第319話 新月(DAY6-16)

 その日――

 集落は非常事態に陥っていた。時系列で言うと、アイシャがイズモ不可侵域アンタッチャブルに侵入してオロチとウズメからコテンパンにやられた日に遡ること、数年前の出来事だ。


  ***


 第二次大戦で日本が敗北し、連合国が進駐してきて以来、この地域はしばらく米軍が支配していた。だが、今その姿は一切見えない。

 代わりに進駐してきたのは人民解放軍だ。


 朝鮮戦争で米国を中心とする連合国が起死回生の大作戦として実行した「仁川インチョン逆上陸」が失敗に終わり、半島は既に赤化統一されていた。これにより米国は日本占領の主導権を失い、フィリピンに撤退していたのだ。北海道は既にソ連の統治下にあり、本州以南は共産中国によって実効支配されつつある。


 これに対し、一部の日本人は各地でパルチザン活動を行っていた。しかし、それももはや風前の灯火であった。元来「お上」には逆らわない国民性である。敗戦の爪痕も深刻で、大半の国民には厭戦気分が蔓延していた。

 それに、元々米軍の占領統治は、実際のところ後年言われているほど穏やかなものではなかったのだ。米兵の横暴な振る舞いは多くの日本人に忌み嫌われ、反米感情はマグマのように溜まっていた。

 だから、これに変わって中国が入ってきた時は、むしろ多くの日本人は歓迎の意向すら示したのだ。


 なんといっても彼らは同じアジア人である。それに、元来中国は、日本人が数千年に亘ってお手本にしてきたアジアの超大国だった。そりゃあ、日清戦争からこのかた、少しいがみ合いもしてきたが、長い日中の歴史から見れば、それは本当にごく短期間の、些細な行き違いだったのである。

 ――少なくとも、多くの日本人はそう考えていた。だが――


 進駐してきた中国は、日本人が元々知っていた彼らとは、もはや全くの別人であった。


 その統治は苛烈を極め、日本人はこの世の地獄を味わう羽目になった。よく考えたら、その頃の中国は既に共産化していて、伝統的な立憲民主国家に慣れていた日本人からすると、まるで狂信者のように変わり果てていたのだ。


 後年、もし仮に「現世うつしよ」と「幽世かくりよ」のそれぞれのアジア史を比較研究する学者が現れたとしたら、彼はきっとすぐに気づいただろう。幽世の中国で起きなかった「文化大革命」が、あろうことか日本で起きてしまったことを――


 幽世の日本では、進駐してきた人民解放軍の主導により粛清の嵐が吹き荒れたのだ。

 多くの知識人や公職者は弾圧され、無数の罪なき人々が投獄された。法律に基づかない「自己批判」が横行し、多くの若者が紅衛兵となって親を密告した。

 無数の人々が行方不明になり、恐らく裁判抜きで粛清されていった。


 当然、日本の伝統は徹底的に破壊され、日本人の矜持はどぶに棄てられた。日本人と名乗ることは憚られ、日の丸を掲げることはもちろん、日本人が伝統的に持っていた「思いやり」や「気遣い」「長幼の序」といった美徳は「階級闘争」の名のもとに嘲笑され、唾棄されようとしていた。


 そして――

 人民解放軍が行った最も愚かしい行為のひとつが、全国の神社を共産党の支部に改変したことである。


 奴らは知っていたのだ。日本人の精神性が「神道」に基づいていたことを――

 万物に神が宿ると考え、自然を畏怖し、祖先を敬い、危機にあっては地域社会が結束し、そしてお互いを尊重し合う……

 それは、自らの生まれ育った郷土と家族を愛し、その安寧を願う心として昇華される。そしてそれこそが、日本人の愛国心の源泉なのだ。

 その精神性を滋養しているのは間違いなく、全国に数万社はあるとされる各地の神社だった。

 考えてみれば、日本人の伝統的な「祭り」はすべてこの神社が元となっている。盆暮れ正月、四季折々の行事も、すべての源は神事なのだ。


 これを一気に破壊することは簡単だった。だが、そうしなかったのはやはりというべきか――中国人の狡猾さだ。

 彼らはこれを排するのではなく、新たな統治ツールとして活用したのだ。以前も少し触れたが、全国の神社には五星紅旗が翻り、そのご神体の代わりに国家主席の肖像画が掲げられた。神社は、共産主義を学ぶ寺子屋と化し、地域住民は「共産党青年同盟」とか「階級闘争研究会」とか、「革命闘争婦人会」とか、そういった類の組織に強制的に所属させられていった。

