第139話 悲しい願い
「おーい! そこのグリス取ってくれよ!」
「えーっ!? そんなの自分で取れよー」
「いいじゃねぇか減るもんじゃなし……」
「グリスは減るんだよっ!」
ハルビン――
兵たちが思い思いの場所に陣取って、自分の銃を磨いていた。
遠望には練兵場の端に軍用トラックやら装甲車やらが何台も停めてあって、何人もの人影がいそいそと立ち働いている様子が窺える。
いっぽうで基地の搬出入口ではひっきりなしに貨物トラックが出入りしており、物資や装備品の搬入、入れ替え等が頻繁に行われているようだった。
場所はここから遠く離れた
ここ本部施設勤務の兵員たちの普段の仕事は、もちろん華龍本部の防備を固めることなのだが、いっぽうで最前線に張り付いていて動けない部隊に代わって、軍団長肝入りの特殊作戦とか、神速を旨とする遊撃作戦などに駆り出されることもある。
軍団長直属――ということで、一般的な華龍兵士の装備よりは相当品質が高くてピカピカのものを支給されることも多いのだが、
そこへ来て今回のパレードである。
将軍の覚えめでたい前線部隊に負けず劣らず、俺たちだって頑張ってるんだぜ――というアピールを行う絶好の機会である。特に将校団は、これを機に自分たちのことももっと目をかけてほしい、という希望を叶えるチャンスだったから、配下の兵たちには特にその準備を入念に行うよう発破をかけていた。
***
そんな様子が窓から窺える
部屋の中心に鎮座する黒の革張りソファーに向かい合って座っているのは、秀英と
「またもやお呼び立てして本当にすみません
「いやいやぁ、ご遠慮する必要はありませんぞ」
先日ハルビンの街で
だが実際のところ、この日は秀英自身も大きく傷ついていたし、正直疲れ果てていた。怪物と人間の遺伝子を掛け合わせるという非道の禁忌を冒していたことをあっさりと白状したことにも衝撃を受けたが、その理由が「人間は弱い生き物だからだ」と言い放った点において、同意せざるを得なかったのも事実なのだ。
だからこの日、秀英はそれ以上李軍を問い質すことを諦めて、日を改めることにしたのだった。何より重傷を負ったミーシャが心配だったし、オメガの本当の姿を見せつけた
今日は、秀英なりに自分の考え方を整理したうえでこの妖怪と再戦、というわけだ。
「先生、先日の話の続きです。例の“人間が生物学的に弱い”という話……」
「あぁ、そうでしたな――私が人間の獣化を進める理由についてでしたな……」
「ええ。獣の方が本当に強いと言えるのでしょうか?」
「と、いうと?」
「――今や人間は地球上の全生物の最上位に君臨する生き物の頂点です。確かに素手ではどうにもなりませんが、その代わり人間は高度な知性を手に入れ、文明を築いた。だからライフルの一撃でライオンを斃すことができます。チーターのトップスピードは時速百キロ近いとされていますが、それはほんの十数秒の間だけでしょう。それに対し人間は自動車という機械を使い、それを上回るスピードで何十時間でも移動することができる。これでも人間は弱いと言えるでしょうか!?」
これが、秀英の言い分だった。
「――なるほど……将軍は、人間と人間以外を分ける大きな解剖学的な特徴をご存知ですかな!?」
「解剖学的な……特徴……? 脳の大きさとか!?」
「いえいえ、脳容量の大きさだけで言えば、人間より大きな脳を持っている生物は幾らでもいますよ。脳の大きさ比較はあまり意味がありません。そうではなく、人間にしかないその特徴が、ヒト種の自然界での弱さを決定づけているものです」
「……はて……」
「答えは『二足歩行』です――地球上で、二足歩行する動物は人間しかいません」
「いやしかし……ニワトリだって二足歩行ではないですか? サルやクマも立ち上がるし……他にも――」
「将軍、それらは厳密には『二足歩行』とはいわないのです。
人間の骨格標本を思い浮かべてください。二足歩行の人間は、頭蓋骨から真っ直ぐ脊椎が下に伸びていますよね……それに対し四足歩行のイヌやブタ、それこそクマもそうだ……頭蓋骨から脊椎はどの角度に伸びています?」
「――それはもちろん、横に伸びている……」
「その時それら四つ足動物の頭蓋骨はどこを向いていますか?」
「前方だ……進行方向……」
「では、人間が四つん這いになると、頭はどこを向きますか?」
「同じでしょう……前方を向く」
