第116話 取引

 ゴンゴンゴン――と分厚い木製の扉をクリーが叩くと、中から「入れ」という男の低い声が聞こえた。


「失礼します」


 ガチャリと扉を開け、クリーが一歩中へ入る。神代未来みくもクリーに続いた。

 部屋の中には、男が一人。古めかしい木製の執務机に座って二人を鋭い目で見つめていた。


 未来は無意識に部屋の中を見回す。大きさは二十畳くらいだろうか。くすんだ白いコンクリ壁で囲まれた室内は一見殺風景だが、各所に置かれた箪笥は紅木のような暗色で光沢を放っており、白壁と対比して部屋全体に落ち着いた雰囲気を醸し出していた。什器は、男が座る比較的大きな執務机と、その前に鎮座する黒い革張りのソファ。部屋の隅の背もたれ付きの椅子は楡木ユウムウ製か。その隣に置かれた腰高の木製キャビネットの開き戸には、意匠化された植物模様が繊細に彫り込まれている。

 窓は格子状で透明度の低いガラスが嵌め込まれており、上から吊るされた安物の白いブラインドだけが妙に浮いていて、そこだけ奇妙な違和感を放っていた。


「ご苦労だった。お前は下がっていなさい」


 男はクリーに声を掛ける。彼女は黙って踵を返すと、あっさりと部屋を出ていった。残された未来は思わず身構える。


「そう警戒しなくてもよい」


 そう言うと男は立ち上がり、部屋の入口に立ったままの未来のところまで歩いてきた。


 身長は、170センチ台か。高くもなく低くもない。未来の目線だと、少しだけ見上げるかたちになる。体格は中肉中背で、ただし明緑色の人民解放軍の軍服を纏ったその体躯はそれなりに引き締まっている。肌は浅黒く、頬はこけ気味だ。その黒髪は中国人には珍しく少々クセっ毛気味で、緩やかにカールした前髪が少しだけ目元にかかっていた。


「――随分困らせたようじゃないか」


 男が意志の強そうな剣呑な視線を未来に投げかける。瞳は鳶色がかった黒で、恐らく新兵だったらその圧に無意識に怯んでしまうのではないかというほどの目力だった。

 だが、未来は男のそんな無遠慮な視線に毛ほども動揺することなく、真正面から見つめ返す。


「……おっと、言葉は判るのかね?」


 肯定の意味で、未来は無表情のままパチリと瞬きをしてみせた。そのニュアンスを理解したのだろう。男は少しだけ柔和な表情になり、未来をソファへ促した。

 だが、彼女はその場を一歩も動こうとしない。訝しむ男に、未来は両手を胸元まで上げてみせた。

 部屋の中を、静かな緊張が包む。


「……あぁ、これは済まなかった」


 男はおもむろに机まで一旦戻ると、未来の方へ小さな鍵を見せながら戻ってきた。外してやろうと手を差し出す。未来も両手を男の目の前まで上げて見せ――

 その鼻先で、いきなりその手錠をいとも簡単に引き千切ってみせた。足首に嵌められたそれも、片足だけブンっと振り払い、飴細工のように粉々に砕く。

 男は突然のことに一瞬呆気にとられ……そして少しだけおののいた。


「――す、凄いな……本当はいつでも逃げ出せた、ってことか」


 男の態度が少しだけ謙虚になったような気がした。本来手錠を引き千切るなどということは、人間の――ましてや女性の力では不可能だ。それがまるで、子供が遊ぶおもちゃの手錠のように粉砕されるなど……男の常識では俄かには信じがたい。


「……そういえば、まだ名乗っていなかったな」


 男は思いついたかのように、その場を取り繕うような態度を見せる。

 日本人は礼節を重んじる。こちらから呼び出したのだから、まずは自分から名乗るべきだろう。そう考えた男は、あらためて未来の前に向き直った。


「私はヂャン秀英シゥイン。アジア解放統一人民軍の、黒竜江省軍団長だ」


 未来がピクリと眉を上げる。やはりそうだったか。

 英語名Asian Liberation United People’s Army――西側での識別呼称はALUPAアルーパ

 本人たちは「華龍ファロン」と自称している。


 米中戦争に突入した中国は、資本主義を標榜して経済立国を目指す「上海派」と呼ばれる勢力が、開戦僅か半年で米国と電撃和平を結び「中華民主共和国」という暫定政府を作った。彼らは中華人民共和国政府の正統な後継者を名乗っている。

