第137話 モラトリアム
それは、えも言われぬ快感と言ってもいい。肌に触れる感触は暖かくて優しさに満ち、甘くてかぐわしい匂いが全身を包み込む。その感触は時折士郎の敏感な部分を触れるか触れないかの微妙な距離で通り過ぎ、そのたびに神経回路が微細な電流を彼の中枢神経に送り込んだ。ドーパミンが分泌され、その代わりにセロトニンがノルアドレナリンを穏やかに抑え込む。
夢見心地の士郎は思わず手を伸ばすと、その幸福を与えてくれる存在を絶対に離すまいと必死で鷲掴みにした。
「あぁん……」
存在が、士郎の掌の動きに合わせて微かに反応した。耳元に熱い吐息が吹きかかり、そのあまりの刺激に全身の皮膚がゾクゾクっと鳥肌を立てた。
ん――?
士郎は相変わらず快楽の海に漂っていた。身体中が火照り、体幹の中心部から燃え上がるような激しい情動が湧き上がる。それは耐え難い興奮となり、士郎はますますその腕で存在をきつく抱き締めると先ほどから鷲掴みにしたままの柔らかい感触を一層激しく揉みしだいた。
「あっ……んっ……ふわぁ……」
ガバッ――!!
突然覚醒して起き上がると、士郎の隣には、顔を真っ赤にして大きな瞳をしっとりと潤ませた西野
「――おっ! おまっ……!? ゆず??」
「……えっ!? なんで……ここに――」
思わず素っ頓狂な声を上げた士郎だが、よく見ると自分の手が
「うわぁぁぁぁっっっ!!! ごッ……ごめんッ!!」
士郎は叫びながら自分の手をバッ――! と彼女から引き離した。その反動で、
「あんっ……」
彼女は思わず切ない声を上げると、ようやく解放された両胸をそっと自分の腕で抱きすくめた。ベッドに横たわる彼女を上から覗き込む格好のため、楪の火照った表情は上目遣いでその唇は半開きのままだ。さらさらの黒髪ボブがシーツに乱れるように広がっている。
すると突然、楪が悪戯っぽい表情を浮かべたかと思うと、その砂糖菓子のような甘ロリボイスで呟いた。
「……もう……士郎きゅんのえっち♡」
その瞬間、士郎の脳天から血流が噴き上げた(ように思えた)。
「いやいやいやいやッ!! おまえ……ゆずッ! こんなとこで何してんだっ!?」
「こんなとこ? ここは士郎きゅんのベッドの上なんですけど?」
「いやいや! そんなことは分かってるって! なんでゆずが俺のベッドで一緒に寝てるんだ!?」
「なんでって――!? 士郎きゅんが私を押し倒したんじゃない……」
楪はそう言うとむくっとベッドに上半身を起こした。乱れた髪を手櫛で撫でつけ、着ていたカットソーの裾をしゅっと引っ張って乱れた着衣を整える。その傍には、楪のものと思われる白のブラジャーが無造作に置かれていた。
思わず視界に入ったその下着から目線を外せずにいると、いきなり楪がにゅっとその軸線に割り込んできて、大きな瞳で上目遣いに士郎の顔を覗き込む。
「ね、やっぱコレ、着けてないほうが好き?」
襟首が緩いせいで、楪の胸元はグズグズに広がっていた。首筋からやや視線を下げると、大きな谷間が白い肌にくっきりと影を作っている。
「――い、いやいや……ちゃんと着けろって……!」
「えぇ~っ!? 外せって言ったり着けろって言ったり――さっすが士郎きゅんはおっぱい星人だね! いろんなパターンを楽しみたいんだ?」
「俺、そんなこと言ったのか――!? あぁ……死んでしまいたい……」
楪が士郎を愛おしそうに見つめ返した。
「ふふっ……嘘ですよ? う・そ……!」
「は? はぁっ……!?」
士郎は完全に遊ばれていた。
「士郎きゅんのリハビリがあんまりにも大変そうだったから、メカメカボディの先輩たるこの私がちょっと手伝ってあげてたじゃないですかぁ」
そ、そうだった――
なかなか言うことを聞かない擬体にイラついていた時にたまたま楪がお見舞いに来てくれて、じゃあリハビリのコツを教えてもらおうということになり、悪戦苦闘の最中に疲れて寝てしまったのだ。
楪はそんな士郎が無防備の時に、ほんのいたずらごころで添い寝していたというわけだ。
「――でもぉ! 士郎きゅんの胸揉み、全然普通にイイ感じでしたよぉ?」
「えっ!?」
「やっぱりぃ、無意識に動かそうっていうのが
そう言うと楪は、その豊かな胸の下で腕組みをしてこれみよがしに膨らみを持ち上げてみせる。
ゴクリ――と喉を鳴らして士郎はそれを凝視する。いや、あまりにもあからさまに見つめるのはさすがに気が引けたので、なんとか視線を逸らそうと努力しているのだが、その意思に反して視線が外れてくれないのだ。
