第409話 ホーリーナイト
どうしてこうなった――
亜紀乃は、水浸しになった室内を呆然と眺めながら、一体何がどうしてこうなっているのか、必死で思い出そうとしていた。
「――おーい、こっちは点検終わったぞぉ! 10分後に撤収完了だ」
「はッ!」
さっきから周囲で忙しく歩き回っているのは、銀色の防火服を着た消防士たちだ。大抵が軍隊経験者なので、彼らの立ち居振る舞いとか遣り取りは、なんだかとても懐かしい。
「えっと、お嬢さん? 取り敢えずキッチンとリビングは、完全に鎮火しました。洗面所の洗濯機はもう使えないでしょう。いずれにしても室内は水浸しなので、お部屋は何らかの修繕が必要です。お兄さんは火災保険に入っているようですから、後は保険会社と相談してください。それではっ」
小隊長と思われる隊員が、丁寧に説明してくれた後ビシッと敬礼して去っていった。亜紀乃は思わず答礼するが、その目はグルグルの蚊取り線香状態だ。
その時、亜紀乃の携帯端末がピピピピと鳴る。
ビクっと驚いた亜紀乃だが、画面に表示された「お兄ちゃん」の文字を見て、諦めて通話ボタンをタップした。
『――亜紀乃か!? 大丈夫かッ!? いま――』
『うぅ……ごめんなさいぃ! またやってしまったのぉ……』
『……無事なんだな!? そうか――じゃあ、取り敢えず今から帰るから、そのまま何もするんじゃないぞ! いいか、何も触るなよ――』
***
「――それで、オーブンでブラウニーを焼いている間に、洗濯しようとしたんだな!?」
「うん……」
「んで、洗濯機からなぜだか泡がいっぱい出てきて洗面所が泡だらけになり……そしたらキッチンで火災警報が鳴って……行ってみたらオーブンが発火してて……」
「うん……」
「部屋のスプリンクラーが作動したらリビングのモニターが火花を散らして爆発したと……」
「うん……」
「んで今度は洗面所からも黒煙が上がってて手が付けられなくなった……」
「うん……ごべんだざいぃぃぃ……」
亜紀乃はまるで幼児のように泣くしかない。もはやどう言い繕っても、情状酌量の余地はなさそうなのである。
「――まずお鼻をかみなさい」
そう言いながら、士郎お兄ちゃんは半ば呆れ顔でティッシュを寄こしてくる。
ずびびびっ――
「はい、今度はその煤まみれのお顔を拭く」
そう言って渡してきたのは、水で濡らして軽く絞ったタオルだ。亜紀乃はそれを素直に受け取ると、ゴシゴシと汚れた顔を拭き、その後もう一度ずびびびびっ――と鼻をかんだ。
「――ま、とにかく怪我がなくてよかったな、キノ」
士郎は大きく手を広げて亜紀乃に微笑みかけた。
「お兄ちゃんっ!」
亜紀乃はガバっと抱きつくと、士郎の胸に縋りつく。そしたらまた涙が出て来て、エンエンと泣いちゃうのだ。すると、士郎は亜紀乃の頭をよしよしと撫でる。それがまた心地よくて、亜紀乃はいつまでもお兄ちゃんから離れられないのだ。
まったく、我ながらとんだ甘えん坊だ。だけど、私には許される。だってこの人は、私のお兄ちゃんなんだもの――
それにしても、お兄ちゃんは私がどんなに失敗しても、絶対に怒らない。世の中のお兄ちゃんって、こんなに優しいモノなんだ!?