 これに対し、主に中国共産党中枢の幹部を中心に組織された「北京派」と呼ばれる勢力は、外国軍を国内に招き入れた上海臨時政府を絶対に認めず、全土に徹底抗戦を呼びかけた。彼らは主に北京以北の東北三省を本拠地として反政府活動を行っている。

 「上海派」対「北京派」――これが、中国内戦のざっくりとした対立軸である。

 ALUPAは基本的にはこの「北京派」に属する集団で、主に人民解放軍出身者によって構成され、上海の民主中国政府とは激しい敵対関係にある。

 ただ実際のところは、自分たちの親玉である北京派とも闘争方針の違いからたびたび衝突を繰り返しており、いわば「北京派の中の過激集団」「武装闘争派」という性格を帯びている。世界中でたびたび起こる爆弾テロ事件――通称「チャイナテロ」の大半は、彼らALUPAが引き起こしたものだった。


 未来が初めて口を開いた。


「テロリストの親玉というわけですか……」

「……おっと、これは手厳しい。――ともかく、口を開いてくれたことには礼を言わせてもらおう」


 未来は、探るように張秀英の表情を覗き込んだ。


「私のことを知っているのですか」

「……日本軍の辟邪ビーシェ兵士であることは知っている」

「……私は……あなた方がいうビーシェではありません」


 確証はないが、クリーちゃんと私とは本質的に違うのではないか、という自分の直観を信じてみることにする。


「ほう……しかし君はつい今しがたも、この頑丈な手錠をいとも簡単に壊してみせた……」

「だからといって、私がビーシェとは限らないのでは? ……第一、私はそのビーシェなる存在を知りません」


 張は、このうら若い少女が相当の尋問訓練を受けていることを確信した。自分の正体をはぐらかし、こちらの質問の趣旨を少しずつ逸らして反問する――会話の主導権を握らせないためだ。

 拷問にかけてみる、というオプションも一瞬だけ頭をよぎったが、先ほどの手錠の件を思い出し、物理的な攻撃が彼女にはまったく無意味であることを思い出す。

 今ここに彼女がいるのは、ただ単に「無茶をしていない」からなのだ。彼女が本気で抵抗したら、やり込められるのはこちらだ。クリーを使って力づくで従わせる、という選択肢もあったが、辟邪ビーシェ同士の戦闘がいかなる破滅的な結果をもたらすのか、張には想像もつかない。

 これは相当慎重に取り扱わなければいけないな――


「なるほど……もっともだ――」

「ひとつ……質問があります」


 未来は張を見据える。


「――なぜ、私はここに連れてこられたのです? 今頃日本軍が血眼になって探していますよ……見つかって困るのはあなた方です」


 確かにその通りだった。今、我々と日本軍が拮抗しているのは、こちらが非対称のゲリラ戦に特化しているからだ。アジア随一の強大な軍事力を誇る日本軍と正面から殴り合ったら、滅亡した朝鮮半島の二の舞になることは目に見えている。


「……だが、彼らはここを見つけられないだろう。足さえつかなければ、電磁障壁で隠蔽しているこの場所は偵察衛星でも見つけられない」

「だから何度も車を乗り換えた、というわけですか――そんなに上手くいくとは思えません」

「どうしてだね」

「私の居場所は、そうした次元とは別の手段で見つけられるからです」


 未来は確信していた。私が士郎くんを見つけたように、士郎くんはきっと私を見つけてくれる。二人の間には、他の人たちが想像もできないような絆があるのだから。


 いっぽう張は、未来の真意をはかりかねていた。この自信に溢れた言い方が、出まかせのブラフとは思えない。彼女の能力であれば、ここから脱出することもさして難しくはないだろう。では、この少女が唯々諾々とここに立っているのはなぜだ? やはり我々の居場所を日本軍に突き止めさせ、壊滅に追い込むためだというのか!? だとすれば、彼女が今言った「別の方法でこの場所を突き止める」というのはやはり本当なのか……


