第356話 傷痍(DAY9-7)
その瞬間、自分が撃たれたことにくるみが気付かなかったのは、ひとえに痛覚遮断処置が施されていたからである。
オメガ特殊作戦群に限らず、およそ特殊部隊系の兵士には、出撃前に大抵この処置が施されている。おしなべて彼らは、最前線の極めて厳しい戦場に放り込まれるからだ。当然、被弾の危険は極めて高いし、したがって受傷率も高い。
いっぽうで人間は「痛み」という感覚に極めて脆弱だ。なぜなら、その感覚は「生存」に直結する人体からの危険信号だからだ。たとえ致命傷でなくても、腕や脚を撃たれれば普通ならのたうち回るし、体幹部ならなおさらだ。そうやって「痛み」というシグナルを神経が伝えることによって、身体がそれ以上の無茶をしないよう、動きを止めようとするのだ。
だが、当然ながら兵士たちはそんな悠長なことを言っていられない。
たとえ撃たれようが、少々のことならそれを無視してでも戦わなければならないし、実際問題として「被弾する」という状況はすなわち追い詰められているということであり、それまで以上に活動強度を高めなければならないのが現実なのだ。
そんな時に役立つのがこの「痛覚遮断」という裏技だ。ありていにいえばこれは一種の「麻酔」なのだが、軍事用の痛覚遮断処置の優れているところは、医療用の麻酔のように、それによって身体感覚そのものを低下させるのではなく、「痛み」だけを神経伝達から除外するという点だ。
だから、痛み以外の感覚は当然残っていて、それはたとえば圧迫感だったり接触感だったりする。それによる運動機能、反射速度の低下も伴わない。
「熱さ」とか「かゆみ」とか、「痛み」の感覚に隣接する五感も、状況に応じて遮断してくれるから、兵士は弾を一発二発受けたくらいではビクともしない。当然、銃剣などで突き刺されたり、例えば手足を切断されたりしても涼しい顔をしていられるわけだ。
ところが、この感覚操作には当然副作用というか、欠点もある。
その最たるものが、痛みを感じないせいで「兵士が自分の怪我を深刻に考えなくなる」という根本的な問題だ。
腕や脚を切り落とされたり撃たれたりしたくらいなら、防爆スーツの自動圧迫止血機能などと相まって、最近では致命傷にはならなくなってきたが、例えば胴体を真っ二つにされたって、本人は――といっても上半身だけだが――ほんの少しの間とはいえピンピンしているわけだ。
だが、さすがの防爆スーツだって、胴体が輪切りにされたらどうしようもない。痛みがないからその直後の数十秒、あるいは1分間程度であれば、上半身だけは何事もなくライフルを撃ち続けているのだが、ふと二度見したらあっけなくこと切れていたというのはよくあることだ。何事かと思って裏に回ってみたら、ヘソの辺りから臓物が滅茶苦茶に飛び出ていて、腰から下がどこかに吹き飛んでいました、という、洒落にならない事態が日常的に頻発しているのだ。
だからさっき、くるみが腹部を撃たれた――ということに気付いた仲間の兵士は、大声で注意喚起したのだ。撃たれた本人がケロッとしているから、すぐ傍にいる兵士も「大したことないんだな」とつい思いがちなのだが、実際は深刻な致命傷を負っていることだってあり得るわけだ。
「――水橋ッ! こっちだっ!!」
銃弾が飛び交う中、くるみがうずくまる瓦礫の影に、衛生兵が一人スライディングして飛び込んできた。
「隊長ッ!」
「おぅ……こちらのお嬢さんだ。見てやってくれ」
「……すいません私……ぼーっと考え事してて……」
くるみが申し訳なさそうに衛生兵の顔を見上げる。
「――ありますよね、戦場で思わず現実逃避したくなること……自分を責めないで」
そう言うと、水橋二等衛生兵曹はくるみを支えながらその場にそっと寝かせた。既に防爆スーツがグイグイと患部を締め上げている。失血を防ぐためだ。だが、腕や脚と違って腹部は極めて複雑だ。腰全体を絞ったところでどうにかなるものではない。
これが防爆スーツの限界だな――と水橋は思いながら、患部の周りの布地を手際よく切り開いた。
タタタタッ――
タタタタタッ――
相変わらず周囲は銃撃の嵐だ。先ほどから
「樋口曹長――半径1.8メートル程度で、安全地帯の構築を!」
「了解だ! こっちは任せとけ」