「違いますよ!? それは首を起こして前を向いたに過ぎない。そのままであれば、人間が四つん這いになれば顔は地面を向くはずだ」
「あ――」
「頭が自然な状態で前を向いた時、二本足で立っているか、四本足で立っているか、それが二足歩行と四足歩行の大きな分かれ目です。そして、脊椎動物の頭蓋骨には例外なく、脊椎がくっつく位置に穴が開いています。動物の頭蓋骨の場合、当然ながらその穴は後頭部に開いています。それに対して二足歩行の人間の穴は頭蓋骨底部、つまり真下についている。穴の位置が決定的に違うんです。
それで言うと、一見二足歩行に見える鳥も、脊椎が通る穴は頭蓋後部に開いている。もちろん、立ち上がった時のサルやクマも同じです。彼らは人間が四つん這いになる時と逆で、二本足で立った時に頭を折り曲げて前方を見ているだけなのです」
「なるほど……」
「そして、この頭蓋骨底部に脊椎が通る穴が開いている生物は、地球上で人間しかいない」
「……!!」
「ええ、まさにこれこそが、人間が他の動物と決定的に異なる解剖学的な特徴なのです」
相変わらず李軍は科学者らしい論理的な説明が上手い。しかし、二足歩行の生き物がこの地球上で唯一人間だけだったとは、あらためて言われると驚くしかない。
「さて将軍。では、武器を持たない裸の人間がサバンナに放り出された時のことを今一度思い浮かべてみてください。その場合、人間の身体機能として決定的に他の四足歩行動物に劣っているものとはなんでしょうか?」
「…………」
「答えは『走る速さ』ですよ」
「あっ……確かに……」
「動物は走る時に足を四本使います。後ろ脚で蹴り出している間に前脚でさらに地面を蹴り上げ、さらに前へ進むことができる。これに対し人間は、二本の脚でしか走れない。その差は決定的です。あの鈍重なカバだって、人間の短距離走世界記録保持者より早く走ることができるのです」
「うーむ……」
「――草原で力のない動物が肉食獣に襲われたらどうすべきでしょうか?」
「それは……走って逃げるしかない……」
「その通りです。でも人間は決定的に足が遅い――逃げ切れないのです。それに――」
「それに……?」
「二本足で立つと、遠くからでも天敵に見つかりやすくなる。それだけ背が高くなりますからね……」
「その代わり、こちらも敵を早く見つけられるのではないですか?」
「早く見つけたところでどうするのです? どっちみち逃げ切れない」
「ではなぜ人間は――」
「おっと! それをここで言い出したら話が堂々巡りになりますよ!? 先日も言いましたが、人間は自らの弱さを受け入れ、その代わり殺される以上に産むことを選んだ。これが人間種の基本的な生存戦略なのです」
「……そ、そうでしたね」
「ところが戦場というのは過酷なものです。陸戦の最後はどの時代でもやっぱり歩兵同士の白兵戦で決着がつく。同じ弱いモノ同士の人間が戦うには、一部の例外を除いて少しでも戦闘に有利な体型のほうが勝つに決まっている。小さい者より体格の大きな者、筋力の劣るものより筋骨隆々の者……」
「そりゃそうです」
「であれば、人間の知能を持ちながら、獣の身体を持った者のほうが強いに決まっているじゃないですか!?」
「……そういうものなのか……」
「そういうものです。なぜこれだけ科学技術が高度化しているのに、二足歩行のヒト型兵器が開発されないか、これでお判りになったでしょう?」
「……そ、そうですね……分かり……ます……」
「良かった――そうです、答えは“人間の形をした兵器は構造的に弱いから”です。あのロボット大国の日本でさえ、戦場にはヒト型兵器を送り込まない……ドロイドが唯一活躍しているのは月面基地やステーションだと聞きます。なぜなら宇宙船は人間型を基準に設計されているからです。
逆に野戦では四つ足やクモ、ムカデのような形状をベースにした兵器ばかり送り込んでくるじゃないですか!? それが一番戦闘に向いた形状だからです」
「…………」
「――お判りいただけましたか? 私が人間の獣化を推し進める理由……」
李軍がまるで勝ち誇ったかのように得意げな表情をしてみせた。自分の判断はこうやって論理的に考えた結果導き出された極めて合理的な根拠に基づいているのだと。
だから秀英は、やはり李軍を問い質すしかないのである――
「――ええ、よく判りました。でも、だからといって兵士を生きたまま
