第22章 選択

第407話 幸せの理由

 よく晴れた冬の空。

 キッチンの温かい熱気が流れたのか、外が寒すぎるのか、リビングの窓は枠の部分がほんのり結露していた。そこから見える外の景色は、すっかり冬の装いだ。庭に植えたカエデの木の枝は寒そうに縮こまっていて、今は冬支度でもするかのように、淡い薄緑の幹が黒ずんでいる。

 だが、部屋の中は程よく温かくて快適だ。窓さえ開けなければ、春のような心地よさ――


 味噌汁が煮立たないよう、くるみは慌ててコンロの火を弱火にする。ご飯は少し前に炊き上がっていて、程よく蒸し上がったところだろうか。

 カウンターキッチンの向こうに置かれたダイニングテーブル。くるみはそこに焼きシャケと玉子焼き、そして絞った大根おろしをワンプレートにした皿を、二つ向かい合わせに置いた。醤油さしも忘れては駄目だ。最後にカチリとそれぞれの定位置に置いたのは、箸。自分のはピンク、旦那様のは紺色だ。


「――よし……」


 満足そうに食卓を見回したくるみは、ささっとエプロンを外した。準備完了――完璧だ。

 だが、少しだけ思案すると、なぜだかもう一度エプロンを着け直す。軽く髪を手櫛でかすと、そのままパタパタと廊下を歩いて行った。


 カチャ――

 寝室のドアを開けると、旦那様はまだ夢の中だった。

 昨夜は帰りが遅くて寝るのも遅かったから、まだまだ寝足りないのだろう。ふかふかの掛布団にくるまったままで、気持ちよさそうにすやすや眠る旦那様を見ているうちに、くるみは急に甘えたくなる。

 そのままそーっとベッドの端から布団の中に潜り込むと、ちゃっかり彼の腕の中に納まった。


「……ん……んん……」


 その気配を察したのか、旦那様がもぞもぞ動き出す。知らないうちに抱きついた格好のくるみを、まるで抱き枕だと勘違いしたかのように、目を瞑ったままぎゅっと抱き締めてくる。


「へへ……」

「……ん?」


 その時、ようやく違和感に気付いたのだろうか。旦那様が薄目を開けた。一瞬自分が何を抱き締めているのか分かってないようだったが、すぐに気が付くとそのままくるみのおでこにチュッと口づけをする。


「――おはよ」

「うん……おはよ……朝ごはんできてるよ」

「――こんな起こし方してくれるのも、きっと今だけだよな」

「そんなことないよ。私はずーっと、10年後も、20年後もこうやって起こしてあげるつもりだよ」

「どうだかな……子供が出来たら、きっとそれどころじゃないと思うぞ?」

「えー? そうかなぁ……」

「そうだよ。絶対だ」

「えぇー……」


 そう言いながら、旦那様はエプロンを着けたままのくるみのお腹をそっとさする。


「……もうすぐだな」

「うん……予定日まであと10日もあるけどね」

「どっちに似てると思う?」

「もう……またその話だ。きっと士郎さんにそっくりだよ」

「いや、生まれた直後はサルに似てるらしいぞ」

「えーヤダぁ……うふふ」


 出産のタイミング的には、結婚してから身ごもったのか、身ごもったから結婚したのかなかなか微妙なところではある。だが、この10か月はお互いびっくりするくらい順調だ。


 戦争も終わり、士郎も最前線の戦闘部隊から士官学校の教官に配置転換になった。もちろんオメガ特戦群という部隊は健在だが、今はみな、ゆっくりと心身ともに疲れを癒すタイミングだ。士郎以外にも、隊に所属したまま軍の別任務に就いた者も多い。完全に隊を離れられないのは、きっと機密事項がらみの事情だろう。

 もっとも士郎の配転は、結婚の報告をした途端にあっさりと決まったものだ。きっと上層部が気を利かせてくれたのだろう。これも一種の論功行賞なのだ。

 それに、どのみち軍を退役する予定だったくるみにとっては、士郎が後方に配転されることは、何よりもありがたい人事だった。


 朝食を済ますと、士郎は第一種軍装に着替える。

 もうすっかりこの出で立ちにも目が慣れたくるみは、士郎のネクタイをクイと整えた。灰白色のパリっとしたジャケットの胸元には、多数の略綬が並んでいる。その中でも、特に目を引くのは『ア号作戦従軍章』『イ号作戦従軍章』そして、異世界日本を縦断して敵を蹴散らした『列島打通作戦従軍章』だ。おまけに『旭日殊勲十字章』まで付いている。生きている人間でこれを着けているのを見たことのある者は、恐らく殆どいないだろう。

 さらに、その略綬の上部分には、オメガ特戦群所属の特殊部隊員であることを示すシルバーの徽章がきらりと光る。反対側の胸には、士官学校教官であることを表す教官バッヂが付けられていた。


