第12章 奪還
第166話 黒河の民
黒竜江省最北端――ロシアとの国境の街・
中国共産党が史上最悪の人権弾圧を行っていたことが世界中の人々に認識されるようになったのは、中国が内戦に陥った際、一方の当事者・上海派が国際世論を味方につけるために大々的な北京派批判プロパガンダを行ったせいだ。
それまでも、中国の人権問題はさまざまな場面で断片的に見え隠れしていた。
特に酷かったのが「東トルキスタン」――中国は「新疆ウイグル自治区」と称して国内問題に矮小化しようとしていたが――に対する弾圧だ。
確かにこの地域は、有史以来「漢」「唐」「モンゴル帝国」「清」などに支配されてきた歴史を持つが、第二次大戦前は「東トルキスタン共和国」として立派に独立国家を打ち立て、世界からも承認されていた。住民はウイグル人。有色人種だがその瞳は碧眼で、男女ともに際立って美しい容貌を持つ。トルコ系で、いわゆるイスラム国家だ。
ところが日中戦争が終わって日本軍の脅威がなくなったことをいいことに、当時の毛沢東率いる共産党軍は、東トルキスタン政府の主要閣僚が乗った航空機を意図的に撃墜し、これを抹殺した。それと同時に雪崩を打って彼の地に侵略を開始、あっという間に占領したのである。
侵略の理由は単純だ。この地に眠る石炭・天然ガス・ウランといった豊かな地下資源の収奪を図ったのである。もちろん東トルキスタンの人々――ウイグル人たちはこれに徹底抗戦したのだが、大戦直後ということで世界はまだ混乱していて、こうした辺境の紛争はほとんど認識されずに看過されたのであった。
それからのウイグル人は、史上稀にみる苦難の歴史を辿る。
まずは民族浄化。当時人口1000万ほどもいたウイグル人に対し、中国は多数の漢族を入植させ、強制的に土地を収奪した。そればかりか、ウイグル女性を片っ端から蹂躙し、ことごとく家族と引き離して中国本土へと強制連行したのである。また、30代以下の若年層には積極的に中国本土への移住を促し、まだ若いうちにこれを徹底的に思想教育、中国人化を進めた。これにより、駐留する人民解放軍の中国人兵士と合わせると、ウイグル人総人口を上回る漢族がこの地を我が物顔で闊歩するようになった。
さらに、イスラム教を禁止し、寺院を徹底的に破壊。彼らの文化を根こそぎ抹殺。だけでなく「バイリンガルを育てる」との名目で事実上彼らの言語を禁止し、中国語を強制した。
さらには、主にロプノール地方を中心として数十回におよぶ核実験を繰り返し、この地を放射能で再起不能なまでに穢したのだった。
これらの過程において、当然ながら多くのウイグル人が自由独立を求めて抵抗したが、彼らは不当に逮捕されたり迫害や拷問を受けたりして、その多くが強制収容所送りになったほか、虐殺された総数は数百万人におよぶとみられている。これは、ナチスによるユダヤ人のホロコーストに匹敵するか、もしくは上回るとされている数字だ。
だが、国際社会は冷淡だった。中国が強大な経済力で世界を支配するようになればなるほど、これらの「不都合な真実」は掻き消され、世界は『元』の力にひれ伏すようになった。もちろん、普段は美辞麗句を並べている国連も例外ではなかった。常任理事国・中国の人権弾圧は、国連にとっては「取るに足らない問題」だったのだ。
さらに不可思議だったのは、同じ民族であり、同じ宗教を信奉するイスラム諸国が、この「ウイグル人弾圧問題」に声を挙げなかったことである。その理由は簡単で、サウジアラビアやイランなど、中東のイスラム大国もまた、自国内で人権弾圧を行っていたからだった。中国を名指しで非難することを控える代わりに、自分たちへの非難もさせない。
こんな偽善がまかり通る中で、ウイグル人はただひたすら、民族滅亡の道を辿っていた。
そんな中、ついにこの問題に切り込んだのが日本である。
もともと日本は、第二次大戦以前からウイグル人やチベット人など、中国周辺の少数民族を強く支援してきたという歴史的伝統があった。もちろん中国やソ連(当時)の共産勢力を牽制するためである。
特に大日本帝国陸軍は、当時満州国にあったハルビン特務機関を中心として、彼らイスラム教徒等との同盟を強力に推進し、その民族自決を後押ししていた。
そんな伝統もあってか、日本国内では大戦が終結してもなお、ウイグルに関心を寄せる人が多く、この「中国によるウイグル人弾圧」という問題についても、他国に比べ非常に高い関心をもって推移を見守っていたのである。
だから日本は、米中戦争をきっかけとして中国共産党が弱体化すると、トルコをそそのかしてウイグル独立運動を裏で強力に支援することとした。東側でつばぜり合いを繰り広げていた日本は、ちょうど真反対の西側でウイグル独立闘争を激化させることにより、中国を挟撃しようと考えたのである。