 神事はすべて禁止されるかわりに、昔ながらの縁日のようなものだけは奨励された。だから多くの日本人は、そのことが企図する深い意味を考えることなく、以前とそう変わらない“神社のある風景”に安心し、中国の支配に馴染んでいったのである。


 だが、当然ながら思慮深い一部の日本人たちは猛反発した。

 特に、古代から連綿と続く由緒正しい各地の神社は、こうした人民解放軍の占領政策に真っ向から立ち向かい、そしてそれは、新しい悲劇の幕開けとなった。


 ここ、出雲大社とその周辺地域も、そうした悲劇の舞台となったひとつである――


  ***


 カンカンカン――!!

 カンカンカンカン――!!!


 半鐘が、ひっきりなしに鳴り響いていた。日が暮れた山深い集落では、暗闇が遠慮なくすべてを支配する。だが、それでもあちこちで焚かれている篝火は、集落の要所要所をボゥッ――と照らし出していて、村の全容を図らずも闇夜に浮き上がらせていた。


 闇夜――そう、今夜は新月だ。

 月の力が最も満ちて、人々の願いが最も叶いやすいとされる、縁起のいい夜……


 その少女は、神社の拝殿裏――すなわち、ご神体が納めてある本殿の前――の床下、高床式の柱の陰に独り陣取って、先ほどからまんじりともせずに座り込んでいた。

 なぜ自分は拝殿の中にいてはいけないのだ――!? と先ほど激しく父に抗議したのだが、どんなに言い募っても頑固な彼女の父親は、それを許してくれなかった。

 かくなるうえは、賊が境内に侵入してきたら、一番に自分が立ち向かい、始末してやろう――彼女はそう決意している。

 「外に出とれぇ」というのは、要するにそういうことなのだろう――!?

 「――いいけぇとにかく一刻も早く逃げぇよ!!」という先ほどの父の様子を少しだけ思い返すが、彼女はそれを振り払うように、あらためて持参した長刀の柄を握り締めた。


 それにしても、今夜は本当に真っ暗闇だな――

 月の力が最も満ちるのは、月が見えない、こんな夜なんだよ――と教えてくれたのは、厳しくも優しい父だった。見えない時に一番力が強いなんておかしいよ、満月の方が凄いんじゃないの? と訊き返したら「そりゃあ西洋の怪奇映画の見過ぎだわい」と笑われたものだ。狼男は満月の夜に変身するが、ここ日本では、新月の夜こそに神秘の力が宿る。

 なぜなら今夜は、月齢「0」だからだ。月はここから次第に満ち始め、十五夜経ってようやく真ん丸――すなわち「満月」になる。だから月の力は満月の時、既に半減しているのだ。

 それからまた少しずつ欠けていって、さらに十五夜経ち「三十日みそか月」――場合によっては「晦日月」とも書くが――すなわち終わりを迎える。月の力は――ゼロになる。


 つまり「新月」とは月の誕生――もっとも生命力に満ち溢れた瞬間なのだ。


 新月とは「神月」――すなわち、神の力が最も宿る時――


「――願わくば、朝敵討ち払わせ給え――」


 少女は、思わず小声で呟く。その艶々とした黒髪が、彼女の頬にはらりとかかる。細面に切れ長の瞳という彼女の和風な顔立ちは、その長い黒髪によく似合っていた。


 期せずして、さきほどから集落の方で聞こえていた半鐘が、一層激しく鳴り響き始めた。ついに来たか――長刀を握り締める手の平に、じっとりと汗が滲む。


 ほどなくして、人のどよめきが風に乗って耳に届く。招かれざる客と、集落の代表者が話し合っているのだろうか!?

 何事もなく追い返せればいいけど――

 そう思った瞬間だった。


 タタタタタ――


 機織り機が高速で動くような、軽やかな音が闇夜に響いた。だが――


 ザワザワザワッ――!!


 先ほどのどよめきよりも大きな、そしてくぐもったノイズが、彼女の耳に入ってきた。これは――人の怒鳴り声だ。激しく言い争いをしているような、険悪なノイズ。いやな予感がする――


 ゴァァァァァァン――!!!


 また集落の方向から、今度は鈍い衝撃音が響き渡った。その正体は明らかだ。

 爆発音――


「――くそッ……」


 パーン、パンパーン――


 何かの発砲音。アァ――という絹を裂くような悲鳴が、それに被さる。間違いなかった。交渉は決裂し、恐らく集落の真ん中で、激しい小競り合いが始まったのだ。

 中国軍め――!

