第140話 ガス室
隻腕のミーシャ――彼にはそのうちそんな二つ名が付くのだろうか。
ところがミーシャは機械の腕をつけることを嫌がった。理由は二つある。ひとつ目は、中国製の義手の性能がガバガバであること。日常生活を送る程度ならなんの問題もないのだが、ミーシャのように格闘や射撃を行うには、メイドインチャイナは少々耐久性と精密さに欠けるのだ。
もうひとつの理由は、そこまで長期間のんびり休んでいられなかったからだ。そもそも
幸い、腕の欠損自体は処置が早かったこともあって、術後の経過は比較的良好に推移している。今は自分の腕を取り戻すことより、主を危機に陥れた相手を突き止め、然るべき対応を施すことのほうがよほど重要だったのだ。
そんなわけで、ミーシャが李軍の研究施設に張り込みを開始してから今日で既に四日が経っていた。例によって研究施設の裏門や搬入口には、素性の知れない男たちがまるで番犬のように
もちろんミーシャの監視は彼らに気付かれるわけにはいかないから、彼がこの数日潜んでいるのは施設裏手がちょうど見通せる、大型倉庫の吹き抜け三階部分の小さな窓の下だ。幅が50センチほどしかない作業用キャットウォークにありあわせの段ボールを敷き、そこに寝っ転がるとちょうど小窓から外の様子が窺える。さすがに80時間以上もこんなところに留まっていると、身体中のあちこちがミシミシと痛むようになるが、そんなミーシャを支えているのはただひたすらに張秀英への忠誠心だ。
事態が動いたのはその日の深夜だった。
右半身を下にした横臥位で小窓の外を眺めていたミーシャの視界に、何やら黒い物体が音もなく近づいてくる様子が映ったのだ。この数日間で初めての動き。
彼はすかさず夜間暗視用軍用双眼鏡を手に取ろうとして左腕がないことを思い出す。仕方なくごそごそして身体の向きを反転させ、あらためて右手で双眼鏡をようやく掴むと、外の様子を覗き込んだ。
黒い物体は、幌付きの軍用トラックだった。無灯火のまま施設の搬入口ギリギリまで横付けする。すると建物から複数の男たちが出てきて、なにやら大きな箱やキャンバス布で覆われた物体を運び出し始めたではないか。
ミーシャが違和感を覚えたのは、その作業が始まったにも関わらず男たちがロクに照明も点けなかったことだ。しかも、ほとんど口を利かず、ただ黙々と搬出作業を行っている。
どう贔屓目に見ても、誰かに気付かれないよう密かに事を進めているようにしか見えなかった。
見られたくないものを運び出そうとしているに違いない――
ミーシャでなくてもそう思っただろう。しかも、例の観閲パレードの際は、ボルジギンの公安部隊は全員黒河市に派遣されることになっていて、その間の施設警備は主の配下が行うと決まっていた。つまり、今のうちに都合の悪いものを全部施設から運び出して、別のところに一時的に隠そうとしているに違いなかった。
搬出作業は相当骨の折れる作業のようであった。先ほどからトラックは何台も入れ替わり、物によってはフォークリフトで荷台に積み込んでいたりする。辺りは相変わらず静粛なままで、照明も足許に点々と点いているに過ぎない。
よほど秘匿しなければならないものでもあるのか……これは行き先を確かめる必要がある。
ミーシャは直ちに監視場所の倉庫から離脱すると、搬出作業が行われている施設裏手に急いで回り込んだ。そして、数人いる監視役の目を盗み、暗い地面を転がってトラックの底に潜り込む。両腕が健在ならばそのままシャーシにぶら下がっていくのだが、今回はやむを得ずズボンのベルトをシャーシの骨組みに結び付け、極めて不安定ながらも何とかトラックの底にしがみついた。途中で振り落とされたら怪我では済まないかもしれない。どうせなら日本製の義手が欲しいな……ミーシャは少しだけ思った。
ほどなく、トラックのエアブレーキがプシューと鳴ったかと思うと、タイヤがメリメリと回り始める。
***
結局30分以上走っただろうか。
途中から舗装はなくなり、あちこちに陥没のある荒れた砂利道をひたすら走った。そのせいで、ミーシャはこれでもかというほど石礫を喰らっていた。トラックが停まり、後ろの荷台扉がガチャンと開いた音が聞こえた時は、さすがにホッとしたものだ。彼の右腕はもはや感覚がなくなっていた。
作業が始まると、ミーシャはそのまま車底に貼り付いて周囲を窺った。もちろんそこから見えるのは極めて狭い範囲であるが、それでも何かの工場跡のような古い施設に辿り着いたことだけは確かだった。
こちらにも、作業する男たちが何人もいるようだった。今度はトラックから荷物を下ろすと次々に建物に運び込む。先ほどと違って、物音を気にしている様子は一切見られなかった。つまり、ここの周辺には人がいないのだ。
それをいいことに、ミーシャは今度は大胆にも、そのまま建物への侵入を試みる。上手く人の気配が消えた瞬間、そのままゴロゴロと地面を転がって、何とか建物の物陰に飛び込んだ。
外壁に貼り付いていると、中から話し声が聞こえてくる。
トタン壁の隙間からは明かりが漏れていて、ミーシャはそこから建物内部をそっと覗き込んだ。
――いた。
あの禿頭の小男は、
隣にいる白衣姿の男は、助手か何かだろうか……?