「――こんなの付けてたら、士官学校でみんな廊下の端に避けるでしょ?」


 ハルビン攻略戦から始まり、侵略された日本本土防衛作戦、それに続く異世界での反攻作戦、そして帰還してからの完全勝利に至るまで、オメガ特殊作戦群の武功は今や国防軍の中で伝説となっている。士郎の軍服を飾る数々の装飾が、着用する人物の経歴の凄まじさを無言でアピールしているのだ。


「そんなことないぞ!? みんな、面と向かってはあからさまな反応しないのが暗黙のルールなんだ。まぁ、街に出るといろいろ得することが多いけどな」

「えー? お店の女の子とかに自慢話とかしてないでしょうね……」

「しないしない――軍服でそういう店に行かないし。てかほら、時間……」

「えぇ……どうだかなー!? ま、いっか。士郎さんは今のところ私にメロメロみたいだから」

「そうだぞ!? 今日もあんまり無理するんじゃないぞ」

「わかった……いってらっしゃい、大尉さん」

「おう――いってきます!」


  ***


 士郎を送り出してからのくるみは、案外忙しい。

 朝食の後片付け、洗濯、部屋の掃除。それから庭の手入れ。全部午前中にやっておかないと後でおっくうになるから、なるべく中断せずに一気にやってしまうのがくるみの流儀だ。

 洗濯物は、冬でもなるべく外に干す。幸いベランダの日当たりは良く、風がそよげばその分乾きも早かった。士郎には、なるべく太陽の匂いのする服を着せてあげたい。


 パン――と物干し竿に洗濯物を吊るし終わると、既に昼前。それから、タブレットに配信されているスーパーの広告を次々にスワイプして品定めする。

 随分お腹も大きくなったから、最近はそのままクリックして宅配を頼むことも多くなったのだが、くるみは今日、ちゃんと自分の足で買い物に行くつもりでいた。

 そろそろ街はクリスマスの装いのはずだ。買い物ついでに士郎へのクリスマスプレゼントも偵察して回る予定だったのだ。


 クリスマスどころじゃないかもね……

 くるみは独りごちる。ちょうど子供が生まれて、毎日あたふたして、もしかしたら寝る暇さえなくなってるかも!? でも、そんな日々が本当にもうすぐやってくるのだと思うと、くるみは今が夢じゃないのかと時々ちょっぴり不安になる。


 妊娠が発覚した時、士郎さんは最初目を丸くして、それから私をぎゅっと抱き締めてくれた。その時の彼の第一声といったら!

 「でかした」なんて……いったいどこの戦国武将よ、とくるみは苦笑したことを思い出す。


 本当に、夢のようだった。

 『幽世かくりよ』の、出雲での戦闘の際、くるみは腹部に銃弾を受けて……その時「子宮破裂だ」と言われたのだ。腕のいい衛生兵にそのまま野戦の中で子宮摘出を強く勧められたくるみは、その時必死になって抵抗したのだ。

 今となってはそれが正解だったと自信を持って言える。結果的に、満身創痍だった自分の身体をウズメさまにすべて元通りにしてもらったことは知っているが、もしそれより前に、実際に子宮を摘出していたら、本当にその時元通りになっていたかどうかは分からない。傷口を塞ぐとかならまだしも、欠損した部位が元通りになるとは思えなかったからだ。


 しかも、その後本当に問題なく子宮が機能するかどうか――くるみは心配で仕方がなかったのだ。

 だから、士郎と結婚する際も「もしかしたら子供が産めないかもしれない」と涙ながらに告白したのだ。だけど士郎は、それがどうしたという顔をしてくるみを抱き締めてくれたのだ。


 俺は赤ん坊が欲しくてお前と結婚するんじゃない。お前とずっと一緒にいたいから、結婚するんだ――


 でも、妊娠したと告げた時のあの喜びよう……

 結局、彼は本音では子供が欲しかったのだ。だからこそ、あの時の士郎の優しさが身に染みる。


 幸い、産院での診察結果は良好だった。特に問題ありません――しっかり養生して、出産までにいろいろ準備を整えてください……人のよさそうな医師の顔が思い浮かぶ。

 その時に渡された母子手帳データ。クラウドで士郎と共有しているから、彼がいつデータにアクセスしたか、ログインデータはいつでも参照できる。母子手帳データには、産院での定期健診のたびにお腹の赤ちゃんの新しい3D映像がアップされるのだが、士郎はどうやら毎日最低3回はそのデータにアクセスしているらしかった。時間帯を見ると、朝、昼、夕方。多分士官学校での始業前とお昼、そして課業終了時だ。