第605偵察分隊――
くるみは知らないが、つい数か月前黒竜江省最北端の街、黒河市の上陸作戦で活躍し、その後叶が現地調査を行ったバヤンカラ山脈の探索にも同行した、精鋭中の精鋭だ。ついでに言えば、上海陥落の際も、居留民救出のために大活躍している。
くるみを手当てしたのが彼らだったのは、不幸中の幸いだ。おそらく彼ら以上に腕のいい連中はいないだろう。水橋は衛生兵とは言えれっきとした医師だし、分隊長の樋口や先任軍曹の河村一等兵曹は、一騎当千のツワモノだ。
そんな彼らが寄ってたかってくるみのところに駆け付けたのは、ひとえに彼女がオメガだからに他ならない。この少女たちがどれほどの戦闘力を有しているのか、オメガ特戦群で知らない者はいない。なにせ、オメガ1人で軽く一個中隊くらいの戦力を発揮してしまうのだ。その辺の雑兵が1人、怪我をして前線を退くのとは訳が違う。
戦場において「命の価値」というものには明らかに優劣がある。オメガ1人を助けるために、一個小隊が全滅したって十分お釣りがくるのだ。みんな等しく人間の命、などという偽善は、少なくとも彼らの価値感の中には存在しない。
くるみの腹部の銃創をまさぐる水橋にも、十分その認識があった。何があっても、助けなきゃ――
だが、彼女の腹に大きく開いた風穴に、拳を突っ込んでいた彼の動きが突然止まった。その顔も、俄かに曇る。
「――ど、どうしました? マズい状況ですか?」
そんな水橋の顔色の変化に敏感に気付いたくるみが、恐る恐る訊ねてくる。しまった――患者に不安を抱かせるなんて……医者失格じゃないか――
水橋は激しく後悔するが、後の祭りだった。しょうがない……こうなったら、隠していても無駄だろう。
「……え、えぇ……少し――深刻かもしれません」
「どの程度?」
「……えと、そうですね……このまま戦闘を続けていたら、命に係わるかもしれません。分かりやすく言うと……子宮が……破裂しています」
――――!!
くるみは我が耳を疑った。子宮が破裂!? それってどうなるの――? 赤ちゃんが産めなくなるってこと!? それ以前に……セックスが――できなくなるってこと!?
「……それって……」
「――子宮が破裂して、腹腔内で大出血を起こしているようです。今すぐ摘出して、血流を止めなければなりません」
「て……摘出って……」
「子宮自体は、なくても暮らしていけます。問題なのは、今そこから大出血しているということで――」
「そんなのイヤッ!!」
「――え……!?」
「なくても暮らしていけるって……子宮がなくなったら、わたし女の子じゃなくなっちゃう!! そんなことッ! 軽々しく言わないで!!」
くるみは一気にパニックに陥った。
これは……罰だ――
穢れた身体のくせに、いっちょ前に士郎さんと結ばれたいなんて、人並みの幸せを願ったせいだ――
でも……くるみの目に、突然大粒の涙が溢れかえった。
「絶対イヤ!! わたし……」
「で、でも軍曹!?
「死んだ方がマシよッ!!」
そのただならぬ言葉に、樋口たちも気がついて後ろを振り向く。水橋とくるみを交互に見つめ、何やら深刻な揉め事になっていることを察する。
「――水橋ッ! どうしたッ!? ここも、そう長くはもたんぞ! なるべく最小限の時間で頼む!」
「は、はいッ――しかし……」
くるみは、既に半身を起こしていた。今にも立ち上がりそうな気配だ。
「――わたし! このまま戦闘に復帰します! 痛みは何も感じませんから大丈夫ですっ!」
「水瀬川さんッ!」
「もう私のことはほっといてくださいッ! あなたのこと、嫌いですっ!!」
「そんな……」
くるみは、もはやヒステリックに喚きたてるだけだった。水橋もお手上げである。だが、このまま放っておいたら、間違いなく彼女は出血多量で死んでしまうのだ。医師として、彼も引き下がるわけにはいかなかった。
「――もう一度言います。水瀬川軍曹……処置しなければ、あなたはじきに失血死します。それは、軍としての大きな損失を意味します! あなた個人の好き嫌いを言っているのではありません!」
いつになく厳しい口調で、水橋がピシャリと言い放った。悪いけど、君はもう詰んでるんだ――子宮と命と、どっちが大事なんだ!?