中国内戦が勃発した時、まがりなりにも自由民主主義を標榜する上海派に、半ば「踏み絵」としてウイグル問題を取り上げさせて共産党攻撃をさせたのも、実は日本の諜報機関である。
結果的に中国共産党は潰走し、僅かに残った勢力は東北三省に逃げ込んだ。その際に、中国本土に既に取り込んでいたウイグル人たちを、腹いせとばかりに一緒に連行したのである。
ただし、あくまでも彼らは「二等国民」であった。だから、ハルビンなど大都市中心域には住まわせず、黒河市など辺境に置いたのである。
そういうわけで、この地には今でも多くのウイグル人やその他の辺境民族が居住していて、なおかつ彼らに対する不当な差別や理不尽な収奪が横行していたのだった。
***
「やめて……やめてください……」
「はぁ!? お前ら、誰のおかげでここで暮らしていけてると思ってるんだ!?」
黒河市のメイン通りにある歩道上で、初老の男性がうずくまっていた。みると、小さなワゴン屋台が滅茶苦茶に破壊されている。すぐ傍で、年端もいかぬ若い娘が制服姿のいかつい男たちの足許に取りすがっていた。
「ラビヤ……いいんだ……余計なことは言うな……」
すると、男たちは先ほどラビヤと呼ばれたこの少女の頭を掴み、無理やりグイと上を向かせた。
「ほぅ――お前、悪くないじゃないか!?」
「――いやっ!」
男たちは、ラビヤの周りを取り囲んだ。初老の男性が慌てて身体を起こし、割って入ろうとする。
「す、すみません……勘弁してください! お代は結構ですから……」
その途端、制服の一人が男性の腹を思いっきり蹴り上げた。「ゴフッ」と思わず声が出た男性は、そのまま地面に這いつくばる。すると、別の制服がその頭を踏みつけた。
「父さんッ――」
「おい貴様!! こんな豚の餌みたいなもん食わせといて、お代はいらないだぁ!? むしろこっちが迷惑料貰わなきゃな!」
すると、すぐ傍で粉々になっている屋台を、数人の男たちが足で掻き分け始めた。ほどなく何かを見つけ、拾い上げる。
「おい、コイツは貰っていく。いいな!?」
「やッ! やめてください――それはッ!!」
粗末な麻袋には、このワゴン屋台の今日一日の売り上げが入っていた。親子が日の出前から必死で働いて稼いだ、なけなしの現金だ。これがなければ、もはや明日の仕入れは不可能だ。
男性は、麻袋を取り上げた男に縋りつく。すると突然別の制服が背後から警棒で男性の背中を思いっきり殴りつけた。
「ぎゃッ――」
「父さんッ!!」
男性は再度くずおれ、土埃の舞う地面に倒れ伏した。ラビヤが覆いかぶさる。だが、さらに別の制服が今度はラビヤの服を強引に引っ張って、彼女を引き起こし、そのままギュッと抱き締めた。さらに違う制服が彼女の前に立ちはだかり、その股間に警棒をあてがう。
「ひっ――」
「おい、あまりイキがるなよウイグル族風情が」
男たちはラビヤを取り囲んで、身体のあちこちを不躾に触り始めた。
「おい、このまま連れて行っちまうか!?」
「ぎゃはははは!」
男たちの横暴に、周囲の人々は何もできないでいた。多くはラビヤと同じような顔つきの人々で、明らかにウイグル人の同胞だ。だが、制服の男たちの左腕には大きく「公安」という白抜き文字が入った黒い腕章が付いていて、誰もその行動を諫めることができない。
下手にここで助けに入ったりしたら、今度は自分がターゲットにされ、言いがかりをつけられた挙句逮捕連行されてしまうのだ。その先は、お決まりの強制収容所送りだ。人々は唇を噛み締め、悔しさに耐える。
「おい、気分悪いから、この金で飲みなおそうぜ!?」
公安の一人が、先ほど取り上げた麻袋を振り回しながら仲間に告げると、ようやくラビヤは解放され、地面に転がされた。地面を這いずり、その肩を弱々しく抱く初老の男性。中国人たちは、そんな親子をつまらなそうに見ると、ベッと唾を吐いて立ち去って行った。
「父さんっ――大丈夫!?」
「あぁ……これくらい、なんてことはない」
男性は、頭から血を流したまま、娘に笑いかけた。痛む身体を庇いながらノソノソと立ち上がると、滅茶苦茶になった屋台の残骸を力なく集め始める。
通りの向こうには、白い塗装をされた装甲車が停まっていた。車輛のボディにも、やはり「公安」と書かれている。そのせいで、人々は父娘を手助けすることさえできなかった。みな、申し訳なさそうな顔をチラリと向けながら、何も見なかったようなふりをして通り過ぎていく。
***
同じ頃――
黒河市内の別の場所では、別の問題が起きていた。
