第298話 第一列島線(DAY5-16)

 偉大なる祖国が、ここまで落ちぶれたのはひとえに日本列島がそこに存在していたせいだ。


 第一列島線――


 中国は、ついにこの地政学的ラインを突破することができなかった。

 大半の日本人はまったく自覚していなくて、殆どの中国人が強く意識していることがある。それがこの『第一列島線』という概念だ。

 普通の世界地図は、北を上に、南を下に描かれている。その状態で東アジア全体の地図を俯瞰すると、中央に中国大陸、その右端に、まるで金魚の糞のように寄り添っているのが日本列島だ。

 日本列島は、南北に細長く連なっていて、北からいくとまず樺太。その南端に北海道があって、以下本州が弧を描き、朝鮮半島に接するように九州が存在する。その九州南端から細く南方向に沖縄諸島が連なっていて台湾に至る。台湾からはさらにフィリピン諸島が続き、次いで世界でも有数の群島地帯であるインドネシアに至る。

 この一連の諸島群のラインこそ、『第一列島線』と呼ばれるものだ。


 ではなぜこのラインを中国人が強く意識しているのだろうか!?


 その答えを知るには、東アジアの地図を時計と逆回りに90度、左に回転させるといい。ちょうど、東が上で、西が下にくるように――


 すると、途端に見えてくるものがある。

 そう――中国は、この第一列島線に、完全に頭を抑えつけられているのだ。

 これを日本の古いことわざに例えれば、多くの日本人も彼ら中国人の気持ちを理解できるだろう。


 目の上のタンコブ――


 21世紀に入り、中国は驚異的な経済成長を果たした。共産主義国家であるにも関わらず、だ。自由主義市場経済が席巻する世界市場に打って出て、あっという間に欧米自由主義陣営の経済規模を抜き去り、ついには日本まで追い抜いて、世界最強の経済規模を誇る米国に肉薄した。


 その理由は様々あれど、主たる要因として挙げられるとすればそれはやはり「先富論」だろう。行き過ぎた文化大革命の影響で“失敗国家”になりかけた中国を救ったのは、1978年に表舞台に出てきた鄧小平による『改革開放』路線だ。その基軸となったのが「先富論」――すなわち、可能なところから豊かになるという戦略――だ。

 世界最大の人口を抱える中国は、当時からその7割が農民で、その多くは世界最貧国なみの貧しい暮らしに甘んじていた。共産主義中国は、本来であればこれら貧しい農民たちも等しく平等に養い、国家全体で少しずつ成長していくのが建前であったのだが、鄧小平はその建前をあっさりと捨てたのである。

 代わりに彼がとった政策こそが「先富論」だ。沿岸部の比較的発展した都市部に対してのみ、限られた資金を集中的に投資し、海外資本を積極的に導入して製造業を中心に先行発展を促したのだ。


 結果的に上海や福建は想像以上の発展を遂げた。

 代わりに顕在化したのが、豊かな沿岸都市部と、貧しい内陸農村部との、信じられないくらいの異常な格差社会だ。都市部は先進国並みに発展を遂げていく一方、農村部はアフリカの失敗国家の如くみすぼらしい惨状。

 当然人民は都市部に流れ込もうとするが、それを強制的に禁止して、国民の自由な移動を制限したのはさすが共産主義独裁国家の面目躍如といったところか。

 その代わり、中国政府はこれら貧しい農民たちを無限に供給される「安い労働力」――農民工――として活用したのである。当然、世界の製造業は圧倒的に人件費の安い中国に次々と工場を建てる。結果、中国はそう時間を置かずして“世界の工場”という地位を確立した。


 その他、中国が仕組んだ経済発展の様々な手法には、正直目を見張るものがあった。といっても、その半分以上は、西側自由主義陣営諸国にとっては限りなく黒に近いグレーなやり方だ。

 たとえば管理貿易。輸入品には高い関税を掛け、輸出品は安価な労働力に裏打ちされた価格競争力の高い軽工業品を大量に送り出す。その際、自国企業には莫大な補助金を出して、政府が手厚く経営を支援する。

 さらには為替操作。輸出に有利なように好き放題為替介入して、貿易競争力を不当に強化。

 一番深刻だったのが、他国の特許や製造機密を国家ぐるみで盗み出し、劣化版パクリ製品を発展途上国に大量に売りつけること。さほど信頼性を重視せず、とりあえず安くてある程度使えればそれでいいという途上国の需要に、中国のパクリ製品は見事にマッチした。