 たまに帰りが遅い時は、同僚教官たちと飲みに行っているのだが、そんな時は決まって4回目のアクセスがある。多分同僚に見せながら、自慢しまくっているのだろう。


 飽きないのかしら……くるみはいつも思うのだが、自分の腹の中で確実に存在を感じることのできる母親と、横で見ているしかない父親では、感覚が違うのだろうな、となんとなく思った。


 いけない――

 時計の針は、いつのまにか正午を回っていた。クリスマスプレゼントの偵察でウィンドウショッピングするなら、夕飯の買い物前に限る。買い物袋を抱えてショップを回るのは、さすがにしんどかった。

 一瞬、玄関の横に畳んで立てかけてあるベビーカーを持ち出し、キャリーの代わりにしようかとも思ったが、やっぱり初めて乗り出すんなら肝心の赤ちゃんが乗った時にしよう――とすぐに思い直した。


 そもそもベビーカーなんて出産直後は使わないのに、士郎さんが待ちきれなくて買ってしまったのだ。その割に、まだオムツは買ってない……

 優先順位違うよね!? とも思うが、ベビーカーを買いに出かけた時は、確かにくるみもノリノリだったことを思い出す。お互い、新米ママとパパなのだ。あーじゃないこーじゃないって言いながら、楽しく子育てすればいいだけだ。

 くるみはやっぱりここでも微笑んでしまう。最近は、どこを見ても、何を見ても、幸せだらけだった。


 さて、早く出かけないと、士郎さんが帰宅した時に晩ご飯が間に合わないかもしれない。くるみは、玄関で無造作にムートンブーツを履くと、バッグを肩からたすき掛けにして、扉をガチャリと開ける。

 ぴゅうーと冷たい風が、一瞬だけ部屋に吹き込んだ。


  ***


 ピュゥ――――――!!

 ピュゥピュゥピュゥピュゥ――


 救急車特有の甲高い、喉から後頭部に抜けるような独特のサイレンが街路に響き渡っていた。


 先導しているのは憲兵隊のパトカーだ。

 ちょうど夕方の帰宅時間に重なり、幹線道路は酷い渋滞だったが、泣く子も黙る先導車のお陰で、道は面白いようにスルスル空いていく。

 救急車は、その隙間を縫うように爆走していた。目的地は軍病院だ。


 くるみが破水したのは今から15分前。ちょうど夕飯の買い物でショッピングモールの地下スーパーに辿り着いた、まさにその瞬間だった。買い物カートに寄りかかるようにうずくまった彼女を見た店員のおばちゃんが、慌てて事務所に連れて行ったのが12分前。

 その際、店のマネージャーがくるみの付けていた赤ちゃんバッヂ――妊娠中の女性に必ず配付される緊急時用のセイフティバッヂで、妊婦の名前とか血液型とか緊急連絡先とか、通っている病院とか、妊娠何か月とか、事情を知らない人でもすぐに必要な情報が引き出せる優れモノだ――を操作して確認したところ、とんでもない英雄の奥様だということが判明。

 それで店のマネージャーがテンパって、119番ではなく憲兵隊に連絡してしまったのだ。それが今から10分前。

 お陰でショッピングモールには、通報から約2分で憲兵車輛と、憲兵隊から連絡を受けた救急車がもの凄い勢いで臨場した。


「――でっ……ですから……そんなに大袈裟にしなくても大丈夫です……」


 救急車の中では、口元に透明な酸素マスクをつけられたくるみが、リクライニングされた担架に寄りかかっていた。腰から下は、毛布に覆われている。


「ですが、石動いするぎ夫人に何かあってはいけませんので――」


 真面目な救急隊員が、くるみの隣にビシッと寄り添っていた。まだ若いのか、幼さの残る横顔からは、ヒシヒシと緊張感が漂ってくる。

 車内には、念のため同乗した軍の衛生兵まで畏まっていた。本当に大袈裟だ――


 すると、救急車がけたたましいサイレンを止め、ガコンと何かを乗り越えるのが分かった。搬送先の軍病院に着いたのだ。

 結局お店を出てから、5分もかからずに病院に担ぎ込まれたことになる。この時代、子供は貴重だったから、周囲の人たちが良かれと思ってあれこれ世話を焼くのはよくわかる。だが、このスピードはどう考えても、オメガ特戦群大尉にして陸軍士官学校教官の、我が夫の威光がなせるわざだった。


 ガチャンと扉が開くと、くるみの乗った担架はそのままスライドして車から降ろされる。同時にカチャンと脚が延びて、そのままゴロゴロと病院に搬入されようとしたその瞬間、ヒィィィ――ンという懐かしい音が上空から聞こえてきた。


 くるみがチラリと空を見上げると、そこには『飛竜』タイプの電磁推進機マグレヴが静止していた。病院の屋上にちょうど着陸するところだ。


 大袈裟なのがもう一人いる――!


 たぶん、アレに乗ってきたのは士郎さんだ。

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