だとしたら、世の中の「妹」という人種は、なんてオイシイ存在なんだ。亜紀乃は、自分が獲得したこの地位を、絶対に離すもんかと改めて決意する。
***
久瀬亜紀乃が
戦争が終わって世の中が落ち着きを取り戻し始めると、オメガ特戦群にもようやく平和がやってきた。別命あるまで、隊員たちには平均して3ヶ月、人によっては半年近くの長期休暇が与えられることになったのだ。
彼らは特に激戦地ばかり渡り歩いてきたから、それは一種のモラトリアムだ。大抵の兵士は戦争が終わってしばらくすると、魂が抜けたようになってしまう。だったら先に休暇を与え、リフレッシュして戻ってこさせた方が離隊率も下がる。
経験則でそのことを知っていた上層部は、多くの隊員にしばらく軍を離れることを勧奨したわけだ。
当然大半の者は、大喜びで郷里に帰っていった。
そんなある日、基地の食堂にポツンと独り座っていたのが亜紀乃だ。
あの時は、ホント途方に暮れてたな――
亜紀乃はふっと思い出す。何せ自分には、家族というものが存在しない。もちろん「故郷」と呼べるものも――
軍の極秘プロジェクト『ホムンクルス計画』によって生まれた自分には、生物学的な家族がいないのだ。そもそも私はクローン体だ。今回の作戦で、自分を形成するメインフレームが「黒岩綾瀬さん」という少女であったことを思いがけず知ることになったのだが、その彼女自体は随分昔に原爆でお亡くなりになっているし、異なる世界に実在した彼女のお兄さんは、戦闘中に死亡してしまった。
つまり、やっぱり私は天涯孤独なのだ。半年くらい自由にしていいぞ――と言われたって、どこにも行くアテはない。
「――あれ? どうしたんだキノ!?」
そこに現れたのが士郎中尉だ。いや、今回の一連の作戦で武勲を上げた中尉は、つい先日大尉に昇進したばかりだった。おまけに立派な勲章まで貰って……私としても鼻高々だ。
「……えっと……私……行くところがないのです……」
私がすんなり正直に理由を話した途端、中尉……いや、大尉は目を丸くしてじっと私を見つめたものだ。
「――そういえば……そうだったな……じゃあ、俺と一緒だな!」
「え!? ちゅ……大尉もですか!?」
「あぁ、だって俺、家族いないもん」
そう言うと、大尉は私の横にドカッと座った。そう言えば昔……渋谷で大尉の後見人のシリア人の、たしか……サイードさん? のお店で、お父さまの話を聞いたっけ……結局ご家族全員が、放射能汚染による影響で亡くなられたって……
だから私は、大尉にあんなことを口走ったのかもしれない。
「じゃ……じゃあ……わ、私がその……淋しい大尉の……お話相手になってあげるのです」
それを聞いた瞬間、大尉はビックリしたように固まって……それから嬉しそうに私の手を握った。そんなことは初めてだったから、ちょっとだけ、ドキドキしたのを覚えている。
「――え、本当か!? じゃ、じゃあ……年末年始、俺んちに来るか!?」
「えっ!? 大尉のお宅にですか?」
「あぁ、どうせ誰もいないし……まぁ、サイードの店には顔出すかもしれんが、それ以外は特に予定も入ってないからな! 一緒に年越しそば食べて、餅食って、初詣に行こうぜ!?」
「そ……そんなこと――」
その申し出がどれだけ嬉しかったか、お兄ちゃんはあの時気付いていただろうか!?
だって物心ついてからこのかた、そんな年中行事なんて一度も経験したことがなかったのだ。私の居場所は基本的に研究所だったし、それ以外は常にオメガ部隊にいた。要するに、普通の人が普通に経験する普通のことを、何一つやったことがなかったのだ。
「……ダメか……?」
いつまでも返事をしない私に遠慮して、大尉が半ば諦めたように困った顔をしてきたので、もちろん私は即答したのだ。
「い、いえっ! 大丈夫なのですっ! えと……何ならクリスマスも!」
「そ、そうか!! よしっ――じゃあ、決まりだな! えと……じゃあ一週間後! 一緒に帰省すんぞ!」
「は、はいなのですっ!」
それからの私は、たぶん今までの人生の中で一番ウキウキしていたと思う。基地の中で、一度叶少佐――いや、この人も昇進してようやく中佐になったんだっけ――と擦れ違った時も、
「――あれ、そう言えばキノちゃんはどうする? 何なら研究所開けとくけど」
と聞かれたのだが、その時私は勝ち誇ったように答えたのだ。
「いいえ、私、年末年始は予定があるので、大丈夫なのです。あ、しばらく帰らないかもしれないのです」
「へぇ……」
あの時の中佐の困惑した顔――!
私の事情を知っているのは、隊の中ではたぶん士郎大尉と、それからこの叶中佐だけだ。私にどこか行くアテがあると知って、中佐もさぞ驚いたことだろう。でも、私だっていつまでも籠の鳥ではないのだ。
クリスマスだって、お正月だって、まぁ……それが実際どんなものなのかは今ひとつ分かっていなかったのだけれど、私はいよいよ“大人の階段”を登るのだ――
***
で――クリスマスイヴの夜。
亜紀乃は夢のようなひとときを過ごしていた。数日前、初めて大尉のおうちにお邪魔した時は、びっくりするくらい殺風景だったのだが、今夜は部屋中に電飾が飾られ、クリスマスツリーなる大きな植木鉢も置いてある。といっても、それは本物の木ではなく、いわゆるイミテーションツリーだ。
その木にはいろいろな飾り――オーナメントと言うらしい――がぶら下げてあって、そこにもピカピカの電飾が光っていた。
「凄い――私、クリスマスって初めてなのです!」
「そうなのか!? まぁ、日本のクリスマスは適当だから、みんな何かキラキラした感じにして、楽しく過ごすだけなんだが――」
「このキラキラの木も?」
「あぁ……これ、ちょっと子供っぽいだろ? でも大事なものだから、毎年誰もいなくても、こうして飾ってるんだ」
「……大事な……?」
「あぁ、
そう言うと、大尉はどこか穏やかな目でツリーを見つめていた。私はその時何も言えなくて……
「……まだ家族がみんな元気だった頃、うちでは妹がクリスマス隊長だったんだ。そんで、いろんなデコレーションやら、プレゼントの買い出しやら、家族で一緒にやるゲームを何にするかやら、そういうのを楓が全部仕切って……楽しかったなぁ……」
最後の方は、たぶん大尉は鼻声になっていた。でも、私に気を遣ったのか、絶対に感情が決壊することはなく――
でも、そんな大切なツリーを、こうして今年は私が一緒に楽しんでいる。私に、幸せな時の記憶をお裾分けしてくれる士郎大尉の心遣いが、なんだかとっても胸に沁みた。
「――そうだ! これを忘れちゃいけない」
そう言って大尉が冷蔵庫から取り出してきたのは、ホールケーキ。
生クリームに、たっぷりのイチゴが乗ってるやつ。でも、二人で食べるには何だかちょっと大きすぎて……
――!!