 これらにより、中国はあっという間に世界市場を席巻する。


 今考えると、中国という国家が世界最大の覇権国家米国を中心とした西側諸国に叩き潰されたのは、こうした“ルール違反”によるインチキ成長が目に余ったことが原因だったのだろう。本来自由主義経済とは、ルールにさえ従えば誰だって参入して豊かになれる仕組みなのである。相手が豊かになれば、自分だって豊かになれる。これが自由主義経済のレーゾンデートルだ。

 だが、ルール違反はどんな世界でも忌み嫌われる。不当なやり方で先進国のシェアを奪えば、当然ながら「中国はズルい」という嫌中感情が巻き起こる。そうやって儲けた莫大な利益を元手に、今度は札束で先進国の頬を叩いてその基幹産業を喰いつくそうとする。中国脅威論がおりのように世界中に拡散していった。

 要するに、中国はのだ――


 ともあれ、話を元に戻すと、21世紀初頭、信じられない高度経済成長を遂げて世界の大国にのし上がったと勘違いした中国は、彼らの持つ本質的な気質として当然ながら“遅れてきた帝国主義”を実践し始めた。

 中国人にとって、19世紀末の清朝末期に、世界の列強に食い物にされてズタズタにされた彼らのプライドを取り戻すのは、民族の悲願だったのである。


 だから第二次大戦後、中央アジアを侵略して東トルキスタンを踏みにじったのも、隣接するインドと何度も国境紛争を繰り広げたのも当然であったし、21世紀になって国家が豊かになると軍の近代化に乗り出し、周辺諸国を圧迫し始めたのも、当然の権利だと思っていた節がある。


 そうなると当然、中国の行きつく先は世界の覇権国家だ。

 『中国夢』と称して中国大陸からユーラシア全体を掌握し、欧州までを貫通する『一帯一路構想』――

 中国が目指したのは冗談でも何でもなく、世界制覇だ。


 21世紀初頭の中国人は、やがて米国さえも凌ぐ世界最強の国家になると本気で信じていた。実際、そうしなければならない理由もあった。

 依然として世界最大の人口を抱える中国は、泳いでいないと死んでしまうサメかマグロと同じようなものだ。相変わらず貧しい内陸部の、大多数の人民を養うには、常に倍々ゲームの経済発展を遂げなければ、やがて国家そのものが破綻してしまうのだ。どんな家庭でも、子だくさんのところはそれに見合った収入がなければ困窮するしかない。

 国家が困窮するということは、中国共産党にとって死活的な問題だ。伝統的に易姓革命を繰り返してきた中国の歴史は、体制がひっくり返るということはすなわち、共産党が粛清されるということだ。平和的な政権移譲など、彼らの概念には存在しない。

 だから中国――というか中国共産党は、自分たちの生存圏を無限に拡大しようと死に物狂いで版図拡張を図ったのだ。


 当然、陸地には自ずと限りがある。中国が現状以上にその勢力圏を拡げるには、海洋に進出するしかなかったのである。ランドパワーだった中国が、突然海軍力の増強に乗り出したのも、当然の帰結であった。


 そうなると当然、そこには既存のシーパワーが存在している。

 日本と、そして米国だ――


 先ほどの東アジア地図を再度思い起こしてほしい。そう――東を上に、西を下に置いた地図だ。

 中国が海洋に進出するには、東側しかルートが存在しない。北はモンゴルそしてロシア、南はチベット、そして西は中央アジアとインド――つまり3方向は陸地なのだから……


 その東側の海洋に、完全に蓋をしているのが『第一列島線』だ。


 そう考えると、中国の戦略は極めて明快に読み解ける。

 完全に独立国家として成立している台湾をいつまでも中国だと言い張っているのも、歴史上常に日本の領土だった尖閣諸島を中国のものだと強弁したり、しょっちゅう沖縄にちょっかいを出したりするのも、この第一列島線に風穴を開けたいからなのだ。

 南シナ海を自国の内海だと言い張り、スプラトリー諸島――中国はこれを南沙諸島と勝手に呼んでいるが――の領有権を主張して人工島を造り上げたのも、この海域を支配して第一列島線の外に出る海路を確保したいだけなのだ。

 朝鮮半島を支配したがるのも、結局のところ“第一列島線の支配者”である日本の喉元に匕首あいくちを突き付けておきたいからなのだ。


 中国は恐ろしい国だ。

 国家の計を100年単位で考える。1978年に改革開放路線に舵を切った中国が、およそ半世紀を経て世界第二位の経済大国にまでのし上がるなど、いったい誰が予想しただろうか。