だが、女性にとって子宮を失うということは、もしかしたら「死」と同レベルの重大事だったのかも知れない。水橋は、後になってこの時のことを思い出すたび、つくづく自分が浅はかだったと思うのだ。
少なくとも目の前の水瀬川一曹は、自分のことを「何も分かっていない愚か者」という目で睨み返してきた。
「――そうですか……では、一等兵曹として命じます。衛生兵、私のことは放っておいてください」
その瞬間、水橋は冷や水を浴びせられたような衝撃とともに、沈黙した。階級の上下関係を悪用するとは、あまりにも理不尽であったが、ここは軍隊だった。病院では――ない。
「――で、ではせめて……止血処置だけはさせてください! といっても、今子宮全体が大出血を起こしていますから、止血剤を投与すれば子宮ごと凝固し、お腹の中に発泡ウレタンみたいな大きな塊が作られます。お腹がぽっこり膨らんで、相当苦しいですが、構いませんか!?」
「……構いません。それで、あなたの気が済むなら――やってください」
「わかりました……」
もちろん、そんなことで水橋の気が済むわけはない。彼としては、この場で緊急開腹手術を行い、子宮をすべて摘出し、そこに接続しているすべての血管を結紮してこそ納得できるのだ。そうすれば体への負担は限りなく抑えられるし、後であらためて再手術すれば日常生活に無理なく復帰できる見込みが高い。
もちろん、子宮を摘出するということは、卵巣も一緒に取り出すということだ。もう二度と赤ちゃんはできないし、女性ホルモンが不足するせいで体つきも変わってくる。女性特有のさまざまな二次的障害が発生するのは致し方ない。それだって、女性ホルモンの投与を欠かさなければいいだけなのだ。なのに……
いろいろと思うところを呑み込んで、水橋は応急的にくるみに処置を施した。その時だった――
ピピピッ――
くるみの無線機の呼び出し音が鳴る。
「――こちらアムネシア」
『くるみか!?』
「――士郎さんッ!」
今いちばんくるみが聞きたい声の主だった。先ほどまでの張り詰めていた感情が、一気に迸る。
「――士郎さんッ……どうして――」
『これは二人だけの秘匿回線だ』
「はい……」
『――さっきなんか嫌な予感がしてな……問題ないか!?』
――――!!!!
士郎さんは、私の危機を察してくれたんだ――!!
なぜ……
だが、そんなことはもはやどうでもよかった。士郎さん! 士郎さんッ!!
「……あ、あのっ……私……」
『どうした? 大丈夫か!? ……って、こうして無線に出てるんだから、大丈夫か。すまんかったな、忙しい時に――』
「あ、あのッ! 士郎さん、バイタルモニターは見えてないんですか?」
『あぁ、今作戦指揮所を出てしまったからな……すぐには確認できん。だから、余計に気になってな……思わず直接確認してしまった』
「――いえ、いいんです。ありがとうございます……」
まったく――
士郎さんは、やっぱり士郎さんだ。私のピンチをこうやって察してくれて、わざわざ秘匿回線で連絡してくるなんて……! 私、やっぱり士郎さんのことが好きだ――
『――くるみ……約束は覚えているんだろうな?』
「え……? も、もちろんですよ! 戦闘が終わったら、士郎さんとゆっくり過ごす――」
『そうだな、楽しみにしてるぞ!? だから、絶対に死ぬなよ』
「……は、はい……」
『じゃあな……またあとで』
そう言うと、無線は一方的に切れた。だが、こんな時にわざわざ彼が自分だけに安否の確認をしてきたことに、くるみは幸せを噛み締めていた。他のオメガに嫉妬!? さっきまでの、自分の自信のなさにあきれるばかりだ。それどころか、士郎さんは私が心配で仕方がないのだ。私はあの人にとって、かけがえのない存在なのだ――
「――水瀬川一曹、応急処置終わりました。あまり無理をしないでください」
「あ、ありがとうございます」
水橋が告げた時、くるみは先ほどとは見違えるように穏やかな顔つきになっていた。え――? 何があった!? 水橋には、くるみの無線の相手の会話は一切聞こえていない。だが、何やら親しげな様子だった。恐らくとても信頼できる相手なのだろう。
こんな美少女にここまで慕われるなんて、羨ましい限りだった。あぁそうか――だからこの子は、子宮の摘出をこれほど嫌がったのか……
水橋はだが、それならばなおさら相手の人に伝えたかった。彼女、このままじゃあと半日持ちませんよ――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます