第299話 中華帝国秩序(DAY5-17)
実際に米国が中国と全面戦争に入るとは、世界の大半が思っていなかったに違いない。
なぜなら当時、世界は相変わらず中東問題に頭を悩ませていたし、客観的に見て事実米国も、明らかにアジアより中東に関心を寄せていたからである。
だが、所詮中東問題は、紐解けば宗教戦争以外の何者でもなかった。かつてサミュエル・ハンチントンが予測した通りの、キリスト教文明とイスラム教文明の衝突――
もっと突き詰めて言えば、イスラエルとアラブの争い――同じエルサレムという聖地を持つ、親戚宗教同士の主導権争いに過ぎなかったのだ。その教義がどちらも「一神教」である限り、どちらの神が正しいのか、いずれは決着をつけなければならなかったのだ。八百万の神々があるべくして存在する日本人の宗教観からは、到底理解できない不毛な争いだ。
物事をややこしくしていたのは、アラブのテロリストたちが旧ソ連をはじめとするレッドチームから横流しされた核などの大量破壊兵器をもてあそび、欧米諸国の中枢を狙っていたことである。
テロとの戦い――非対称戦争――
これは、誤解を恐れずに言えば「糖尿病」などの生活習慣病と同じだ。決して完治はしない。どうやってコントロールし、上手く制御しながら付き合っていくか――
長年の小競り合いはコラテラルダメージを意図せずに増やし、お互いに私怨を募らせて感情的な対立は永遠に諍いを生み続ける。
だが、この争いは決して世界のパラダイムシフトを引き起こすまでには至らない。いわば箱庭での戦争。あくまで既存の秩序の中で、ボスザルを決めるだけの争い――
だが、『中国夢』はこれとは決定的に違う。
本質的に、“箱庭”そのものを取り換える戦いなのだ。だから中国は、世界中で元建て決済を必死で拡大してきた。中国経済が世界を相手にしてきたのも、自国通貨の『元』を基軸通貨にしようと目論んでいたからだ。
基軸通貨――
世界の輸出入や金融取引で用いられる、基本となる通貨。現在その地位は米ドルが担っている。米国は世界一の経済力、世界一の軍事力を持ち、その通貨『米ドル』は世界一信用力が高い。したがってその取引量も世界一だ。
基軸通貨にとって一番重要なのは『安定性』だ。米国という超大国、世界覇権を握る国家は、恐らく決して破綻しないだろうし、事実その莫大な取引量を背景として、どんなに大量の注文が出てもレートが大きく変動することはない。
通貨の価値がほとんど変わらない――常に安定している――というのは、貿易決済にとって極めて重要なことだ。だから世界中の国家が『米ドル』を使って取引をする。
もちろん、米ドル以外にも信用力の高い通貨は存在する。「日本円」しかり、欧州連合が発行する「ユーロ」しかり。1964年のブレトンウッズ体制以前まで基軸通貨だった「英ポンド」や、永世中立国である「スイス・フラン」もこうした信用力の高い通貨に加えることもある。
これら通貨のことを「
もちろん「ハードカレンシー」には明確な基準が存在しないから、どこまでをそう称するかは論者によって異なるが、伝統的に安定した通貨――すなわち「米ドル」「ユーロ」「日本円」の三つの通貨をして「
だが、やはり圧倒的に強いのは
そうなると何が起こるのか――
もし米国が、手持ちの資金が少し足りないなと思ったら、彼らは自由にその「米ドル」を刷って、好きなだけモノが買えることに気付くだろう。
米国がどんなに借金しても、返すアテがなかったら好きなだけ刷ればいい。
つまり、自国の通貨が基軸通貨であるということは、絶対に国家が破綻しないということなのだ。
覇権国家・米国の強さはここにある。
彼らは魔法の「打ち出の小槌」を持っていて、その強大な軍と経済力を維持し、ほぼ永遠にこの世界に君臨し続けることが出来るのだ。
中国が挑戦したのはまさにこの部分だ。
世界の覇権を握り、
だから彼らは、世界中にその経済圏を拡げ、その貿易決済に「元」を使うことを推し進めたのだ。手始めに「元建て決済」を求めたのは、同じレッドチーム――と世界から見做されている――イランやロシアだ。そうやって少しずつ「人民元」の取引実績を増やし、単なる東アジアの
そして最終的には基軸通貨へ――
それこそが『中国夢』の実現――箱庭そのものを取り換える――という意味だ。
だから米国が本気で怒ったのだ。
如何にルール違反が悪目立ちする中国とて「箱庭そのもの」をぶっ壊そうとさえしなければ、米国ももうしばらくは中国の好きにさせていたことだろう。基軸通貨国の地位さえ保っていれば、米国はいつでも中国の息の根を止めることができたからである。
だが、中国はその米国が絶対に譲らない一線を越えようとした。
逆鱗に触れたのだ。
その時に、覇権国家米国は悟ったのだ。中国がルール違反を繰り返してまでも、その経済を貪欲に拡大させてきた理由を。強引な帝国主義で周辺諸国に軍事的圧迫を加えていた理由を。
すべては
だから米国は、中国が力をつけ過ぎて制御できなくなる前に、これを叩き潰そうと決心したのだ。
これが2024年に勃発した米中戦争の真相だ――
我々は、あれほどまでに海軍力を増強し、強大な米国海軍の戦略的軍事力の根源たる空母打撃群を完全に無力化するための、完璧な軍事ドクトリンまで完成していたというのに――
それは、無数の潜水艦発射型対艦弾道ミサイル、地対艦、空対艦、艦対艦の各種巡航ミサイルによって、宿敵の米空母打撃群を飽和攻撃し、これを完全に粉砕するものであった。だが、結局日米海軍を葬ることができなかったばかりか、緒戦で我が海軍力の殆どを一瞬にして喪失してしまった……
それもこれも、やはりあの『第一列島線』を越えられなかったからだ――
我が中国海軍は、開戦と同時に中国沿岸で次々に撃沈された。艦によっては港を出る暇もなく、岸壁に係留されたまま沈没した。
遼寧をはじめとするあの誇らしい正規空母たちは、一機の戦闘機を発艦させる暇もなく、まるで標的艦のようにミサイルの飽和攻撃を受け、爆沈していった。
あの時、何が起こっていたのか――
それが、日米シーパワーが密かに練り上げていた対中国必勝ドクトリン――『
海洋圧迫戦略――Maritime Pressure Strategy――
これは、約10年の歳月をかけて、主に米国が立案した対中国軍事ドクトリンのことだ。
ある国家が、広大な国土を持つ相手――すなわち「ランドパワー国家」だ――に戦争を仕掛ける時、地上戦に突入すると多かれ少なかれ地獄の消耗戦に引きずり込まれることが分かっている。
特に海洋立国たるシーパワー国家は、相対的にこれらランドパワー国家に比べて陸軍力に劣る傾向があるし、
もちろん超大国である米国は、シーパワーではあるものの世界中のどの国家よりも強大な陸軍力を兼ね備えてはいるが、同時に人命コストは世界一高いとされている。
第二次大戦中であれば、前線で兵士が何千人、何万人戦死しようが、結果的に勝てば国民世論は熱狂したものだ。ところがベトナム戦争あたりから、最前線にメディアが入り込むようになり、戦場の酸鼻を極める悲惨な映像が直接国民の目に触れるようになった。市民による「反戦運動」というものが生まれたのもこの頃からだ。
以来、敵国での陸戦において兵士が斃れても受忍できるとされる許容人数は、劇的に低下した。
たとえば21世紀初頭、アフリカのソマリアという失敗国家に米国が介入していた時、首都モガディシオ(モガディシュともいう)での戦闘で
もちろん、911同時多発テロ事件以降は、米国本土が直接攻撃されたという衝撃と怒りが、その上限を少しだけ押し上げたが、現代においては相変わらず地上戦に対する人々の忌避感は根強い。
そこで打ち出されたのが、地上戦に至る前に、徹底的に敵国を
以前から米軍は、例えば太平洋戦争中、西太平洋の島嶼群に点在する日本軍守備隊を攻撃する際、最初に徹底的な艦砲射撃と空爆を行い、地上戦力をあらかた無力化したうえで上陸するという戦法を取っていたし、もちろんベトナムでも「エアランドバトル」――空陸一体作戦という手法を多用した。まぁ、ベトナムの場合は主な戦場が密林地帯だったために、期待値通りの戦術運用が敵わず絶望的なゲリラ戦対処を余儀なくされたわけだが……
1991年の湾岸戦争や2003年のイラク戦争でも、戦争の始まりは常に空爆だった。だが、この戦法はいつでも通用するわけではない。
敵も同じようにアウトレンジ攻撃を繰り出してくれば、戦略的優位性は存在しないからだ。
事実、21世紀に入って中国が海軍力を驚異的に増強し、米国の誇る空母打撃群をミサイルによる飽和攻撃で必ず撃滅するという戦略を取り始めると、米国はもはや中国に太刀打ちできる術を失った。無数の弾道ミサイル、巡航ミサイルの攻撃を防ぎきることは、もはや当時の軍事技術力では不可能だったのである。
米国が日和ったのはこの頃だ。バラク・オバマという米国史上最低との悪評高い間抜け大統領は、際限のない膨張政策を掲げる中国を苦笑いで受け入れようとした。尖閣諸島で中国の偽装漁船が日本の海上保安庁の巡視船に体当たりする事件が起きた際も、オバマは日本を守るとハッキリ明言しなかった。日米同盟の重要さを理解していた在日米軍司令官が、業を煮やして本来大統領が言うべき言葉を言ったくらいなのである。
しかもその頃、イキっていた中国は、太平洋を米国と中国で二分し、分割統治しようとまで持ちかけたのだ。いわゆる「G2」騒動だ。
これは、事実上の米海軍への降伏勧告だった。間違いなく米空母打撃群を撃滅できる自信を持った中国は、米国が『第二列島線』――すなわち伊豆・小笠原諸島からグアム・サイパンを含むマリアナ諸島群を結ぶライン――以西に入ってこなければ「見逃してやる」と暴論を吐いたのだ。
だが、本当に驚くべきは、オバマがこの中国の居丈高な要求を、笑顔で受け入れようとしたことである。
この頃の日本が民主党政権だったことも、悪夢を極限まで増幅させることとなった。国民の信頼を失い、あえなく下野した自民党も情けないが、国家100年の計をズタズタにし、亡国の道を突き進んだ民主党政権は、今考えても万死に値すると言っても過言ではないだろう。
海上保安庁が決死の思いで逮捕した中国船の船長をあっさりと釈放し、解決しようとしていた沖縄の米軍基地問題を水泡に帰した。そればかりではなく「二番じゃ駄目なんですか」などという愚かな政治家のせいで、基礎科学や先端技術に関わる予算を大幅減額したばかりか、災害対策のために数十年単位で計画されていた大規模土木工事も軒並み中止させ、その後の豪雨災害や東日本大震災で、数千、数万の国民の命を奪う遠因を作った。
その後自民党が政権を奪還したのは当然の流れであったし、今後恐らく二度と、自民党とそれに連携する保守政党以外の革新野党が政権を取ることはないであろう。
それほどこの時期は、内憂外患が日本全土を覆ったのである。
米国の対中国ドクトリン再検討が密かに始まったのは、ちょうどこの頃だ。
結論から言うとこのドクトリンは、完全に米軍と自衛隊を一体運用することで完成する、必勝の戦略だ。当然ながら、この戦略を米国が立案検討する過程において、多くの日本政府関係者、あるいは国防専門家と接触し、無数の意見交換を交わしたことは想像に難くない。
事実、政権奪還した自民党は、ひたすらにこの新しいドクトリンを実現するための中長期的な政策を粛々と進めていた。2019年に米国が正式にこの『
ではそろそろ、このMPSが一体どういうものなのか、整理していこう――
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