第115話 魔物の街
神代
クリーちゃんの放った異能攻撃は、いったいどういう代物なんだろう。
あの獰猛なケダモノたちが、突如として
――例えばゆずちゃんの異能は、対象の細胞分裂を極限まで昂進させて肉体を急激に膨張させ、結果的に相手の身体を破裂させるものだ。くるみちゃんのは、相手の神経伝達物質をショートさせて神経異常を起こす。
要するに、叶博士がいつも言っているように、私たちは自分の遺伝子に備わった異能力を、自分自身に使うか、相手の遺伝子に影響を与えることで力を解放している。
ところが、さきほどの彼女の攻撃はまるで
士郎くんはあのとき、「
本当は、「オメガ」と「
実際、遺伝子が変異したからって、空を飛べるのは明らかにおかしい。かざりちゃんは飛んでいるのではなくて跳んでいるのだ。驚異的な脚力によって、滞空時間が長いだけなのだ――
「未来さん、大丈夫でしたか?」
突然クリーに話しかけられた未来の思考は中断する。
「――うん……ありがと……なんとか……」
「よかった。では予定通り目的地に向かいます」
そう言うとクリーは、淡々と荷台に戻ろうとする。
結局、帯同していた兵士は、三名が狼の餌食になった。
「あの……さっきの狼はいったい――」
「あれは
「山海経って……?」
「中国の妖怪図鑑みたいなもの……三千年くらい前からある」
「ふ、ふぅーん……」
未来の知らない話ばかりだった。
それと……気になったことも忘れずに聞いておきたい。
「クリーちゃん、さっきの力……凄かったけど……どうして最初から使わなかったの?」
そうすれば、三人も死ななくて済んだはずなのだ。
クリーは少しだけためらって、結局未来の質問に答えてくれる。
「私、頭の中で相手のイメージが出来上がらないと……力が使えない」
「……だから……時間がかかったんだ……」
もとより彼女は両目が不自由だから、対象を視覚で捉えることができないのだろう。だから頭の中で、相手の大きさとか重さ、形のイメージを明確に持たないと、さっきみたいに
「――おしゃべりはここまで。そろそろ出発する」
そういうとクリーは、半ば強引に会話を終わらせ、一行に出発の合図をする。「そのまま助手席でいいよ」という彼女の言葉に甘え、未来はゆっくりとその身をシートに預けた。
***
「着いた。起きて」
コンコンコン、というウィンドウを叩く音と同時に、未来は慌てて飛び起きた。
いつの間にか眠っていたのだ。
辺りはすっかり暗くなっていたが、どこかの街中にいるようだった。薄暗がりではあるが、フロントガラスの向こうには、ボウっとオレンジ色の街灯が点々とついている。
「ここから先は歩く。私たちは、車で乗り付けてはいけないことになっている」
そう言うとクリーは助手席のドアを開け、未来に降車を促した。ドアが開けられると、初夏とはいえ涼しい風が流れ込んでくる。少しだけブルっと肩を震わせて、未来はトヨタの助手席から降りた。
だが、本当の驚愕はここからだった――
車を降りると、相変わらず兵士たちが未来の周囲をさっと取り囲んだ。だが、なんだろう……どうにも違和感があるのだ。
しばらく薄暗い通りを道沿いに歩く。全体的に錆び付いたような、埃っぽいような、それでいて夜の湿った気配が陰鬱な空気を湛えている。いったいこの街はなんていう名前なのだろう。全体的に日本の街とは違う、大雑把な造り。
日本の街は、良くも悪くも情報量が濃密だ。標識、店の看板、道路標示、横断歩道、信号、電柱、自販機……建物の構造も複雑で、例えばお店にはショーウィンドーがあって、店の出入口があって、マンションだと敷地に入るちょっとした小径があったり、植え込みがあったり、たとえば自家用車が家の前に停めてあったり……