 同じように、21世紀になって海洋進出を始めた中国は、半世紀も経てばこの第一列島線を乗り越え、太平洋を自由自在に行き来する、世界有数のシーパワー国家になってしまうだろう。当然その頃には、伝統的なシーパワーたる日本や米国は、とっくに没落しているに違いない。

 ユーラシア大陸を制覇し、世界の海を制した中国は、他のどの国家も追いつくことのできない圧倒的な超大国、覇権国家として世界に君臨することになる。世界はようやく産業革命以前に戻り、ここに世界史上初の中華帝国秩序パックス・チャイナが実現するのだ――


 だが――


 そんな中国の目論見を看破していたのが、他ならぬ日本と米国だ。

 21世紀初頭、強大な経済大国になった中国にやたらと媚を売りまくっていた英独仏豪などの西側諸国家とは一線を画し、日米は一貫して中国を警戒してきた。

 ソ連が崩壊し、冷戦が終結してすぐに中国を仮想敵国と位置づけたのも日米だけだ。もちろん公式文書には一切記載されていなかったが、そんなものは両国の軍事ドクトリンの変化を注意深く観察すれば誰にだって分かる。

 冷戦時代、北海道を中心とする北方に戦力を集中させていた自衛隊が、その主軸を南西日本に移転させたのも、21世紀に入って新たに水陸機動団を発足させて南西諸島に配備したのも、ヘリ搭載護衛艦を事実上の軽空母に改造して洋上での作戦能力を飛躍的に強化したのも、すべて対中国シフトである。

 米軍に至っては、常に空母打撃群を3群以上、アジア太平洋に展開させるようになったし、台湾に次々と最新鋭兵器を売却してあからさまに中国に対抗し始めた。冷戦時代、主にソ連との無制限軍拡競争に歯止めをかけるべく結ばれた中距離核戦力INF全廃条約を米国が破棄したのも、もともとこの条約に加盟していなかった中国が無制限に弾道弾戦力を拡充していたことへの対抗措置だ。

 自衛隊とは、戦略レベルどころか作戦運用、部隊装備レベルにまで完全一体化を進め、同盟軍どころかほぼ同一軍とも言っていいレベルにまでその統合を押し進めた。


 ここに至り、ようやく英独仏が事の重大さに気付いた。地理的に遥か遠くにいて、今ひとつ中国の脅威に鈍感だったこれら諸国は、日米の本気を見て恐れをなしたのだ。


 世界史において、ランドパワーがシーパワーに勝ったためしはない。


 エアバスを一度に100機も買ってもらったり、大規模インフラを安く造ってもらうなど目先の利益に我を忘れていた欧州人たちは、やがて自分たちの文明が醜いアジア人に滅ぼされる運命だとようやく気が付いたのだ。

 そう――かつてチンギス・ハン率いるモンゴル帝国が、欧州諸国を蹂躙した時のように……


 豪州はいわば田舎の中学生のようなものだ。「今は中国がブームだ」という不確かな噂に踊らされ、時流に乗ろうと一瞬中国熱を上げてみせたが、彼らと深く付き合えば付き合うほど、連中が自分たちの価値観とは絶対に相容れない異質な存在だと気付き始めたのだ。

 そして、お膝元のASEAN諸国が中国の圧迫に対抗すべく日米陣営に加わった時、自分たちが元々シーパワーの一員だったことを思い出した。


 当時の日本人はあまり気付いていなかったが、所詮欧州諸国は――豪州も含めてだが――全部合わせても日本一国の国力より劣るのだ。

 日本人は、つい伝統的な“列強国”として欧州諸国を見てしまいがちだし、何と言っても明治維新において――欧州諸国が世界の覇権を握っていた絶頂期だ――彼らは日本の近代化に大きな影響を及ぼしたから、無意識に英独仏あたりを無条件にリスペクトして見てしまうのだが、彼らが欧州連合EUとして「ユーロ」という共通通貨を発行し、事実上の連邦国家を形成した時点で――通貨発行権を手放すということは、独立国家として消滅することと同義だ!――既に勝負はついていたのである。


 つまり――第二次大戦で欧州は完全に衰退し、冷戦時代を経て世界は米国秩序パックスアメリカーナの時代へ移っていた。

 そしてこの当時、世界はその米国と日本、そして中国が正面から対峙する、お互いが一歩も退けないガチンコ勝負の時を迎えていたのだ。

 その他の諸国は、要するにどちらの陣営にくみするか――


 米国と日本を中心とするブルーチームか!?

 中国ロシアなどが連帯するレッドチームか!?


 その二者択一を迫られていたのである。


 世界の覇権を巡る、史上最大の戦いが幕を開けようとしていた――

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