第124話 アミュレット

 次の日曜日の昼下がり。

 未来みく浩宇ハオユーは先ほどから向かい合っておしゃべりに夢中になっていた。


 「東方のパリ」「中国のモスクワ」と讃えられた哈爾浜ハルビン。一時は都市人口三百万人を誇り、近代モダンの欧風建築が立ち並ぶ中国随一の国際都市として栄華を極めたこの街は、内戦が勃発して戦時下となった今でも、そこそこの賑わいを保っている。

 中心街は緑の街路樹が延々と続き、レンガ敷きの大通りを中心に多くの店が立ち並ぶ。もちろん、ところどころに空爆の跡が残り、そこには大抵黄色のテープが張り巡らされていて人々が勝手に立ち入れないようになっていたが、一方で被害から復旧を試みている一角では重機が唸り声を上げ、作業員たちが埃まみれになって槌音高く再建に勤しんでいた。

 その様子はまさに戦後の復興期のようであった。街ゆく人々の表情は一様に明るく、バイタリティに満ち満ちていて、今がとても日本軍との終わりの見えない消耗戦の真っ最中だとは思えない光景だった。


 それもこれも〈電磁障壁〉のお陰である。街を支配するアジア解放統一人民軍ALUPA、通称「華龍ファロン」は、想像以上の科学技術力でハルビンを日本軍や上海軍・多国籍軍から守り抜いていた。

 偵察衛星が捉えるこの街の俯瞰映像は、延々と廃墟が続く破壊された都市そのものだ。事実未来本人も、一度そうした映像を見たことがある。だがそれらの映像はすべて電磁ホログラフィによって作られた偽物フェイクで、その下にこれほどまでに立派な都市が存在していたなど、誰が想像できようか。


 浩宇ハオユーはこの日のために張り切って一張羅を着ていて、自分の中では最高に気合が入っていた。向かいに座っている未来も、いつも着用している日本軍の黒いスーツではなく、なんと私服姿だ。

 二人はこの日11時頃に聖ソフィア大聖堂前で待ち合わせたのだが、浩宇ハオユーの前に現れた彼女が、薄ピンク色の七分袖ブラウスにデニムのミニスカートを履き、キャメル色のサンダルに肩掛けポーチ姿だったことに、彼は人生始まって以来の感動を覚えたものである。もしかしてこの日のために、ハルビンの街で服でも買ってくれていたのだろうか。

 陽光に淡く光る彼女の長い銀髪は緩くツインテールに結ばれ、この前会った時より少しだけ幼く見える。浩宇ハオユーは未来のこの格好が、自分に向けられた彼女なりの好意であると素直に受け止めた。もしかして自分だけが張り切ってしまっていたのではないかと少し不安になっていたのだが、彼女も今日という日を大切な日だと受け止めてくれていたと知って、先日から彼にかかった魔法は一向に解ける様子がない。


「――それでね、その時彼はこう言ったんだ。そんなことじゃ、日本軍に素っ裸にひん剥かれるぞっ、てね」

「あははははっ――」


 二人の会話は思っていたよりずっと弾んでいた。未来はどんな話でも喜んでくれ、続きを促してくれた。ハルビンの街で今一番イケてると評判の、このお洒落なカフェに相応しい、若いカップルの楽し気な会話が続く。


「……俺はもう必死で装備を身体中に巻き付けて、それから転がるように掩体壕に飛び込んだ。だってそのままじゃ、ホントに服が全部溶けて、荒野にひとり裸で立ち尽くすところだったんだ」

「もしホントにそうなってたら、ある意味最強の兵士になったんじゃないかな?」

「そうかもね! でもそんなことで有名になりたくないよー」


 未来はふたたび朗らかに笑い、ツボに嵌まったのか肩を大きく上下させて苦しそうに大きく息を吸った。16歳からずっと兵士しかしたことのない浩宇ハオユーには、年頃の女の子が喜びそうな流行の話題など一切持ち合わせがない。だが目の前のミクはその兵士ネタ、戦場ネタで大喜びしてくれる。彼女自身兵士なのだから当然と言えば当然なのだか、浩宇ハオユーにはミクがこれ以上ないくらいの理想の彼女になってくれるんじゃないかという予感がしている。

 仲間に黙って内緒で外出してきて本当によかった。日曜日は唯一彼ら若い兵士が外出を許される日だ。いつもは連れ立って街に繰り出し、食堂でたらふく飯を食って給仕の姐さんをからかい、その後は遊戯場に行って散財して帰る、というのがパターンだった。だが、今日は「ちょっと隊長に頼まれた買い物があるんだ」と嘘をついて別行動を取ることに成功した。大成功だ。