「ほらほらぁ、士郎きゅんのその眼球ぅ……おっかしいなぁ? 確かそこも機械になっているんじゃなかったっけぇ? ……でも視線が外れないんだぁ?」
「――い! いや! これは……その……」
焦れば焦るほど、士郎の超高精細眼球型レンズ――つまり義眼のことだ――はそのファインダーパーツ――瞳孔機能――を開放してより精細な映像を取得しようと試みていた。瞳孔の奥の高感度カメラが
「つまりね、頭の中でこうしたい、って強く思えば、脳神経に接続された擬体の神経回路がその電気信号を瞬時にデバイスに伝える――てことらしいの。だから意識して腕や脚を動かそうとしなくても、たとえば私を抱きしめたい、って思えば勝手に機械がそういうふうに動いてくれるんだよ」
「……そ、そうなのか!?」
「そう――だから今、士郎きゅんが私のおっぱいから視線を外せないのは、本当は士郎きゅんがおっぱいを見たい、って頭の中で考えてるから、機械がその電気信号を受け取ってフォーカスしているってことなんだよ」
その説明を聞いた士郎は、顔を真っ赤にして脂汗を垂らし始めた。確かにゆずの言う通り、今士郎の頭の中は彼女のおっぱいのことで一杯だ。むしろもう一度そのたわわな膨らみを好きなだけ揉んでみたいとさえ思って――
あっ――!!
士郎の腕が勝手に動いて、唐突に彼女の胸をわしっと掴んだ。そのまま機械の指が器用に動いてその柔らかな肉を再び揉みしだく。
「――あんっ……♡」
「すすすす、すまんっ!! これは、その……」
士郎が慌てふためく。もはや自分の身体を制御できない――!
その指はますます激しく彼女の双丘をこねくり回す。白い肌はすぐにピンク色に染まり、やがてしっとりと汗が滲んできた。
「い……いいよ……? 士郎きゅんのリハビリになるなら……やんっ////」
楪が頬を赤らめ、その大きな瞳を潤ませながら士郎に囁いた。
ちなみに機械化腕手をはじめ、すべての擬体化パーツの皮膚部分には疑似感覚神経回路が組み込まれているので、触れた対象の温度や弾力、触感、質感などほぼすべての感覚が生身の人間と基本的には変わらない。ただ、士郎や楪の装着しているデバイスは軍用なので、いざとなったら感覚遮断機能だけは随意に操作できるという優れものだった。ただし今この瞬間は、感覚遮断なんてしたくない!?
「……ゆず……教えてくれ」
「なぁに? ……ぁん♡」
「これ……どうやったら止まるんだ……!?」
「……と、止めなくてもいいよ♡」
「そ、そんなわけには……」
「……もぅ……おばか……そうね……因数分解の公式でも唱えたら?……ぁふ////」
「……そ、そうか……!」
そう言うと士郎は急に眉間に皺を寄せ、何やら難しい表情を必死で作ろうとしていた。
楪はそんな士郎を見て、少しだけ不満顔だ。小さな声で呟く。
「……ほんとにおばか……」
ほどなく士郎の腕は徐々にその動きを緩め、そしてすっ――とその動作を停止した。
「――と、止まった……」
次の瞬間――
ぽぉーん、と病室の呼び鈴が鳴る。続けて良く知った声が壁の向こうから聞こえてくる。
『おーい! 士郎ぉー? いるのかー?』
『士郎さーん? 入ってもいいですかぁー!?』
その瞬間、ベッドの上の楪がそのまま士郎に覆いかぶさってガバッと押し倒したかと思うと、掛布団をばふっと頭から被って二人で布団の中に隠れた。ちょうど、士郎を下にして楪が上に乗っかっているような恰好だ。
「えっ?」
「しーーーっ!」
頬と頬が密着するような距離で、楪が悪戯っぽい微笑を浮かべたまま士郎に黙っているよう促した。
壁の向こうからは相変わらず二人の声が聞こえてくる。
『おっかしいなー、いないのかな?』
『もしかしてリハビリでどこか部屋の外に出ているのかもしれません』
楪が耳元で囁く。
「このまま居留守使っちゃいましょうねっ♡」
「な、なんでだよ?」
士郎もなぜかひそひそ声になる。
「だって……私たちがいちゃいちゃしているところあの二人に見られたら、士郎きゅん大変なことになりますよ!?」
「――大変なことって……?」
「これって抜け駆け……ってやつですから」
「そ、そうだったのか?」
「はい♡」
「ゆず、おまえ……」
「しぃーーーっ」
最初から変だと思ったのだ。お子ちゃま亜紀乃はともかく、恋愛モンスターの楪がたった一人で士郎の病室を訪れることを、よく久遠とくるみが許したなと思っていたら、やっぱり内緒だったとは――!
