第224話 ヒグチ・ルート

 期せずして日本海軍の空母『瑞鶴』艦上で再会したジェイコブとその家族は、避難民用に開放された広い格納甲板の一角でお互いの存在を確かめ合っていた。

 甘えん坊のイザイアは先ほどからずっと父親の膝の上にしがみついたままだし、娘のアビゲイルはダドの腕に抱きついて離そうとしない。

 メリッサとジェイコブは、そんな子供たちを愛おしそうに見つめながら、お互いが経験したことを共有する。


「――じゃあ、あなたはたまたま日本領事館に行ってて助かったのね?」

「あぁ、本当にそれは偶然なんだ。JETROの幹部とのアポがたまたま取れて、領事館に着いた途端、あの攻撃が始まってね」

「私、その時領事館のすぐ傍にいたのよ。真っ直ぐ向かっていればあるいは……」

「うん、でも結果的に子供たちは君が学校から助け出してくれた……僕は一生君に感謝し続けるだろうね」

「……そうね……私たちの子供は運よく助かった……けど……」


 あのあと避難民の世話係をしていた日本の水兵を一人掴まえて話を聞いたら、この艦で保護している欧米人はせいぜい100人くらいだということだった。スクールには、自分が見ただけで400から500人はアメリカ人がいたはずだ。彼らは……


「――アーロンは……いい青年だった……」


 ジェイコブは、イジーの頭を撫でながらポツリと呟く。息子は、それを聞きながらじっと黙っている。自分の担任の先生が亡くなったかもしれないことを、彼なりに受け止めようとしているのだろう。

 その時だった。


「ヒグチッ!!」


 アビーが突然大声を上げ、格納甲板を歩く日本軍兵士を呼び止めた。兵士は、誰が自分の名前を呼んだのだろうとキョロキョロして、すぐにそれがアビーだと気付くと、白い歯を見せながらこちらに向かってくる。


「――Heeeey! How do you feel? (やぁ、調子はどうだい?)」


 第605偵察分隊の隊長、樋口曹長が満面の笑みを浮かべて彼女とその家族を見渡す。


「ダドっ! 紹介するわ――私のヒーロー、サージャント・メイジャーのミスター・ヒグチよ!」

「あぁ!! あなたが娘を……私の家族を……!!」


 ジェイコブは彼の肩を思わずぎゅっと固く抱き締めると、その手を握り締め、何度も何度も大きく揺すって伝えきれない感謝を表す。

 樋口は少しはにかみながら、目を丸くしていた。日本人はいつもこうだ。とてつもない親切を与えてくれたのに、それを相手に押し付けようとは絶対にしない。実に奥ゆかしい人々だ。


「――ミスター・ヒグチ、話してくれませんか? あなたはどうして私の家族を助けてくれたのです!? 妻の話を聞くと、恐らくあなた方は“救出任務”のためにあの場にいたのではなさそうだと……」


 ジェイコブの声に、周囲の欧米人たちが興味を示し始めた。彼らもまた、着の身着のままでたまたま日本軍に救助された人々だ。日本人たちは、どんなに感謝の意を示しても、ただ黙って微笑んで頷くだけだ。

 みな知りたいのだ。どうして自分たちは助かったのか。どういう人たちに、どういう思いで助けられたのか――

 どうやら樋口は、相当英語が堪能のようだ。彼の口からなら、いろいろなことが聞けるかもしれない。

 

「は、はぁ……まぁ……そうですね。本来は救出のためにあそこにいたわけではありません」


  ***


 いつの間にか、樋口の周りを多数の欧米人たちが取り囲んでいた。他の兵士たちと違って、彼は当面暇を持て余していた。横須賀のオメガ司令部行きの連絡便が出るまで、取り敢えず時間はたっぷりある。


「……そうですね、何から話していいか……ヨナハン一家を救出したのは、偶然です」


 樋口がゆっくりと話し始める。


「恐らく、他の皆さんが救助されたのも“たまたま”でしょう。一言でいえば、運が良かった」

「――だが、あの地獄の中で、日本軍の皆さんが中国兵と戦ってまで我々を救出してくれたのには、何か理由があるのでは?」


 誰かが質問を投げかける。


「そうですよ……確か上海は日本の管轄外だ。それでもこれだけの大艦隊をすぐさま沖合に出して、自国民のみならず、我々まで……普通はそこまでやらない」


 また別の誰かが疑問を投げかける。つまりこの人たちは「自分たちはなぜ助かったのか――」ということが知りたいのだろう、と樋口は気付く。キリスト教圏の人は、運命論が好きらしい。自分が立ち直るために、原因と結果、という明確なロジックが欲しいのだ。