 そんな馬鹿話をかれこれ一時間くらいしていただろうか。

 ふと、ミクが真面目な顔になった。


「ハオユーくん、もし……兵士を辞めて、って言ったら……どうする?」

「えっ……?」


 浩宇ハオユーは不意を突かれて一瞬呆気にとられ、そしてミクの言わんとしていることが少しだけ分かったような気がした。


「……それは……どういう……」

「私ね……ハオユーくんがもし華龍の兵士じゃなかったら……きっとちゃんとしたお友だちになれるんじゃないかな……って考えちゃった……」


 頭をガンと殴られたような気がした。ミクは理想の女性だ。たぶんこのままどんどん仲良くなっていけば、いつの日か本当に付き合えるかもしれない。でも彼女は「今のままじゃ付き合えない」と言っているのだ。それは、俺が敵軍の兵士だから、という意味なのだ。でも、裏を返せばそれは、俺が「敵」じゃなくなったら付き合ってもいいと言っているのと同じなんじゃないのか!?


「……そ、そうだな……ちょっと即答できない……かな」


 浩宇ハオユーはやっとのことで言葉をひねり出した。実際、彼が華龍ファロンに加わったのは、両親が北京派の攻撃で殺されて孤児になったからだ。この数年間、曲がりなりにもこうやって生きてこられたのは、華龍が面倒を見てくれたお陰なのだ。同年代の兵士たちは、大抵が同じような戦災孤児出身だ。だから華龍の隊長は親同然で、戦友たちはいわば兄弟だ。

 そんな恩義のある華龍を辞める、などという選択肢を、彼は今まで一度も考えたことがなかったのだ。だが、今こうやってミクを目の前にして、彼女にそんなことを言われてしまったことで、ふと自分の将来のことが頭をよぎってしまった。俺はこのまま兵士を続けていてもいいのだろうか。もし兵士を辞めて、たとえば街で何かの商売をやったりするような身分になれば、彼女は自分を一人の男として真剣に見てくれるようになるかもしれない。


「……そう、だよね……変なことを言ってごめんなさい」

「いや! いいんだよ!? 別に変なことじゃない」


 浩宇ハオユーは思わず前のめりに返事をしてしまう。だってそれだけ、ミクは自分のことを考えてくれてるんだ! 浩宇の中でいろいろな感情がグルグル渦巻き始める。


「――ミクはさ、俺が兵士だとやっぱりイヤ? ……なのかい?」

「それは……だって私、ハオユーくんと……戦いたくない……」


 そうなのだ。このままだと、いずれ俺たちは敵味方に戻って銃火を交える可能性だってあるのだ。そもそも、なんでミクがこの華龍の客人になっているのか、それが分からないから何とも言えないのだが、この様子だとどうやら自ら進んでここに来たわけではない、ということだけはおぼろげに判った。


「……もし……差し支えなければだけど……そもそもミクはなんでここに来たのか、教えてくれないかな……もしかしたら相談に乗ってあげられることもあるかもしれない――」

「本当に?」

「ああ、本当だとも。もちろん俺はただの兵士だから、出来ることと出来ないことがあるけど……」


 浩宇ハオユーの申し出を聞いた未来が、何かを躊躇っている様子が分かった。やっぱり何か困ったことがあるに違いない。


「……でも……きっとあなたに迷惑がかかる――」

「そんなことはないさ! 俺は本気でミクの力になってやりたいと思ってるんだ!」


 この青年は、本当に純情で純粋なんだ……

 未来は浩宇の様子を見て、心からそう思った。彼が嘘をついている様子はまったくなかった。

 目の前にいるのは華龍の兵士だ。日本軍が長年に亘って大陸で反政府活動を取り締まり、鎮圧に躍起になっている相手そのものだ。世界のあちこちでチャイナテロを引き起こし、多くの無辜の民を犠牲にしてきた、憎むべき相手だ。

 だが、ここにいる彼は、単なる一人の人間だった。私たちと同じように笑い、同じように泣くことのできる、ただの素朴な若者だった。自分が加担している組織がどんなことをやっているかなど、彼には分かっていないのだろう。


 実際、ここハルビンの街の住民は、華龍の支配下にあって特に辛そうな様子には見えない。むしろ生き生きと日々の生活を送っているように見える。それは、華龍という組織が、別に恐怖で街を支配しているわけではない、ということなのだろう。むしろこの戦時下において住民の安全を守り、ある程度福祉政策的なこともやっている、いってみればちゃんとした統治者なのだ。

 未来はもっと別のイメージを持っていた。華龍は北京派きっての武闘派集団で、その統治は苛烈を極め、支配下にある住民は恐怖政治に怯えている……だから一刻も早く我々が解放してあげなければいけないのだ――と。

 でも、彼らと彼らが支配する地域は、今や普通の国家として成立していて、そこに暮らす人々は不自由ながらもその現実を受け入れ、彼らなりの幸せを見つけて日々の暮らしを謳歌しているのだ。

 未来はつい、この戦争の意味を考えてしまう。


 正義はどちらにあるのだ!?