鉄筋コンクリート4階建てのその古ぼけた建物は、裏通りの路地に面していて間口はそう広くなく、道に面した壁には1階部分に正面玄関。2階より上にはいくつもの小さな窓があって、それぞれに赤茶けた鉄錆の浮いた手すり柵が付いている。
一見するとただの貧民用アパートに見えるが、実際のところは少数民族用の救護院だった。ここに住むのは、身寄りのない老人や働くことができない病人、そして孤児たち。ウイグル人やチベット人など同じ少数民族同士が少ない喜捨で支え合って、つつましく暮らすささやかな空間だった。
すると突然、その救護院の前に白い装甲車が何台も突っ込んできた。玄関先で軋む時ならぬ急ブレーキ音に、何事かと窓から何人かが顔を覗かせる。
ボディに「公安」と書かれたその装甲車からは、突如として多数の武装警察官が完全装備で飛び降りてきた。躊躇うことなく玄関扉を蹴り飛ばし、次々と建物内になだれ込んでいく。
「――な! なにごとですかッ!?」
救護院で働く年配のウイグル人女性スタッフが、武装警察たちを押し留めようと廊下に立ち塞がるが、走り込んできた彼らの前になすすべもなく吹き飛ばされる。
「――邪魔をするな! たった今からこの建物は市当局が接収する!」
「な――!!」
頭に暴動鎮圧用の鉄帽を被り、真っ黒な戦闘服に防弾ベストを着込んだ男たちは、統制の取れた動きであっという間に各階を占拠する。廊下を一列になって進み、次々に扉を開け放って中の住人をどやしつけていった。
「すぐに荷物をまとめてここを出るんだ!」
「――や、やめてください……」
多くの住人は力もなく、抗う術もなく怯え切った顔でうずくまるしかない。だが、武装警察はそんな相手だろうが容赦せず、部屋にズカズカと入っては中の什器や生活用品を勝手に窓から放り捨て始めた。
「きゃぁぁぁぁ!」
「やめろ――!」
「うるさいッ!」
ドガン、バンッ――! ガシャン、バキィィン――!!
「な、なんでこんなことするんですかッ!!」
救護院の女性スタッフが武装警察の指揮官らしき男に縋りつく。指揮官は、それを乱暴に振り払って彼女をドンと後ろに突き飛ばした。ガツン、とテーブルにぶつかって、置いてあった食器がすべて滑り落ち、砕け散る。
「ここはこのあと
「そんなこと突然言われても困ります! 私たちはどこに住めばいいんですか!?」
「それは俺の知ったこっちゃない! 文句があるなら市に直接言え!」
それが事実上のゼロ回答であることくらい、彼女には分かっていた。市当局が自分たち少数民族の訴えを聞いてくれたことなど、今までただの一度もないのだ。
「――華龍、って……」
「お前たちは知らないだろうがな、華龍はアジア最強の軍隊だ。アメリカだろうが日本鬼子だろうが、華龍サマの前じゃあ震えあがってみんな逃げちまう――つまり、俺たち中国人の希望なんだ。その華龍の大部隊が、もうすぐこの街にやってくる。そしてここは、幹部の皆さんの宿舎として提供される」
「そんな理不尽な! ここは貧しい人たちの唯一の居場所なんです!」
その言葉を聞いて、指揮官は救護院のスタッフをねめつけた。
「お前たち――いつ『人』になったんだ!? この野蛮人が!」
すると、ひときわ大きな叫び声が廊下の向こうから聞こえてきた。
「おまえらァァァ!! 俺たちを虫けら扱いしやがってェェ!! 何でもかんでも思い通りに――」
バンッ――!!
突然銃声が響いた。と同時に「いやぁァァァァッ!!!」という悲鳴が聞こえる。間髪入れず、ドカドカと多数の足音が重なって、騒ぎは喧噪の中に包まれてしまった。
「チッ――大人しく従っていれば痛い目を見なくて済むものを……とにかくお前らは今すぐ出ていけ! 今回の無礼は大目に見てやるから、とっとと消え失せるんだ」
滅茶苦茶な理屈だった。だが、こんな理不尽がまかり通っているのが今の黒河市の現状だった。街の角々に立っている武装警察、そして公安の装甲車両。彼らは街の治安を守っているのではなく、黒河市在住の中国人、すなわち漢族の人々の利益を守るためだけに存在する。そのために、たとえ少数民族が虐げられようが、彼らにはそれは「事件」として映らない。
華龍の評判が高いのはあくまで「中国人」すなわち漢族の間だけの話である。彼らは北京派の忠実な犬として、共産中国の時代に甘い汁をすすった連中の利益代表であり、漢族の理屈を代弁する暴力装置にしか過ぎなかった。
街に怨念が渦巻いていた。
虐げられた者たちの、唇から滲む血の臭い。理不尽な暴力を受けた者たちの、針を刺すような痛みの記憶。何が華龍だ。何が公安だ。
いつか必ず……この報いは受けさせてやる――
その時、街の外から軍靴の音が聞こえてきた。
それは、地面を揺らし、建物に反響した。
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