「――日本人は、人種で区別はしません。日本人だから助ける、日本人じゃないから助けない、という理屈は、我が軍には存在しないのです」

「――私たちが、ユダヤ人だったとしても!?」


 突然、誰かが口走る。


「――えと……仰っている意味がよく分かりません。ユダヤ人だからどうだというのです?」


 樋口が、本当に困惑した様子で一同を眺める。すると、誰かが助け舟を出した。


「おい、あまりこの人を困らせないでくれないか。私はアフリカン・アメリカンだが、日本人から肌の色で差別されたことは私の人生の中で一度もない。彼らの中には、ユダヤ人とか、肌の色とか、そういう概念がそもそも存在しないんだ」


 なるほど。欧米の人種差別は、もしかしたら我々日本人が思っている以上に根強い問題なのかもしれない。


「ミスター・ヒグチ……本当に申し訳ありません。ひとつ、プライベートなことをお聞きしても?」


 ジェイコブが遠慮がちに訊ねる。樋口は戸惑いながらも先を促す。


「……あなたは……もしかしてジェネラル・キイチロー・ヒグチの血縁ではありませんか?」


 その言葉に、数人の避難者がハッとした表情でジェイコブを見つめる。


「――樋口……将軍……?」

「そうです。私の曽祖父は、第二次大戦が始まる頃、ジェネラル・ヒグチに助けられたユダヤ人だ」


 その言葉に、何人かの人たちが、ジェイコブの傍に集まった。みな、顔つきが変わっている。


「――君は、ヒグチ・ルートの生き残りの子孫なのか……!?」

「どういうことなんだ? 詳しく教えてくれ」


 別の避難者が声を上げる。何かを察したような顔だが、確かな答えを知りたいという表情だ。その前に、樋口曹長が答える。


「……あなたが仰っているのは、関東軍の樋口李一郎中将のことですね。確かに尊敬すべき方ですが、残念ながら私と血縁があるかどうかは分かりません。日本も戦場になりましたから、いろいろな資料が散逸しているのです。でも……少しでも中将のDNAが混じっていれば、こんな名誉なことはないと思います」

「どういうこと? ねぇダド」


 アビーが訊ねると、メリッサが彼女の肩を抱きながら自分の方を向かせた。


「アビー、あなたたちの名前が示す通り、うちはユダヤ系なの。それは知っているわよね」

「うん、もちろん。私はそれを誇らしく思っているわ」

「でも、今から100年以上昔、私たちユダヤ人は最大の試練に立たされていたの」

「もちろんそれも知っているわ。ナチスのホロコーストよね」


 ジェイコブが話を引き継いだ。


「――もちろんそれが最大の悲劇と言えるんだが、我々ユダヤ人は当時、ナチス以外のいろんな国で辛い目に遭っていたんだ。当時のナチスドイツは、極めて強大な国家だった……ヨーロッパで一番強い軍隊を持っていたし、科学技術も発展していて、国際政治にも大きな影響力を持っていた。そんな国が、公然とユダヤ人の迫害を始めたんだ」

「――うん」

「そんなとき、世界の他の国々はどうしたと思う?」

「…………」

「見て見ぬふりだ。特にドイツと国境を接するヨーロッパの諸国家は、下手をすると一緒になってユダヤ人を迫害し始めた。今は敢えてどこの国とは言わないがね」

「――そんな……」

「まぁ、それだけユダヤ人が昔から嫌われていた、ということでもある」


 ジェイコブの話は本当だ。ユダヤ人迫害がナチスドイツの専売特許だと思っている日本人は多いが、事実はそうではない。ナチス以外の、多くの西洋諸国家の人々は、伝統的にユダヤ人を忌み嫌い、敵視してきた。

 彼らに対する最古の迫害記録は、旧約聖書に描かれる「出エジプト記」だ。エジプトで奴隷労働を強いられていたユダヤ人が、モーセの導きにより約束の地を目指して苦難の旅路を続ける物語だ。