「……なんとか無事に運び出せました……」
「あぁ――私の宝物を、無粋な連中に勝手に覗かれるわけにはいかんからな」
やはり睨んだ通りだった。この男は、将軍に見られたくないもの――見られてはマズいものを隠匿しているのだ。
「――しかし、よくこんなおあつらえ向きの施設が見つかりましたね。空調付きの大型倉庫、診察室、手術室、そして檻まである」
「元は畜産研究所だからな……動物を扱うのに、これ以上の施設はないぞ」
「動物……確かに、家畜だと思えばまだ私も救われる気がします」
「何を今さら!? アレはもはや人間ではないのだ。気にすることはない」
すると、今度は大きな四角いコンテナのようなものがフォークリフトで運び込まれてきた。
「おぅ、それはこっちだ」
李軍はリフトの作業員に何やら指示を出している。
コンテナはそれから幾つも奥の方へ運び込まれていった。作業が一段落すると、おもむろに李軍と助手が施設の奥へ入っていく。ミーシャはすかさず後をつけた。
ほとんど照明の付いていない作業用通路――小型トラックなら余裕で通行できるくらいの幅だ――をどんどん奥へ進んでいくと、まるで飛行機のハンガーのような、倉庫のような大きな部屋があった。どうやら李軍たちはその中に入っていったようだ。僅かに開かれた大きな鉄製の扉から中の明かりが漏れ、再び二人の声が聞こえてくる。
「――本当によろしいので?」
「あぁ、構わんよ――これが発覚したら、私もただでは済まないのだ。そうなれば、お前だってどうなるか……」
「わ……分かりました。予定通りに……」
いったい何の話をしているのだ――
ミーシャは扉の隙間から中を覗き込む。すると、先ほどフォークリフトで運び込まれたコンテナが大量に積み上げられていた。その数は10……いや、20は下らないだろう。
すると、コンテナに掛けられていたキャンバス布が一部ずり落ちているのが目に入った。とにかく格納庫のような広さだから、中の二人の声は響いてよく聞こえるのだが、肝心の中の様子は遠目だから良く見えない。それでも必死で目を凝らしてみると……檻――!?
確かに檻だった。太い鉄製の棒が規則的に縦に嵌め込まれている。すると突然――
ギャアアアアォォォ――
奇怪な叫び声が室内に響き渡った。
「まったく、往生際が悪いぞ!」
李軍の怒鳴り声と同時にガーン! と何か金属がぶつかる音が響く。いや……これは、警棒のようなもので檻の鉄柵を叩く音だ――
「お……おね……がい……」
何だ――!? 人の声じゃないか!?
ミーシャはドキリとして積み重ねられた檻の中を必死で凝視する。キャンバス布が掛けられているせいで、奥の方は暗くてよく判らないが――
腕……!?
確かに人間の腕のようなものが鉄柵からニュッと突き出している……!?
すると、今度は助手の声が聞こえてきた。
「ま……まだ人間のような声を出してるのか……もうお前たちは終わりなんだぞッ!?」
とても冷静とは思えない、怯えて引き
「わ……た……わた……し……まだに……にん……げ……」
「うるさいッ!」
ガンッ――!!
またもや助手の引き攣った声と、警棒で檻を叩く音が聞こえる。
まさか――
あの檻の中には、人間が入れられているのか――!?
すると、再び李軍の声が聞こえてくる。
「――今考えると、もっと個体サンプルを増やしておくべきだったかもしれん。この程度の数ではざっくりとした傾向しか分からん……」
「そうですね……結局人間と獣のギリギリの境目が分からずじまいでした」
「――しかし、胚混合が時間の経過とともに昂進するという結果だけは得られた。そういう意味では、十分に元は取れた、と思うことにしようじゃないか」
「はい――」
その時だった。再び檻の中から叫び声が聞こえる。
「ねぇっ! お……おねが……いっ……たすっ……たす……けて……」
ガンッ――!!
「コイツッ! 何度もうるさいぞッ!!」
助手がヒステリックに怒鳴り、警棒を振り回す。その勢いで、掛かっていたキャンバス布がずるりと檻からずり落ちた。中にいたのは……!
人間の女の子じゃないかッ――!?
女の子は、鉄柵に縋りついていた。ただし……尻尾が生えている!?
