第221話 逃避行
あまりにも変わり果てたその光景に、メリッサは溢れる涙をどうしても抑えることができなかった。
異変は
8歳になる息子のイザイアをいつもの通り学校に送り届け、イジーの姉――17歳になるアビゲイル――の留学手続きのために日本領事館に向かおうと延安西路を車で走っていた時のことだった。
今考えると、なぜ直接領事館に行かなかったのだろうと後悔ばかり押し寄せる。ついでだから晩御飯の食材でも買おうかしらと一本手前の通り――これが延安西路だ――に建つ上海マートに寄ろうとしたのが悪かったのかもしれない。
道路はいつも通り酷い渋滞だった。そのうえ相変わらず中国人――いや、今は上海人と呼んだ方がいいのかもしれない――の遵法意識は皆無に近く、車と車の間をミニバイクやら自転車やらが我が物顔ですり抜けていく。まぁそこまでは許せるのだが、彼らはその先の信号が赤であってもお構いなしにガンガン先に進むのだ。
すると今度は、それを見ていた四輪のドライバーが苛ついて、先が詰まっているのに平気で交差点に車体を突っ込ませていく。当然渋滞は進まないから、交差点は車で塞がれてしまう。ほどなく信号は切り替わり、今度は交差車線の車が通れなくなってけたたましいクラクションが恐ろしいほど連打される。
こうなるともはや道路は麻痺してしまい、にっちもさっちもいかなくなるのだ。すると案の定ドライバーたちが車から降りてきて、道の真ん中で激しい口論が始まるまでがいつもの光景だ。
メリッサはうんざりだった。どうしてこの国の人たちは、ほんの30秒後にどうなるのか想像できないのだろう。アビーが日本に留学したいと言い出すのも無理はないわ、としみじみ思う。ジェイコブはいったいいつまでこの国に駐在するのだろう……今度あらためてきちんと話し合おう――
その時だった。
前方の、先ほどから数人のドライバーたちが小競り合いを繰り返している交差点辺りが、ひときわ騒がしくなった。
今度は一体なに? 喧噪の中に、時折怒鳴り声や泣き声が混じり始める。まさか、暴力沙汰になっているんじゃないでしょうね……冗談じゃない。このままじゃいつここを抜けられるか、分かったもんじゃない!
すると、突如として前方から多数の人が車の間を走ってこちらに向かってきた。皆もの凄い形相だ。上海人たちは口々に何かを怒鳴りながら、平気で車のボディに体当たりをかましつつ次々と後方に走り去っていく。そのうちサイドミラーに誰かがぶつかって、バキンと折れ曲がる。
「ちょっと!」
メリッサは思わず叫ぶ。だがその直後!
バンバーン――!!
銃声のようなものが辺りに響き渡った。
その途端、大きな悲鳴が空気を切り裂く。さらにタタタタタッという音、それに被さるようにさらに銃声、さらには怒号まで折り重なって、辺りは一瞬にして騒然となった。
「え!? なに?」
メリッサは運転席に座ったまま、車外をキョロキョロ見回す。気が付くと周囲はうっすらと白い煙のようなもので覆われ始め、そして相変わらず上海人たちが我先にと後ろの方へ走り去っていく。すると突然、バンッと誰かがメリッサの車に体当たりして、運転席の窓にしがみついてきた。
「えッ!?」
男は血だらけだった。頭部から大量の血を滴らせながら、ウインドウ越しに彼女を凝視する。その目は血走っていて恐怖で引きつり、何かを訴えようとしているかのように口がパクパクと動く。その直後、今度はその口からゴボォッと大量の血を吐いて男はくずおれ、そのまま視界から消えていった。
「きッ……キャァァァァッ――!!」
メリッサは思い出したように絶叫した。いったい何が起こっている!? ただの交差点の喧嘩じゃなかったの!? 上海の、いつもの光景じゃないの――!?
バキィィィィ――ン!!!
突然、フロントガラスが粉々に砕け散った。途端に、四方八方から銃撃音が聞こえていることに気が付いた。
目の前に、銃を構えた兵士が何人も立っていることを、ようやく大脳が認識する。
「オーマイガッ――」
メリッサは、いつの間にか自分が銃撃戦のど真ん中に放り出されていることを、ようやく理解した。兵士たちが、彼女を見つけてこちらを指差しているのが視界に入る。
逃げなきゃ――!!
なにがなんだかさっぱり分からないが、とにかくここはいきなり戦場になった。このままいたら、殺される――!!