 奴らは、全国の神社にグロテスクな赤い旗を掲げて回り、気味の悪い誰かの肖像画を無理やり押し付けているのだ。だが幸い、ここ出雲では、大社を始め一帯の神社がそれを拒み、地域住民も連帯してこれに抗してくれていた。


 だが、ついに来たのだ。最初こそ穏便な申し入れであったが、こちらが何度も拒絶するたび、彼らの要求は徐々に先鋭化し、最近ではあからさまな恫喝が始まっていた。このままでは、早晩この地域にも中国の兵隊が鉄砲を持って押し寄せ、力づくで神社を分捕りに来ることは明らかだった。

 だから、ある程度皆の覚悟は出来ていたと言っていい。大社からそこそこ離れたこの地域――世間では俗に「奥出雲」と呼んでいる一帯だ――を護る小さなお宮の神職を務める父は、集落の氏子たちと何度も何度も相談を重ね、いざという時の対処方針を定めていたらしい。峠筋には見張りも配し、物見櫓も整えて、不意の襲撃に備えてきたのだ。

 腕に覚えのある若い衆は、代々伝わる刀や槍を家の蔵から持ち出して、いざとなったら刺し違える覚悟を整えていた。

 もちろん本丸はうちの神社だ。だから父は当然、誰よりも覚悟を決めていたはずだ。

 その覚悟をこの耳で聞いたのが、今から僅か一時間前のことだ。


 峠の方から何の前触れもなく聞こえてきた半鐘の音は、中国軍のこの里への侵入を意味していた。しかもその鐘の音は、あらかじめ申し合わせていた通りの打ち方――奴らが「やる気」で来ていることを告げていた。

 里の者たちが神社に続々集結してきたのは、それから間もなくのことだ。


「――いざとなったら、この社もろとも焼き払う。訳の分からんもんを祀られて、神さんを愚弄されるくらいなら、いっそのこと討死する覚悟だけぇ」


 その寄り合いの時の、父の言葉だ。

 だから少女は必死で懇願したのだ。自分も皆と一緒に戦うと。それがこの神社の巫女を務める自分の務めでもあると――

 なのに、けんもほろろに追い出されてしまった。巫女装束に神社伝来の武具まで付け、戦闘準備はすっかり完了していたというのに!


 本当は、少女はとっとと山に逃げ込むよう、父に強く言い渡されていたのだ。だが、皆を――父や、家族を置いて、自分だけ逃げるなんてできるわけがないじゃないか!?

 彼女が本殿と拝殿の間の床下に隠れていたのは、だから敵から身を隠していたわけではない。父の言いつけを聞かず、自分も一矢報いようと、手ぐすねを引いて待っていたのだ。


 すると突然、大きな音が鳥居の向こうから轟いた。と同時に、やけに大きな複数の靴音。ついに、中国兵が乗り込んできたのか!?


「XXXX! XXXXXXッ!!」


 何と言っているのか分からないが、明らかに中国語だった。それは怒鳴り声のような、耳障りな音。


 ダダダッ!!

 ダダダダダッ――!!!


 その怒鳴り声を掻き消すように、激しい機関銃の射撃音が辺りに響き渡る。


「―――なんじゃあコリャアッ!!」


 ダダダダ!!!


 誰かの叫ぶ声と、銃撃音が折り重なった。


 ガァァァァァン!! ダァ――ン!!!

 バリンッ!! ドガドガドガッ――!!!


 もはや滅茶苦茶な音が、境内全体に響き渡った。社務所のほうだ。引き戸を蹴破られ、踏み込まれているのか――!? すると――


「きゃあァァァァッ!!」

「――XXXXXッ!? XXXXッ!!!」


 お母さんッ――!!

 あの声は、お母さんの悲鳴だ。やめて――!!

 お母さんに……私の家族に手を出さないでっ――!!!


 少女は、いつの間にか号泣していた。家族が襲われているということと、思った以上に銃撃音と爆発音と、その他いろいろな破壊音が大きくて、私の世界が一瞬にして滅茶苦茶に壊されていくことが、こんなにも怖くて怖くて、恐ろしいものだったなんて――


 本来ならここで颯爽と出ていって、憎い中国兵を撃退するつもりだった。だが――

 足が竦んで動けない。怖くて、身体が言うことを聞かないのだ。


 いやだっ……死にたくないッ……


 目の前の拝殿にドカドカと大人数が踏み込んでくる足音が聞こえたのは、その時だ――

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