第132話 最悪の再会

 獦狚ゴーダンたちは今や未来みく秀英シゥインを取り囲み、至近距離まで迫っていた。


 突然、秀英の前に正対していた一頭が、その大きなあぎとを全開にしたかと思うと物凄い勢いで飛び掛かってきた。未来は思わず頭を伏せるが、その瞬間バンッ――と大きな銃撃音が聞こえてギャウンッ――! と獣の低い悲鳴が辺りに反響した。ダンッ――と地面に何かが墜落する音が重なる。

 振り返ると、秀英が仁王立ちになり獦狚ゴーダンの口の中目掛けて発砲していた。小口径の弾丸なら簡単に跳ね返す彼らの分厚い毛皮を避け、口腔内を狙って必殺の一撃をかましたのだ。さすがの胆力である。だが、彼の上半身は獦狚ゴーダンの口から飛び散った涎と血液で既にベトベトだ。

 すると間髪入れず、二頭目がやはり秀英目掛けて飛び掛かってきた。未来は迂闊にもそれに気を取られる――瞬間! 物凄い殺気を感じて反対側を振り向くと、既に怪物の鋭い牙が彼女の頭部に覆いかぶさろうとしていた。


「――しまっ……」


 刹那――その大きくて赤い怪物の口腔の中に大量の鮮血がドクドク溢れ出したかと思うと、すんでのところでその牙が未来の頭を空振りし、そのまま足許にドウと倒れ込んだ。噴き零れる怪物の血が、まるで庭にホースで水を撒くがごとく未来に噴きかかる。

 見ると、先ほど怪物がいた辺りの下――つまり未来の足許からほんの数十センチ先――に、大男が滑り込んできて大きなコンバットナイフを怪物の下顎から上に突き刺していた。鋼鉄の毛皮の一番薄い部分をピンポイントで狙った渾身の刺突だった。男は倒れた怪物の下顎からずるりとナイフを抜き取る。その黒い刃には粘り気のある怪物の赤黒い血液がベットリと付着していた。


「……あ、あなたは……!?」


 どこかで見たことがあるような気がするが、咄嗟に思い出せない。すると――


「おぉ! ミーシャ! 助かったッ――!」


 先ほどから背後で拳銃を乱射していた秀英が振り向きざま大男に声を掛けた。ミーシャ? 見るからに東アジア人の彼は、秀英の呼びかけに軽く頷くと無言で身体を前転させ、返す刀で次の獦狚ゴーダンを迎えうつ。ナイフを左手に持ち替え、着ていたジャケット下の肩吊りショルダーホルスターから右手で拳銃を素早く引っこ抜くと、そのまま未来の周囲を動き回りながら、突進してくる怪物たちをまるで両刀使いのように次々と牽制しては怯ませる。

 護衛――!? 彼の動きはまるで自分を守ってくれているかのようだ。ミーシャと呼ばれた彼と背後の秀英。今のところ未来は、この屈強な男二人に守られている格好だ。


 だが、それも長くは続かなかった。

 秀英たちに反撃され、獦狚ゴーダンたちは明らかにいきり立っていた。大量の血を浴び、むしろ凶暴さは最初のエンカウントの時より増しているようだった。

 三人は次第に壁際に追い詰められる。その周囲を、まるで品定めするかのようにグルグルと歩き回りながら取り囲む怪物たち。

 気が付くと、既に男たちは血塗れだった。彼らの上腕とこめかみからは大量の鮮血が滴り落ち、胸といい腹といい、身体の前面部分の服には赤い染みが広がっている。無理もない――まるで鎌のような鋭い爪を丸太のような巨大な前脚で振り回されたら、かすめただけでも皮膚は切り裂かれてしまうだろう。


 その時だった――!!