「だってね……久遠ちゃんとくるみちゃんは、私が入院してる時に士郎きゅんと一気に距離を縮めたって聞いたんだもん」
「あ……あれは……命令だったんだよ」
「でも……ずるいですぅ」
楪がひそひそ声で拗ねたような声を出す。そう言われると、士郎には言い返せないのだ。大怪我を負った楪を差し置いて、他のメンバーといちゃついていたと言われたら、スイマセンと謝るしかない気になってくる。
「わ、わかった……悪かった」
「だーめ! 許しませんよーだ」
「えぇー……じゃ、じゃあ……どうしたら許してくれるんだ?」
掛布団の中の密閉空間で、楪がますます士郎に覆いかぶさるようにして密着してくる。もはやお互いの鼻先がくっつきそうだ。
気が付くと、廊下の声は聞こえなくなっていた。二人とも諦めて帰っていったのか。
「――ふ、二人とも帰ったみたいだぞ?」
「もはや関係ありませーん……話を逸らしちゃダ・メ」
「し、しようがないな……だから、どうしたらいい?」
楪が士郎の耳に息を吹きかけるように囁いた。
「わたしも……士郎きゅんと体液交換、したいなっ♡」
「ばっ――! おまえはもう俺の血を輸血したじゃないかっ!」
「えーー! アレはノーカンですぅ!」
「んなわけあるか!」
「――泣きますよ?」
「ぐッ……!」
「だいじょうですよ……まずはライトに唾液の交換からやろっ」
「だ、大丈夫じゃな――」
いきなり楪が唇を押し付けてきた。
ふわりと鼻腔を甘い匂いが突き抜ける。柔らかくてしっとりとした感触が士郎の唇に覆いかぶさると、そのまま歯の隙間からにゅるりと彼女の舌先が押し入ってきた。それは士郎の口の中をまるで何かの生き物のようにまさぐり、すぐにお目当てのものを見つけるとそのまま絡みついてきた。
その瞬間、士郎も堪らなくなって思わず自分の舌を激しく擦りつける。それはとても熱くぬめっていて何度絡ませても飽き足らず、今度は士郎が楪の唇を強引にこじ開けてその舌先を彼女の口腔にねじり込んだ。
「――んっ……んん……」
激しい吐息が二人の鼻先から抜け、もはや歯止めが利かなくなる。お互い抱き合うような姿勢のまま、いつの間にか士郎の機械化腕手が彼女の細いウエストから服の中に侵入し、そのまま背中を撫でるように這い上がってきた。指先が彼女の背骨にそってツっ――と筋を曳くと、ゾクゾクっと快感が全身を突き抜ける。
「……すご……きもちいい……」
楪がぶるっと肩を震わせながら思わず小さな声を上げる。彼女は思わず上体を起こそうとして――
起こそうとして――!?
「あ、あれっ……?」
士郎の腕はがっしりと楪の上半身を抱きかかえたまま動かない。
「ちょ……士郎きゅん?」
楪は激しく求め合う唇をそっと離し、士郎の顔を少しだけ覗く。すると……
士郎が白目をむいて気絶していた――!
「え! ――えぇぇぇっっっ!?」
慣れない擬体をフル稼働させた士郎は、生体発電エネルギーの過負荷により意識喪失を起こしていたのだった。擬体化率が全身の50パーセントを超えるトランスヒューマン初心者によく起こると言われる、いわゆる
「……そんなぁぁぁーーーっっ!!?」
楪のぼやき声が虚しく病棟の廊下に響き渡った。
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