***
「……マム……家には帰れないの……?」
「イジー? 今は緊急事態なの! あなたがマムを助けてあげるのよ!?」
アビーが弟を叱咤していた。
あのあと子供たちと合流できたのは、殆ど奇跡と言っていい。
何かあったらイザイアの通うアメリカンスクールに集合することを、いつだったかずいぶん昔に家族全員で決めたことがある。そんな適当な口約束、誰も覚えていないだろうと半ば諦めながら、それでもイジーだけは学校にいる筈だからとその場で車を乗り捨て、必死で銃火の飛び交う市街地を走り抜き、ほうほうのていで学校まで辿り着いたのだ。
すると、信じられないことにアビゲイルはちゃんと待っていてくれた。先に学校に着いた彼女は、甘えん坊の弟を校内から探し出し、メリッサが着くまで片時も彼を離さず抱き締めていてくれたのだ。
「ダドはッ!?」
「全然連絡がつかないの! どうしよう!?」
ヨナハン一家の大黒柱、ジェイコブは
民主中国政府がアメリカと和平を結び、西側諸国の新たな一員として自由貿易の枠組みに加わることを表明してから、もうかなりの年月が経つ。だが、この国の商慣行はなかなか改まらない。
メリッサの夫は、抜け目のない中国人が法の抜け穴を利用して不公正な商取引に走らないよう、常に目を光らせるいわば「貿易Gメン」のような仕事をしている。
ここ上海に家族で住み始めてかれこれ6年だ。大統領の任期は残り2年だから、今年中には次の転職先を探しておかないと、というのが最近の彼の口癖だが、本当は
そんなに中国が好きなのだろうか。彼の仕事が重要なのは理解しているつもりだが、もう少し子供と家族のことも考えてほしい。この国は、まだ内戦中なのだ――
そして、メリッサの不安は突如として的中してしまった。
唐突に、何の前触れもなく街中に出現した兵士たち。緑の軍服に赤の星マーク。あれっていわゆる北京派の軍隊なんじゃないの? 「戦闘が行われているのは北部の日本管轄地域だけで、ここは絶対に大丈夫」と言っていたのは、やはり間違いじゃないか!
学校に辿り着くまでに、何十人、何百人という死体を見た。もしかしたら、本当はもっと殺されていたのかもしれない――とにかく、数えきれないくらいたくさんの死体が街じゅうに転がっていた。
「――メリッサ!!」
ジェイコブ――! と言いかけたが、振り向いた先にいたのはイジーの担任のアーロンだった。
「あぁ、先生!」
「よかった! 無事だったんだね……」
アーロンはまだ20代後半だが、歳の割には落ち着いた好青年だ。大学を卒業するため、途中で休学して海兵隊に数年間従軍していたという苦労人だ。
「――メリッサ、着いて早々悪い知らせだが、ここにいると危ないかもしれない……」
「え?」
「中国軍は、どうやら米国人を目の敵にしているらしい」
「そんな……でも――」
「あぁ、分かってる。非武装の民間人に危害を加えるのは戦時国際法違反だ。だけど、あの連中はそんなこと、屁とも思っちゃいないよ……先ほど大使館も襲われたらしい」
「じゃあどこに避難すれば……」
「いいかいメリッサ、今この国に安全な場所はどこにもない。だから、ここを脱出するか、居残るかは自分で――家族で――判断してくれ。学校は、どちらの判断に対しても、一切責任を持てない」
アーロンは一語一語しっかりと区切って、今の絶望的な状況を彼女が十分理解できるよう説明する。子供たちが、怯えた様子でメリッサの腰にしがみついた。
「――か、海兵隊はどうしたの!? アメリカ人を守る盾は!?」
「メリッサ……海兵隊は来ない。もともと大使館には一個分隊しか駐留していないんだ。そこに1,000人以上の敵兵がなだれ込んだ」
「……そんな……!」
ジェイコブの職場はその大使館の3階にあるオフィスなのだ。恐ろしい想像が、彼女の脳裏を駆け巡る。
アーロンは、彼女がショックを受けていることを敢えて無視するかのように、校庭の片隅に血塗れになって横たわる女性のほうに視線をやった。大使館の職員だろうか……今やここには、上海中のアメリカ人が集まっているような気がする。誰もが傷つき、誰もが大切な人と生き別れになったままだ。
「――そのうちここにも中国兵がやってくるだろう。みんなと一緒にいたら助かるかもしれないし、逆にまとめて殺されるかもしれない。単独行動の場合は目立たないけど、見つかったら間違いなく殺されるだろう。どっちにしても、自分の身は自分で守るしかないんだ」
「ねぇ! 日本領事館は? アメリカが駄目なら、あと頼れるのは日本しかないんじゃないの?」
アビーが話に割り込んできた。彼女は来年、日本の高校に留学する予定だったから、すぐにそのプランが頭に浮かんだのだろう。
「……それも考えたんだが、これだけの人数で日本人学校や日本領事館に移動するのはほぼ不可能だと思う。目立ち過ぎて、却って危ないと思うんだ。いきなり大人数で押し掛けて、彼らが全員受け入れてくれるかどうかも分からない……だったら単独で移動したほうがいい」
確かに、既にスクールの敷地には数百人の米国人が集まっていた。みな着のみ着のままだ。ここに来るまでに、酷い暴力を受けている人も多数いるようで、そうした怪我人を運ぶ手段もほとんどない。
アーロン自身は「生徒たちを守る」と言って動こうとしない。
「分かった――うちは家族だけで日本人学校を目指す」
そういうとメリッサは、子供たちをキッと見据える。
この子たちは、私が守らなきゃ……しっかりしろ! 泣いてる場合じゃない!