そうか――その瞬間、私は理解したのだ。大尉にとって、クリスマスは家族を偲ぶ大切な日なのだと――
この大きさは、きっと家族4人分の勘定だ。
「ケーキだ!」
私は、できるだけ無邪気にはしゃいでみせた。気をつけていないと感情が溢れて、涙が零れそうだったからだ。
けれど、せっかく大尉が私のために楽しそうに振る舞ってくれているんだ……私が楽しむことが、きっと大尉にとっては何より嬉しいに違いない。
「そう、クリスマスはな、ケーキを食べるんだぞ! どれ、切ってやろう」
「あっ! 私が切るぅ! ねぇねぇいいでしょ!?」
「お……おぅ……じゃ、じゃあ頼む! 俺、おっきいやつな!」
「もぅ! ちゃんと均等に分けるからねー」
気が付いたら、私はとっても打ち解けた話し方になっていた。
だって、いつの間にか大尉が、本当のお兄ちゃんのように思えてきたからだ。そしてそんな私の無自覚な変化を、大尉は何よりも喜んでくれていた。
今になって考えると、もしかしたら妹の楓さんと私を、重ねてくれていたのかもしれない。確か、妹さんが生きていれば、今の私の年齢と同じくらいのはずだったと思うし。
それからはいっぱい笑って、いっぱいおしゃべりして、もう満腹になって――
そろそろパーティーも終わりかな、と思った時、大尉が小さな箱をすっと差し出してくれたのだ。
「これ――プレゼント」
「えっ? プレゼントって!?」
「そっかぁ――キノはクリスマスのこと、知らないんだもんなぁ」
へへへっと笑いながら、大尉は私の頭をポンポンと優しく叩いた。多分、大尉はお酒も少し入っていて、無意識にお兄ちゃんぽくなっていたんだと思う。少しだけ、呂律が回ってなかったのは、もしかして照れ隠しだったのか。
「――クリスマスはな、大切な人にプレゼントを渡す決まりなんだ」
そう言って、私の手を取り、小箱をきゅっと握らせた。「――ホントはサンタがプレゼントを持ってくるっていう設定なんだけどな……」とかブツブツ言いながら、話を続ける。
「俺にとって、キノはとっても大切な……妹みたいな存在で……だからこれ……受け取って欲しい」
「あ……開けていい?」
「もちろん」
私は、その時ドキドキしながらその小箱を開けたのだ。なにせ、誰かからプレゼントを貰ったのは、その時が初めてだったから――
パカッと開けたその箱の中には、可愛らしいリングが入っていた。
「――指輪……?」
「うむ……コイツはな、要はベビーリングだ」
「ベビー……リング?」
亜紀乃はこれでもれっきとした14歳の女の子だ。ベビーと言うには少し……
「ゴホン……つまり何が言いたいかっていうと、これはお前がこの世に生まれてきたことに、あらためて感謝するってことだ。普通はな、こういうのをプレゼントするのは両親なんだろうけど、ぶっちゃけいないじゃん!? だから、俺が代わりにな……」
それを聞いた途端、私は鼻の奥がつーんとなるのを感じた。大尉が続ける。
「クローンだか何だか知らないけど、そんなことは関係ない。とにかく、生まれてきてくれてありがとう。そして、これからもよろしくな」
ガバッ――と私が大尉に抱きついたのは、だから極めて自然なことだった。こんなことを言われたのは初めてだ。自分が何のために生まれてきたのか、考えなかった日はない。だけど、そんな小難しいことは横に置いといて、私の存在そのものをこんなにも真っ直ぐに、全面的に肯定してくれた人を、私は他に知らない。
涙でぐじゅぐじゅになりながら、私は大尉にこう告げる。
「あのね、大尉……私、プレゼントの風習なんて知らなかったから、何も準備してないの――」
「あぁ、そんなこと気にすんな」
「違うの……だから、私のプレゼントはこうする」
私は、大尉に抱きついた。
「――えっと、私は、大尉に私をあげる! 私、大尉の妹になりたい」
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