 怪物たちが、まるで息を合わせたかのように一斉に三人に飛び掛かった。激しい銃撃で応戦する二人。だが――未来を庇おうとしたミーシャが左腕を精一杯広げた瞬間、飛び掛かってきた一頭の獦狚ゴーダンがつむじ風のように走り抜けたかと思うと、そのままミーシャの左腕をあっさりと持っていった。


「うぅ――ッ!!」


 さしもの寡黙な戦士、ミーシャといえど、さすがにこれは致命傷だ。思わず低く呻き、その場に膝をついてしまう。

 彼の左腕はちょうど肘から先がギザギザに引き千切られ、切断面からは大量の血が噴き零れていた。未来はその返り血を頭から丸かぶりしてしまう。


 その時――未来の瞳が強烈な青白光を放ち始めた。


「二人とも――どこかに身を潜めていてください!」


 未来は警告を発するが、二人には未来の言っている意味が分からない。

 だが、彼女が自制心を保っていられたのはここまでだった――


 凶悪な獣たちの群れを前に、未来は明らかに今までとは違う空気を発し始めた。瞬間、空気が張り詰め、耳が詰まったように数瞬すべての音が消える。


 今やその瞳は青々と強烈な光を放ち、その光芒があまりに強すぎて、中心は白みを帯びているように見えた。黒い日本軍の防爆スーツに包まれた彼女のしなやかな肢体は、その輪郭全体にやはり青白い――ただし淡い光を纏っており、どこか周りの空気と隔絶したような色彩を放つ。

 その艶やかな銀髪は彼女から発せられるものすごい圧に震え、重力に逆らって先端が総毛立ち始めた。

 周りを取り囲んでいた獣たちは、未来から放たれる凶悪な何かに身震いし、二、三歩後ずさる。


 その瞬間――

 ビュン――と未来がその場から消えたかと思うと、瞬きをする間に数メートル先の正面で唸り声を上げていた一頭の獦狚ゴーダンに取り付いていた。彼女は怪物の頭部を左右からガシリと両腕で掴むと、まるでネジを巻くようにその太い首を一気に。脊椎が一瞬にして砕かれるゴキゴキッという薄気味悪い音が辺りに響く。


 ブシャアァァァァーーーーー


 頭部を失った怪物の首の部分から、噴水のように血が吹き上がる。巨大な胴体はもんどりうって地面に倒れ込み、太い四肢がまるで電流に当てられたかのようにビクンビクンと何度も痙攣した。


 秀英シゥインはその姿を見て凍り付いた。噴水のように吹き上がった怪物の血のせいで、あたりはピンク色のもやがかかったようになっていたが、徐々にそれが晴れていくと、そこには怪物の生首を左手にぶら下げた未来が顔面血だらけで凄惨な笑みを浮かべ、立ち尽くしていたのである。


 ――これが……オメガ……!?


 次の瞬間、未来は再度一瞬にしてその場から消えたかと思うと、今度は奥にいた別の獦狚ゴーダンに襲い掛かっていた。彼女はその怪物の大きな上顎と下顎を両手で掴んだかと思うと、その頭ごと90度横に難なく引き倒し、今度はそれを思い切り左右に押し開いた。


 ゴガガアァァァァ――!!


 怪物の断末魔の悲鳴とともに、その胴体が口から上下に引き裂かれる。肉が裂けるたびに内臓が飛び出し、血飛沫が噴き出し、それとともに猛烈な臭気が辺りに飛び散った。


 未来はもはや全身赤黒く染まっていた。それでも彼女の動きは止まることなく、二頭目の絶命を確かめると同時に間髪入れず腰を落とし、その場で倒立したかと思うとそのまま開脚旋回を始め――途端に傍にいた更に別の獦狚ゴーダンがそれに巻き込まれてその太い前肢が二本とも横薙ぎに吹っ飛んだ。それはまるでオリンピックの体操競技のようにしなやかで美しく、一ミリの無駄もない動きであった。


 ここまでほんの数十秒。つい先ほどまで凶悪で獰猛な殺気を放っていた怪物どもの群れは、目の前に突如として現れた悪魔のような圧倒的存在に本能的に恐怖し、今やその太い尻尾を後肢の間に挟み込んで負け犬のように地面に座り込んでしまっていた。彼らの目は完全に怯えてすくんでおり、重低音のウーファーのようにあちこちから響いていた唸り声も、今やか細い命乞いのすすり泣きのごとくである。

 だが――それでもなお未来は飽き足らず、怪物どもの周囲を歩き回っては、時折気まぐれのようにその頭部を踵で思い切り踏みつけ、そのたびに哀れな獣の脳漿が周囲に飛び散った。