 実際のところ、未来自身はここから自力で脱出できるとは思っていなかった。もし本気で逃げ出すのであれば、絶対にクリーちゃんが立ち塞がってくる。そうなれば、私はクリーちゃんを倒さなければならない。

 でも、彼女のことはやはり「敵」とは思えなかった。何か理由があって、ALUPA――華龍に協力しているのではないか……

 逃げ出すのなら、彼女を連れて行かなければ……

 でもそのためには、まずは彼女に信頼してもらわなければならないし、「辟邪ビーシェ」のことももっと詳しく探る必要がある。先ほどの「半獣人」も気がかりだ。

 未来は、連行されてきたのだから、少し腰を落ち着けてここに居座るつもりでいた。だが、監禁されて自由を奪われてしまったら身も蓋もない。そのためには、ある程度こちらの実力を見せつけて、一目置かせる必要があった。

 私はただの小娘じゃない。こう見えても、実年齢はあなたなんかよりずっと上なのだ。

 未来は、たった独りで生きていたあの数十年間のことを思い出す。こんなことで弱気になっていては絶対駄目だ。私は士郎くんと約束したのだ。士郎くんは絶対に私を助けに行くと約束してくれたのだ。

 ならば、私は今自分ができることを精一杯やるだけだ。


「――どうだろう……ここでの君の扱いは、客人ゲスト……ということにさせてくれないか? もちろん拘束はしないし、答えたくないことには答える必要はない。ただし、黙っていなくなることだけは止めてほしい」


 張は、大幅譲歩とも思える破格の扱いを未来に提案してきた。捕虜POWではなく、客人ゲスト

 もちろん、必要な情報を入手するまでは、そしてクリーちゃんの信頼を得るまでは……ここから立ち去るつもりはない。だがなぜ、この男はそこまでして私を引き留めたいのだ。いつ日本軍に乗り込まれるか分からないという警告を発したにも関わらず、リスクを承知で私を手元に置く、男にとっての――華龍にとっての――メリットは何だ……?


「随分と思い切った提案のようですが……あなた方には何のメリットがあるというのです?」

「――メリット? 確かに敵兵に対しておかしな提案ではある……だが……そうだな、一応我々中国人が、女性を丁重に扱う文明人であるということを示す、では駄目か?」


 見え透いた嘘だ。そんなぼんやりした理由で、私が納得するとでも思っているのだろうか。真意は別にある――

 だが、それは口にできないということなのだろう。もしかして、私の身体を調べてオメガの秘密を探り出すことが目的なのか? だが、拘束はしないと言った……。もちろん私の戦闘力を恐れて取り扱いに慎重になっているだけ、という可能性もあるが、もっと……そう、私の協力を引き出したい……?

 それが何であれ、敵対的な扱いでは私からそれを引き出せない、と考えているのかもしれない。


「……分かりました。では私はこの街で、自由に振る舞ってよいということなのですね?」

「もちろん……鍵のかかった部屋や、門番のいるところへの出入りには制限がつくが……そういう理解でかまわないとも」


 未来はあらためてこの男を見据える。嘘はついていないと思った。どのみち一人で脱出するにはリスクが高すぎる。そもそもここがどこかさえ分からないのだから。


「では……取引成立ですね。私はこの街から逃げ出さないが、何かを無理強いされることもないし、行動の自由も保障される――」

「その通りだ。最高の賓客としてもてなそう」


 張は右手を出してきた。握手をしようということか。だが、未来は手を差し出さなかった。扱いはどうであれ、そもそも私はここに無理やり連れてこられたのだ。士郎くんと、引き離されたのだ。

 張は、空振りした右手をなんとなく下ろすと、あらためて未来に向き直った。


「すぐに寝所を手配させよう。……ところで、何と呼べばいいのかな……その、呼び名がないと少し不便なのでな」

「――私は、神代未来。未来みく、と呼んでいただいて構いません」


 クリーちゃんは私の名前を知っていたのに……報告はしていなかったのか。やはり彼女は、華龍に対して最低限の協力しかしていないようだ。


未来みく……未来ウェイライか……いつも明日を見つめているのだな……とても良い名前だ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る