だがこの街は、建物といってもなんの特徴もない無機質な壁がずっと続いているだけだ。道路もただそこにだだっ広い通りが真っ直ぐ続いているだけだったり……ところどころに看板はあるものの、日本みたいに興味をそそるというか悪目立ちするような看板ではなく、ただそこに文字が書いてあるだけのような。
なんというか……そう、人の気配がないのだ。
そんな寂しい街並みを、一行はさっきから黙々と歩き続けている。
そして、最初に兵士たちが自分を取り囲んだ時の違和感……
そうか――彼らが意識しているのは私じゃない。私ではなく、私の周り……周囲の様子に意識が集中しているのだ。そういえば、護送されている道中は、彼らの警戒は明らかに私に向けられていた。だが今の彼らは、通りの向こうや建物の影、塀の反対側などをしきりに気にしている。
そんなに治安の悪い街なのだろうか。路地から突然暴漢が飛び出してきたりするのだろうか。
だが、辺りは相変わらずしんと静まり返っていて、肝心の人の気配がまったくない。
その時だった――
すっ――と、通りの先の暗闇の中で、何かが横切ったような気がした。一瞬だから見間違いかもしれないが、赤い光点のような、小さな気配……
すると今度は、後ろの方で何かの息遣いのようなものが聞こえた。
兵士たちが、途端にぴん――と緊張感を漂わせて、肩のライフルを降ろし、身体の前にぴったりと付けた。何かあればすぐ撃てる体勢だ。
「未来さん、急ぎます」
そう言うとクリーは、歩くスピードを上げた。未来も彼女に置いて行かれないように、意識して歩幅を広げる。
「……ねぇ、何かいるような気がする……」
早足で歩きながら、未来はクリーに声を掛けた。周りの兵士たちも、先ほどより明らかにペースを上げて、未来とクリーを取り囲むフォーメーションが崩れないようにしている。
「……いますよ。というか……もう取り囲まれている」
クリーの声に、緊張が含まれていた。
「な、何が――」
未来が訊ねようとした、その瞬間だった。
突然、一行の前を何か白い帯のようなものが一瞬にして通り過ぎた。
「ひゃっ!?」
思わず未来が小さな悲鳴を上げる。
白い帯は、目の前を瞬間的に通り過ぎたかと思うと、すぐに薄暗い街路の影に消えていった。それはまるで蛇のように空中で身体をくねらせながら、するするするっと飛んで行ったように見えた。
この街は、暗闇が多すぎる――
日本の街のように、煌々と街灯が道を照らし、通り沿いのお店の看板に照明が当たっていれば、そして家々の窓に明かりが灯っていれば、さっきから一行の周りを取り囲んでいる何だか得体のしれないモノだって、遠慮して出てこないんじゃないの!?
未来は、正体が分からない存在に恐怖した。いったいアレは何なの――!?
その時だった。
「……ぁぐわぁぁ……うごがぎゅうぅぅぅ……」
「――きゃああああぁぁぁっっっ!!!」
突然、何か人のようなものが大声で呻きながら闇から現れたかと思うと、兵士のガードをすり抜けてにゅうっと腕を伸ばし、未来の肩をぐわりと掴んだ。一瞬のことだった。未来は反射的に絶叫する。
兵士たちが慌てたように何事か怒鳴ると、弾かれたように数人がその何かに掴みかかり、その場に引きずり倒した。間髪入れずライフルの銃床を力いっぱい叩き込む。
「ぐひゃあぁぁぁっっっ」
何かが叫び声をあげ、地面に這いつくばって悶絶した。
「未来さんっ!」
クリーはすぐに未来に駆け寄ると、ぎゅっと抱き寄せた。
「――大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
怪我はない。だが、あまりのことに号泣していた。怖い怖いと思いながらホラー映画を見ていたら、案の定ビックリシーンになって、分かっていたのに突然のことに対処できず、思わず泣いてしまったような感じだ。
「……あ……だ、大丈夫……です」
クリーがボロボロのフードの袖で、やさしく未来の涙を拭いてくれた。