「……なぜ私たちはそんなに嫌われて――」

「おっと、その話を始めると長くなるから、次の機会にしよう。とにかく、当時私たちの曽祖父は、欧州でのナチス迫害から逃れるために、当時日本が事実上統治していた満州国のとある鉄道駅まで逃れてきたんだ」

「――オトポール駅だ」


 誰かが声を上げた。


「そう、オトポール駅。ソビエト連邦と満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道の駅だ」


 同じユダヤ人と思しき老婦人が、思わず目を瞑って隣の老紳士の肩にその身を預ける。夫婦だろうか。


「ところが、当時の日本はナチスドイツと同盟を結んでいた――これが何を意味するか、分かるかい?」

「ユダヤ人たちを、捕まえようとした……?」

「――それが、そうでもないんだ……不思議だけどね。ただ、彼らに満州国への入国許可を与えようとはしなかったんだ」


「当時からここ上海には、各国の租界があった。『租界』というのは、外国人が治外法権で住む場所――ある種の領土みたいなものだ。それで、オトポールのユダヤ人たちは、その上海租界の中のアメリカ人街に逃げ込もうとしていたんだ」

「アメリカはユダヤ人差別をしていなかったの?」

「――アメリカは今も昔もユダヤ人が支配する国だ」


 別の誰かが冷たく言い放った。彼はあまりユダヤ人のことを好きではなさそうだ。

 ジェイコブは敢えてその男を無視して話を続ける。


「で、結局身動きが取れなくなって進退窮まった時に、曽祖父たちを助けてくれたのがジェネラル・ヒグチだったんだ」

「――彼は、そのことが後で大きな問題になることが分かってて、それでもユダヤ人たちに食糧や衣類などの配給をし、病人を助け、上海への脱出もすべて手配してくれた」


 別の男性が話を引き継ぐ。彼らユダヤ人にとって、この話は有名なのだろうか。これを皮切りに、次々に人々が自分の知っているヒグチ・エピソードを語り始めた。


「実際、この件はドイツと日本の間で大きな外交問題に発展したんだ。だが、当時ヒグチの上官だった関東軍総参謀長のヒデキ・トージョーがヒグチに理解を示し、ドイツの抗議を一蹴したと聞いている」

「ヒグチはその時トージョーにこう言ったそうだ――ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることが正しいわけがない、とね」

「ヒグチはもともとユダヤ人コミュニティに理解があったらしい。この事件の数年前に開かれた極東ユダヤ人大会にも出席していて、ユダヤ人追放の前に彼らに土地を与えよ、とナチスを激しく批難する演説をした……と聞いている」

「――結果的に、数千人のユダヤ人たちが、この『ヒグチ・ルート』で無事にナチスからの迫害を逃れたんだ」


 ジェイコブが樋口曹長に向き直った。


「ミスター、今回私たちは、新しい『ヒグチ・ルート』で家族を無事に脱出させてもらえたんです。あらためて、心からの感謝を……」


 そう言って、彼はもう一度樋口の手を取り、固く握りしめた。周囲にいた多くの欧米系避難者たちも、みな一様に感謝の眼差しを向けていた。樋口が口を開く。


「……そう、ですね……皆さんを救出できたのは、我々としても嬉しい偶然でした。だが、命を懸けて救出活動を行ったのは、私だけではありません。他の、名もなき日本軍将兵たちも、厳しい条件の中で最善を尽くしたと思います。ですが、メリッサさんが最初に指摘されたように、我々はもともと皆さんを救出するためにあの場にいたのではありません。だから、皆さんのお国の大半の方は残念ながら救助できませんでした」


 避難民たちは、樋口の懺悔に対し首を横に振る。気にしないでほしい、というジェスチャーだ。この誠実な兵士に、私たちの意図がきちんと伝わればいいのだが……と誰もが思った。


「ミスター・ヒグチ、結局あなたたちは、あそこで何をやっていたのですか? もし差し支えなければ……」

「あぁ……詳細はお答えすることができないのです。軍機ですから。ただ――」


 樋口は皆を見回した。


「私に与えられた権限の範囲内でお伝えできることがあるとすれば、今回の事変は単なる北京軍の反攻作戦ではないかもしれない――ということです。私は、それを探るために現地で偵察任務についていたのです」

「――それはいったい……!?」

「すみません……それ以上はお話すべきではないと判断します。ただ、今回の事態は、日本だけでは対処できないかも知れません。その時はぜひ、皆さんのお国の力をお貸しください」

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