 殺戮者――


 今の未来を表現するとしたら、これ以上相応しい言葉はないだろう。

 既に秀英とミーシャは、未来が繰り広げる血の惨劇の中でおびただしい鮮血と肉片の海に埋もれ、もはや自分が何処にいるのかすら分からなくなっていた。ただ、そのせいで血の海の中にカモフラージュされた彼らは、未来の視界に入らずに済んでいるようであった。

 秀英は本能的に分かっていた。今未来と向き合ったら、絶対に見境なく惨殺される、と――

 そしてもうひとつ分かったこと――


 未来は我々が知っている〈辟邪ビーシェ〉なんかじゃない。


 やはり……日本軍が言うところの〈オメガ〉なのだ――

 この両者は似て非なる存在だった。

 辟邪ビーシェはたしかに放射能の影響で異能を手に入れた存在だが、彼女たちの能力の発現はどちらかというと超感覚的知覚――いわゆる超能力と呼ばれるものだ。たとえばクリーの重力操作は、いわゆる念動力サイコキネシスの一種にしか過ぎない。

 それに引き換え、未来のこの能力は何だ!? こんな桁違いの身体能力なんて、デタラメじゃないか……

 しかも、恐らく彼女は……彼女しか持たない何らかの特殊能力を発動させているわけではなさそうだ。今は単に驚異的な身体能力フィジカルを発揮しているに過ぎない。それが証拠に、先ほどから彼女は怪物たちを叩きのめしている――

 こんな連中が一個小隊でも向かってきたら、我が華龍ファロンは一瞬にして捻り潰されるだろう。


 つい先ほどまでにこやかに自分と会話を交わしていたあの少女が、今ではもはや悪鬼だ。戦場に「死」を振り撒く死神だ。

 秀英は、彼女が囚われの中にあって、努めて冷静でいようとしていた真意を今になって知る。我々は、安全装置の付いてない殺戮兵器を何の予備知識もなく盗み出した挙句、愚かにも自分で制御できると思い込み、弄んでいたのか……!?

 日本軍は、こんな滅茶苦茶な存在を「兵士」として仕立て上げたというのか……!?


 とても敵わない――


 秀英は素直にそう思った。


 その時……彼の視界の片隅に、妙なものが映り込んだ。

 未来の圧倒的攻撃によって完全に戦意を喪失している獦狚ゴーダンの群れの中に、不審な動きを見せる個体が現れたのだ。

 その個体は、周りの怪物たちと同様やはり恐怖に怯えて先程まで地面にひれ伏していたのだが、未来の殺戮が一段落して辺りに静寂が訪れると、何を思ったかおもむろに頭を上げ、おずおずとその巨躯を起こし――あろうことか尻尾を振りながら――ゆっくりと未来のほうへ歩いていったのだ。


 相変わらず血の海にまみれていた秀英はその様子をただ呆然と見守っていた。先程から目の前で繰り広げられていた惨劇に、一時的に感情を喪失していたためだ。

 人間、あまりにも衝撃的な光景を目にすると、自己防衛のために感情や記憶をなくすことがままあるというが、今の秀英がまさにそんな感じだった。

 ただ、あぁ……あの獦狚ゴーダンもこれまでの命だな、ということだけは冷静に考えていた。

 先程から未来が見せつけているあの無慈悲な態度に、例外があるとは思えなかったのだ。


 案の定、トボトボと自分の方へ向かってくる獦狚ゴーダンを目ざとく見つけた未来は、再びその瞳を青白く煌めかせ始める。

 大人しく地面に伏せていればいいものを……やはり、所詮は獣、といったところか。

 未来は、まるで誘うようにその場に仁王立ちしていて、その右手を真っ直ぐくだん獦狚ゴーダンに突き出し、そして手招きした。その表情は、あたかも新しいオモチャを手に入れた小さな子供のように無邪気で、ただしその笑顔は悪魔のように傲慢な雰囲気を纏っていた。

 今度は一体どんな惨殺ショーを繰り広げるつもりなのだろうか。秀英は「憐れみ」とか「同情」とか「いたわり」といった、いかにも人間らしい感情を先ほどからどこかに置き忘れていたが、それでも「次はどうなるんだろう」という単純な好奇心だけはまだ残っていた。不謹慎かもしれないが「怖いもの見たさ」という感情がないといえば嘘になる。スナッフフィルムは好きではないが、これに限っては目を逸らしてはいけない……そんな気持ちに支配されていたのだ。

 なにより、戦場での未来の一挙手一投足を見逃してはいけないという気持ち。


 怪物は、未来の誘いに応じて少しずつ距離を詰めていった。だが――

 両者の距離が既に十メートルを切った辺りだろうか。突然獦狚ゴーダンが後肢を折って腰を落とし、まるでお座りのような姿勢を取ったのだ。更にその大きくて太い尻尾を左右にゆっくりと揺らし、あたかも未来に対し親愛の情を示しているかのような態度を取ったではないか――!?