兵士の一人が未来の肩に手を置き、困ったような顔で何かを呟くと、少しだけ笑顔を向ける。この兵士が笑った顔を見たのは今が初めてだ。未来の内耳にインプラントされている音声翻訳チップには彼の言語が登録されていないらしく、何を言っているのかは分からなかったが、きっと慰めてくれたのだろう。その優しさに、少しだけ気持ちが落ち着く。
「この人は……なに……?」
クリーに訊ねる。
だが、その
クリーは、地面に這いつくばってピクリとも動かないその生き物を一瞥すると、隣の兵士に顎をしゃくった。すると兵士は少しだけクリーを見つめ、分かったとばかりにその生き物の横腹を蹴飛ばし――
ゴロンとひっくり返して身体の前面が見えるようにした。
「――!!」
未来は、その容貌に愕然とする。
「彼らは人間と獣の合いの子……半獣人」
兵士に蹴り飛ばされ、仰向けにされたその生き物の顔は――まるで猪だった。
一応胴体は人間の服を着ているが、胸元の辺りからその大胸筋ははち切れんばかりに発達し、両肩の三角筋と僧帽筋はまるで中世の鎧のように丸く隆起していた。そのせいで服は千切れ、ボロ雑巾を纏っているような有様だ。
首はなく、上半身の異様に発達した筋肉にそのまま繋がったような頭部は明らかに人間のそれではない。 その鼻は豚のように上を向き、眼球の位置も顔の横の方に移動してしまっている。口元には大きな牙が口腔からはみ出て上に突き出しており、そこから僅かに開いた口から見える歯は人間のそれではない。顔面はゴワゴワとした体毛に覆われていて、それがそのまま頭部全体、そして肩や胸にまで繋がっている。
「……そんな……」
未来はようやく声を絞り出した。
こんな生き物は、物語や空想の世界にしか存在しないものだと思っていた。昔山小屋で読んだ本の中に、狼男の物語があった。だとすれば、この生き物はさしずめ――猪男……?
「――コイツはそんなに危険ではない。まだ人間の理性を持っている」
兵士が猪男の脇腹をブーツの先でつついた。グゥゥゥ……と低い唸り声が上がるが、目は瞑ったままだ。
「たぶん未来さんの綺麗な髪の毛が気になった……コイツらは、綺麗なモノに反応する」
「え……?」
確かに未来のさらさらの銀髪は、一行の中では相当目立っていたかもしれない。薄ぼんやりとしたオレンジ色の街灯でも、キラキラと光を反射して艶めいている。
「――急ごう。他にもたくさんいる」
クリーは再び一行を促すと、先ほどと同じように早足で歩き始めた。猪男はその場に放置していく。クリーによると、そのうち気が付いて勝手にどっかに行くということだった。
綺麗なモノに反応……もしかして、この街がこんなに無機質で殺風景なのは、それが理由なのか。上海や香港のように――まぁ、あそこは異常に大都市過ぎるというのもあるが――猥雑とした、ド派手な街並みだと、この猪男のような半獣人が暴れ回る、ということなのか……
一行のスピードはますます増し、今や早足というより小走りのような勢いになっていた。ここまで来ると、未来の気持ち的には逃げるとか隠れるといった発想は完全に失せ、とにかくみんなと一緒に行動して、早く目的地に辿り着きたい、という思いでいっぱいになっていた。
一行の足音が静かな街並みにバタバタと反響し、周りではますます何かの気配が増えていく。ギギィーーーという何かの鳴き声、グルルルルという誰かの咆哮、ハッハッハッという激しい息継ぎの音……
この街では、街中の暗闇に何かが潜み、通る人間を品定めしていた。ここは人間の住む街ではなく、魔物たちの棲む魔界であった。
角を曲がった時、クリーがようやく足を止めた。
「着いた――ここが目的地」
未来の目の前に、高さ四メートルほどの、鉄製の大きな壁が聳え立っていた。
ここが、魔物たちを支配する、魔王の城なのか――!?
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