「――行くわよ! こんなところで泣いてたって、助かる保障はないわ。ダドもまだ死んだと決まったわけじゃない」
***
逃避行は、想像を絶する苦難の連続だった。
市内のあちこちで、中国兵たちが暴虐の限りを尽くしていた。あれほどの大都市が、たった一日でこれほどの廃墟と化すのか、というほど街は破壊され、略奪され、あちこちに無数の遺体が転がっていた。
アメリカンスクールと日本人学校は、おそらく直線距離にして5キロも離れていなかったはずだが、その距離を踏破するのに丸一日以上かかってしまった。
最初銃声がひっきりなしに聞こえている時でも、メリッサは頭を低くしながら少しずつでも前進しようとしていたのだが、同じように道路を避難していた上海人の家族連れが目の前で蜂の巣にされたのを見て、慌てて物陰に隠れたのだ。
そこから先、彼女は辺りに人の気配がない時だけを狙って少しずつ前進した。失敗は許されない――慎重のうえにも慎重を期さないと! 私たちはユダヤ系だ。こういう時、ユダヤというだけで殺された祖先たちが、いったいどれだけいたと思っているのだ。
実際、昨夜は恐るべきものを目撃してしまった。
ある一角を曲がったところにある公園に、中国兵たちが駐屯していた。幸い公園の外周は真っ暗で、一家が植え込みの向こう側に潜んでいることを、彼らに気付かれる心配はなさそうだった。その代わりに彼女は、生涯忘れ得ない残忍な光景を目撃してしまったのだ。
その公園には、欧米人ばかり恐らく百人以上はいたと思う。全員――老若男女問わず――服を剥かれて全裸であった。それだけではない。彼らが一様に両手を挙げて一列で並んでいたから、何事だろうと目を凝らしてみたら、全員がその手の平に針金を貫き通され、まるで魚を吊るすように繋がれていたのである。それは、大人も子供も一切の例外のない、身の毛もよだつような容赦のない仕打ちだった。
思わず悲鳴をあげそうになった時、咄嗟に口を塞いでくれたのは8歳のイジーである。彼は目に涙をいっぱい溜めたまま、首を横に振った。いつの間にか、この子はジェイコブの代わりを立派に務めてくれているのだ。
そんな悲惨な光景を目にしてしまったせいで、ますます一家の逃避行のスピードは鈍化した。捕まったが最後、自分たちも同じ目に遭うに違いないのだ。いや、下手をすると子供や母親だという言い訳も一切通じないままに、無慈悲に殺されてしまうだろう。
結果として、目的地に到着するまでに想像以上の時間を食ってしまった。スクールを出てから既に30時間以上が経過していたというわけだ。
だが、ようやく日本人学校に3人が辿り着いた時、そこは既にもぬけの殻だったのである。
正門には鍵が掛かっていたが、その頑丈な錠前を乱暴に破壊しようとした痕跡がいくつも残っていた。敷地の周囲を取り囲む塀には、無数の弾痕や黒焦げになった痕跡が残っている。中国軍の襲撃を受けたのは間違いなさそうだった。
もしかして、日本人たちは既に全員連行されたのか――!?
あるいは殺されたか――
メリッサは、今のところ唯一の脱出のアイデアだった日本人学校への避難が徒労に終わったことと、昔外国スクール同士の交流会で訪れた時に見た、清潔で規律に満ちたこの学校の雰囲気が、無残な破壊痕によって台無しになっていることを考えているうちに、溢れる涙を抑えることができなくなっていた。子供たちの前で弱みは見せたくなかったが、もはや限界だった。
すると突然、8歳のイザイアが絹を引き裂くような悲鳴を上げる。
「どうしたのッ!?」
姉のアビーが振り向くと、彼の視線の先に恐るべきものが近付いていることに気が付いた。
中国兵の一団だった。
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