 そんな馬鹿な――!!


 秀英は我が目を疑う。

 獦狚ゴーダンは今まで何をやっても人間に懐かず、その狂暴性をほしいままにしてきた怪物だ。李軍リージュン曰く、そのルーツは是灰狼ハイイロオオカミにあるとのことだから、決して犬のような振る舞いをする生き物ではないのだ。


 すると、未来みくは威嚇するかように獦狚ゴーダンに向かって一歩大きく踏み込んだ。瞬間獦狚ゴーダンははじかれたように立ち上がり、一歩だけ後ずさる。だが未来が攻撃しないと見るや、再び二、三歩前に歩み寄って先ほどと同じようにその場に座り込んだ。

 その瞬間――

 先ほどまであれほど猛り狂ったかのように輝いていた未来の青白い光芒が、まるで電気を切ったみたいにスゥーっと消えていく。


 ――いったい何が起こっている……?


 秀英は呆気にとられ、その信じられない情景を瞬きも忘れて凝視する。

 その時だった。


「――将軍ー!! ちょっとこっちに来てくださぁーいッ!!」


 いつもの未来の声で、秀英を呼ぶ声が聞こえた。見ると、未来の身体からは完全に青白光は消え、あれほど戦場の支配者のように振る舞っていた彼女が、その場に小さくなってしゃがみ込んでいた。あれは……戦意を喪失したということなのか――!?

 その途端、我に返った秀英は弾かれたように立ち上がり、未来の方へ駆け出していく。


 地面に拡がる血だまりを避けながら、それでも必死に未来のところまで辿り着いた秀英は、彼女がまるで迷子の少女のように落涙しているのを見つける。その姿は先ほどまでの殺戮者オメガではなく、見た目通りの、ただの一人の少女だった。


「――いったい何があった!?」


 肩で息をしながら秀英が問い質す。怪我をしているようには見えなかったが、未来の様子はただ事ではなかった。何か取り返しのつかないことをしでかしてしまったかのような、困惑に満ちた雰囲気だ。


「あの子を……見てください……」


 未来は先ほど犬のように媚を売ってきた獦狚ゴーダンを指差す。その怪物は、先ほど秀英が遠目で見た通りちょこんとお座りをして大きな尻尾をユサユサと左右に揺らしていた。その態度、その表情がまるで獦狚ゴーダンらしくなくて毒気がないことを除けば、他の個体より特段変わっているようにも見えない。

 もしコイツが今いきなり襲い掛かってきたら――と思い、少しだけたじろいだが、それでも様子のおかしい未来のために注意深く観察してみる。


「……特に……普通の獦狚ゴーダンのように見えるが……」


 その媚びた態度を除けば――である。だが、未来の動揺は収まる気配がなかった。


「――違うんです……その子の爪を見てください……」


 爪――前脚の鋭い爪のことか? お座りポーズをしているので、両前脚とも綺麗に揃っている。いったい何があるというのだ……

 と思ってよく覗き込んでみると……何か光るものが左前脚の爪の根っこのところにめり込んでいるのがチラリと見えた。


 なんだ――!?

 もう少しだけ近づいて、その光る何かの正体を判別しようと試みる。これは――アクセサリー?

 ……ブレスレットだ!


 決して高級品というわけではないが、シルバーメッキの細い輪環に小さな希石ジュエリーがいくつか嵌まっている、女性ものの繊細な品だった。

 この獦狚ゴーダンにたまたま襲われた、可哀想な犠牲者のものか……? ここに来る行きがけの駄賃で、通りすがりの誰かを襲っていたのか!?


「これ――」

「それ! 少し前に私が浩宇ハオユーにあげた……お守りアミュレットなんです!」

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