風に過ぎていった。
「あの、ご主人?」
声をかけてきたのは繭だ。ん? と小首を傾げると、小さなタグとペンを差し出してくる。
「――お名前を……もし決まっていたら……」
「あぁ……」
新生児の足首に取り付けるタグに、名前を記入しろということなのだ。このあとこの子は検査のために一旦預けられ、くるみもその間疲れを癒すのだ。
「――これで」
キュキュキュっと書いた名札タグを差し出すと、士郎はあらためてくるみと見つめ合った。繭は、そのタグを大事そうに赤ん坊の左足首に巻く。
「――
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