 だが、そこまで考えて未来は「けれども」と接続詞を打たざるを得ない。

 華龍はやはり未来にとって「敵」なのだ。なぜ彼らは世界中でテロを繰り返す? なぜ上海派と平和裡に話し合おうとしない? そしてなぜ私を無理やり拉致したのだ?

 組織としての華龍と、目の前の純朴な青年を同一視してはいけない。もし未来が彼――浩宇のことを悪い子ではないと思っているのであれば、むしろ彼をこちら側に引き寄せるべきなのだ。彼はたまたま華龍と出会い、自らの信念とは関係なく、かの組織の歯車と化しているだけなのだ。

 幸い、彼は自分に対して好意を抱いている様子だ。その気持ちを悪用するつもりはないが、やはり私のいるべき場所はここじゃない。それになにより、ハオユーくんも私の本当の姿を知ったら恐れおののいて逃げ出すに決まっているのだ。

 私はオメガだ。一旦戦闘状態になると、誰であろうと見境なく殺戮してしまう。私が唯一攻撃対象にしないのは、世界中でたった一人、石動いするぎ士郎その人だけだ。正確に言うと、士郎くんが「仲間」と認識した――田渕軍曹とか、各務原かがみはら伍長とか、香坂上等兵とか――その辺りの人たちも含まれるが。

 つまり、私はこの人の好意に応えられない。精神的にも、物理的にもだ。もしかしたら、ハオユーくんが華龍の兵士を本当に辞めてくれて、私たちの仲間になったとしたら、その時は士郎くんも彼を認めてくれて、結果として私はハオユーくんを殺さずに済むのだろうか。

 仮にそんな将来が待っているのだとしたら、やはり今は彼を味方につけることに全力を尽くすべきなのではないか……彼は、前線では珍しい、私のような女の子に出会って、風邪でも引いたみたいに恋をしているだけなのだ。こちら側には、友軍である上海軍も、台湾軍もいる。そこには彼と同じ漢人の女性兵士だっているし、もしかしたら日本人の普通の女の子とも出会いがあるかもしれない。

 未来は本気で、浩宇をこちら側に引き入れようと決意した。


「――ハオユーくん……だったら……本気で相談してもいいかな……」


 真剣な未来の表情に、浩宇は少し緊張しながら頷いた。


  ***


「――なるほど……ミクは無理やり戦場から連れ去られて、うちに連行されてきたんだ……」


 浩宇ハオユーは怒りに打ち震えていた。我が軍とはいえ、なんて酷いことをしたんだ!? それじゃあまるで人さらいじゃないか!? こんなに優しい子を無理やり仲間から引き離して……さぞ心細いことだろう。しかも生きて帰れる保証は貰えなかっただと……!?

 何のために連れてこられたのかも分からないから途方に暮れている、という彼女の相談は、浩宇の正義感を燃え上がらせるに十分な燃料となった。


「ミク、俺は絶対にミクを守ってみせる! だから安心してくれ……そのために出来ることなら、なんだってやってやる!」

「ホントに!?」

「あぁ! 嘘はつかないさ! 俺はむしろ、ミクを守るために華龍の兵士になったんじゃないか、って気がしてるくらいだ」

「――じゃあ、上手く逃げ出せそうなら、ハオユーくんも一緒に来てくれる?」

「……あぁ……そうだな……そうするよ! うん! 決めた! 俺はミクを連れ出して、最後は日本軍に投降する。彼らはうちと違ってキチンとジュネーブ条約を守るんだろ? だったら安心だ。もし許されるなら、日本軍に鞍替えしたっていい!」


 浩宇ハオユーは本気だった。若い彼にとって、未来の話はあまりにも衝撃的だった。家族同然に思っていた華龍が、そんな酷いことを最前線でしでかしていたなんて――

 しかも、こっちは勝手に「運命の出会い」だなんて浮かれていたのに、彼女からしたらとんでもない人攫いに遭っただけだったのだ。未来に申し訳ない、という感情と、自分が彼女を守ってやりたい、という感情が、彼の中で暴発していた。


「――手始めに、研究施設の中の様子を探ればいいんだね!?」


 浩宇は未来に確認する。


「……でも、無理はしないで。これはとっても危険なことなの……もしバレたら、ハオユーくんも何をされるか分からない……」

「分かってる……せいぜい慎重にやるよ。一緒に逃げ出せなければ意味がないしね!」


 ミクは心配そうに頷いた。これだ――俺はこの娘の、この表情に恋したんだきっと。守ってやる。俺が絶対に守ってやるさ!

 すると、未来はおもむろに手首に嵌めていた可愛らしいブレスレットを差し出してきた。


「これ……お守りアミュレットだから……」


 ほんのりと頬を赤らめたその顔に、浩宇ハオユーも内心ドキドキする。黙って受け取ると、その場で首にぶら下げていた認識票のネックチェーンにそれを通した。


「これなら他の連中にも見つからないから」


 そう言うと、浩宇ハオユーは照れ笑いを浮かべながら再度未来みくを見つめ返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る