***
「その時の李軍の顔ときたら! 完全に一本取られた、という感じで顔を真っ赤にして、用事を思い出したとかでそそくさと帰っていったのだ――」
こんなことは、実は三人とも初めての経験である。秀英は昔から人民解放軍の将校で、ほとんど家にいなかったし、ましてや詩雨がこんな身体になってからは、誰を家に呼べるわけでもなく「友人を呼んで自宅でディナー」などますます縁遠くなっていたのだ。
だから、敵兵とはいえ、異形の詩雨を何のためらいもなく友人と呼んでくれた未来のことを、詩雨本人はもちろん、兄である秀英も心から敬愛するようになっていた。今や秀英にとって、未来は敵兵というより単なる歳の離れた友人、といった趣だ。
だから今夜は、日頃の感謝を込めて、未来をディナーに招待したのだ。
「『そういう兄さんの顔も真っ赤になっちゃってるよ』だそうですよ」
未来が詩雨の思念を読み取り、秀英に通訳する。その言葉に、秀英はことのほか嬉しそうだ。何せ妹とこうやってコミュニケーションを取れるということが、今の秀英にとって何より幸せなことなのである。
「――お? そうかそうか……こりゃちょっと飲み過ぎたかなぁ」
テーブルの上には二本目の紹興酒の瓶が置いてあった。未来も少しくらいなら酒を嗜むが、こんな度の強い酒はそうそう呑めるものではない。つまり、既に丸々一本分くらいは秀英が一人で飲み干しているのだ。
「それで……将軍? ハオユーくんのことは何か言ってましたか?」
浩宇は未来が仲良くしていた華龍の兵士だ。未来のために李軍の研究施設を探ると言って侵入を試みた日からずっと行方不明なのだ。その後未来たちを市街地で襲ってきた獦狚の群れの中にいた一頭が、未来がお守りとして彼にプレゼントしたはずのブレスレットを爪の間に挟んでいたことから、ただならぬものを感じ、真相解明を秀英にお願いしているのだ。
「――あぁ……私は、この話を持ち出した途端にあの男が逃げ出したのがなによりの証拠だと思っている」
「じゃあやっぱり……え? そんな……」
未来が詩雨と何か会話しているようだった。
「どうした未来――詩雨が何か言ってるのか?」
「はい……『もしその子が
「……確かに詩雨の言う通りだ。見た目は
食卓が、一気に沈鬱な雰囲気になる。
「あ……うん。詩雨さんが『せっかくのディナーだからもっと楽しいお話しましょ』だそうです。私もその案に賛成です」
「お……おぉー、そ、そうだな! 呑もう呑もう!」
「『兄さんは飲みすぎー!』だそうです……ぷぷっ!」
「なんだ? 未来、なんか可笑しいのか!?」
「だって……この会話、なんか独特で可笑しくないですか? あははっ……」
未来が楽しそうに笑った。この子がこんなにリラックスして笑うところを見るのは初めてかもしれない。秀英もなぜだか嬉しくなって、つい笑いが込み上げる。
「あははっ! そうだな……確かに滑稽だ! わははっ……わははははっ!!」
「――しょ、将軍っ……詩雨さんも『あはははは!』だそうですっ……あははっ! あははははっ! おっかしい――笑い声まで通訳必要なんですかぁ!?」
「がはははっ! それはいいんじゃないか!? あっははは!」
暖かな食事、穏やかな空間、そして、大切な人たちと過ごすひととき……。ロウソクの炎の揺らめきが、いつまでも三人を照らしていた――
***
「未来、ちょっと……」
未来は、いつの間にかテーブルで眠っていた。向かいには、秀英が真っ赤な顔をして突っ伏している。幸せそうな寝顔。酔いつぶれたのだろうか。
「……未来?」
「――ん? ……あぁ詩雨……ごめんいつの間にか寝ちゃってたみたい……」
声の主は詩雨だった。未来は寝ぼけまなこのまま、むくっとテーブルから起き上がった。
「……どしたの詩雨……?」
「……うん、ちょうどいい機会だから、少し……未来にお話しがあって……」
「……うん? ……なんでもきくよ?」
「ありがと――あのね……」
「……?」
珍しく詩雨が言い淀んでいる。大丈夫、あなたの声は私にしか聞こえないから。
「遠慮しないで……何でも相談して?」
「……うん……」
未来は、詩雨の表皮に優しく手のひらを添えた。彼女の言葉を待つ。
「あのね未来……私のこと……殺してくれないかな……」
えっ――――!?
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