半獣人だった。粗末な衣服は着ているが、彼女の顔つきはまるでオオカミのようだった。肘から先は黒々とした毛皮に覆われ、掌と思しきところにはヒトの指ではなく、まるで獣のような……鋭い爪。
興奮した彼女は檻の中を四つ足で走り回ると、鉄柵に何度も頭を打ち付けてはまた檻の中をグルグルと回った。
その様は、まるでオオカミに憑かれているかのようで……すると、ほんの数瞬前まで人間の言葉を喋っていたのに、今度はあっという間にグルルルル――と唸り声を上げ始めた。
「――ほら、コイツもたったいま、獣に落ちた。もう少し我慢できないものかのう」
李軍が平然と言い放った。
「やはり
「あぁ、そうだな……被検体371号は、偶然とはいえ私が唯一成功した完全ミックス体だ。獦狚の肉体に人間の心――最高じゃないか!! ヤツは私の最高傑作だ。――ということは、ヤツさえいればもはやこいつらゴミはいらない!! 早いとこ始末してしまえッ!!」
いつの間にか李軍の目は狂気の色に染まっていた。
「り、了解です! では先生――予定通り作業を開始しますので、ここは退避を……」
「あぁ、分かった」
そう言うと二人は扉の方へ戻ってきた。
ミーシャは慌てて扉から離れ、物陰に隠れる。ほどなくして二人が出てくると、助手はそのまま扉の横のコンソールボックスを操作した。大きな鉄扉がダンッと閉まる。
部屋の中から、くぐもった唸り声や、耳をつんざく鳴き声、そして時折「どうか……」「見捨てないで……」といった人間の声が僅かに漏れ聞こえてくる。
「――では先生……」
「あぁ」
助手に促され、李軍が顎をしゃくった。すると助手がコンソールボックスの画面をタップして操作する。
ほどなく部屋の中から、シュー……という空気が漏れるような音が聞こえてきた。
まさか……!? ガスを注入しているのか――!?
ほどなくして、俄かに鉄扉の向こうが騒がしくなった。
ガウッ!!
ガァァァァッ!!!
やめ……!
たのむ……!!
ギャアアアア!!!
ガンガンガンッ――ドンドンドンッ――!!!
バタバタッ――ガサガサッ!!!
たす……けて……
阿鼻叫喚の叫び声、唸り声、そして――中にいる生き物が必死でもがくさまざまな物音……その音は聞く者を狂気に駆り立てるような、心を抉られるような、およそ正常な人間であれば到底耐えることなど出来ない凄まじい残響となってその部屋に溢れかえっていた。
毒ガス――!?
ミーシャは心が張り裂けそうだった。命あるものの絶望が、幾重にも幾重にも畳みかけるように響き渡る。
だが、ふと見た李軍の様子は平然としたものであった。
コイツは……悪魔なのか――!?
助手の方は、今にも失禁しそうな顔つきをしていた。自分のやったことに、大きな恐れを抱いているのが一目で分かった。李軍に比べればコイツのほうがまだ、人間の心を残しているのかもしれなかった。
やがて――
どれくらいの時間が経ったのだろうか。数分だったかもしれないし、十数分は経っていたかもしれない。気が付くと、鉄扉の向こうが静まり返っていた。
「お……終わりました……」
助手が慄きながら李軍に報告する。すると李軍は「うむ」と一言だけ答えて、そのまま部屋の中を見ることもなく踵を返して歩いていく。
助手が、慌ててついて行った。ミーシャも後を追う。
なんということだ――!!
あの男――李軍は、やはりキメラを生成していたのだ!
ハルビンの街で、まるで伝染病のように広まっていた半獣半人化の奇病……とんでもない、李軍が街の人間を適当に捕まえて、人体実験をしていたのだ。あのガス室の檻に囚われていた少女……どう見ても普通の一般市民じゃないか。
実験の結果として獣化が進み過ぎて人間性を失ってしまった者は、しばらく街を徘徊させてその生態を観察したのちに捕まえて処分。程度の軽い者はそのまま解放していたのであろう。彼らが証言しなかったのは、どうせ脳の記憶野をいじられて自分が遺伝子操作されたことすら分からなくなっていたせいに違いない。
それにしても、さっき言っていた被検体371号とは――!?
あの言い方だと、人間の心を持った
そんなことがあり得るのか!?
ミーシャは混乱していた。もはや、自分の思考の範疇を越えている。ありのままを、将軍に報告しよう。
すると、前方を歩いていた二人が、とある部屋の前で立ち止まった。ミーシャは再度身を隠す。
「おお、ここが手術室か」
「はい……例の娘は既に運び込んであります」
例の娘――!?
手術室……と呼ばれた部屋の扉がスッと開く。こちらは先ほどの倉庫のような部屋――いや、ガス室だ――と違って、最先端の医療設備が整っているような雰囲気だった。幸い二人が入っても扉は開いたままだったので、ミーシャはまたもや遠目で部屋の中を覗き込む。
部屋の中央には、医療用の
ちょうど二人がその前に立っているため、よく見えないのだが、中にはやはり人間が入っているように見えた。麻酔でも嗅がされているのか、ピクリともしなかったが……例の娘――なのか!?
すると、なにやら小声で話していた二人が、おもむろに歩き出して鞘の反対側に回り込んだ。周辺機材の説明でもしているのか。だが、そのお蔭で鞘の中をしっかりと覗き込むことができた。
そこにいたのは――
あれは……以前大聖堂で、未来さんと一緒にいた少女ではないか――!
名前は……何と言ったっけ!?
唐突に、李軍の声が聞こえてきた。
「――では、クリーの手術は数日以内に行うこととしよう」
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