第117話 賽は投げられていた
「神の領域」ともされるゲノム編集を人類が本格化させたのは、2013年〈
それまでの遺伝子組み換え技術においては、別生物の遺伝子――これを「外来遺伝子」という――をゲノムの中の特定の位置に組み込むことが極めて困難であった。当時の技術は、一般的に「運び屋ウイルス」と呼ばれる特定のウイルスに外来遺伝子を持たせ、対象生物の細胞内に注入するという手順を踏むものであったが、このやり方だと必ずしもこちらが期待した位置に外来遺伝子が組み込めず、ランダムな配置になってしまう。もちろん、特定位置の遺伝子を破壊したり、外来遺伝子と入れ替えたりする技術がないわけではなかったが、その効率は極めて悪く、とても実用に適したものではなかったのである。
だから、バイオテクノロジーが驚異的な発展を遂げた20世紀後半からしばらくの間は「遺伝子組み換えに成功」などというニュースが世間を賑わせたりしたものだ。つまり、それまでのゲノム編集は運任せの要素が強かったのである。
ところがこのCRISPR/Cas9システムは、まさにハサミと糊で紙を切り貼りするかの如く、生物のゲノムを自由自在に操作できるものだ。遺伝子操作はよりクリティカルになり、特定の役割を担うDNAを切除したり組み込んだりすることで、想定した通りの生物デザインを生み出すことができるようになったのである。
この画期的な手法を手に入れた人類は、さっそく禁忌を侵すことになった。
きっかけはアメリカだ。
それまで各国は倫理的な問題から「人間と動物の遺伝物質を複合させるキメラ胚研究」を全面的に禁じてきた。
だがこのCas9システムが開発されて僅か三年後、アメリカの
彼らの言い分は極めて偽善的だった。
曰く、難病の原因究明のためにヒト遺伝子を動物に組み込んで動物実験をする。
曰く、動物の体内で人間の臓器や器官を培養して移植の道を拓く。
などという理屈だ。
もちろんこうした「キメラ胚研究」が、人類の医学にとってプラスの要素をもたらすことは疑いようがなかった。だがそもそも、なぜ今までこの行為が
もし、人間と動物の遺伝子が融合することになれば、生物自身が行う無数のトライアンドエラーのなかで「人間と同等の知性を持ち、人間の意識や思考をもった生物」が生まれないとも限らないのだ。
だがこういった批判に対しNIHは、個々の研究に対し「厳しい監視」と「ありとあらゆる必要な措置を講じる」と開き直った。
続いて2018年。アメリカに続いたのが当時の中国だ。ただし、中国のそれはついに一線を越え、発表された当時は世界中から猛烈な批判にさらされることになった。
彼らが冒したのは「人間の遺伝子そのものを操作する」という禁忌中の禁忌だったのである。
中国人たちは、双子の女児の遺伝子を直接操作し「HIV感染に対する耐性を大幅に強化した」
それまでも、特定の遺伝子を操作して親が望む子供を恣意的に作るという「デザイナーベビー/チャイルド」のコンセプトについては、世界中で議論百出し賛否両論が渦巻いていたが、中国の双子事件まではまだ「先天性の病気を排除する」とか「より優秀な知力・体力を与える」といった、ある種の「選民思想」に基づいた倫理的問題に軸足が置かれていたのである。
だがこの双子の場合は、そういった優劣ベクトルではなく、元々その人体になかった、まったく次元の違う別の能力を獲得させてしまったこと――つまり「超人類」を誕生させてしまったことこそが問題だったのである。
当時中国政府は、この研究が自分たちの制御下に置けないほど危険なものであると判断し、直接手を下した研究者を逮捕・拘束し、研究チームを解散させるという強硬措置を取った。だが、一度開けてしまったパンドラの箱は、もはや蓋をすることなど出来はしない。
バイオテクノロジーの世界は利権の塊だ。医療・製薬業界はもちろん、食品や農業生産の分野においても、特許を持ち技術を持っている国が世界を制する。その技術は日進月歩であり、古い技術はあっという間に陳腐化し、巨万の富を得るのは常にトップを走る一握りの者だけだ。
国家は常にライバル国の動向を注視し、疑心暗鬼となり、相互不信となり、一ミリでも相手に先んじようとしのぎを削る。そういう意味では、バイテク競争は軍備拡張競争に似ている。
CRISPR/Cas9技術は、開発から僅か数年で、人類を激しいバイオ軍拡に駆り立てる、悪魔の
これ以降先進各国は、密かにヒトゲノム――神の領域――編集を加速させることとなった。批判を恐れ、多くが非公式のいわば秘密研究と化していったことで、逆に各国の相互監視はまったく機能しなくなる。
その中でも特に危険な動きを示していると各国の諜報機関が警告を発していたのが、中国という国家であった。
当時アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となった中国であったが、その政体は共産党独裁、つまり民主的な監視機能が働かない中央集権的独裁国家である。莫大な研究費と最先端の設備を必要とするバイオテクノロジー研究は、経済大国という裏付けと、人権無視の人体実験が可能な独裁国家という特殊な環境下でついに花開く。
中国は、当時不当な侵略によって凄惨な民族浄化計画を進めていた東トルキスタン――中国自身は「新疆ウイグル自治区」などと称していたが――で、ウイグル人など無辜の人間を多数使った人体実験を繰り返し、無数のキメラ胚研究を繰り返したのだ。
米中戦争が勃発して中国が内戦の大混乱に陥った時、日本は東トルキスタン問題に密かに介入し、諜報機関を使ってトルコ政府をそそのかし彼らの独立戦争を後押ししたが、その過程で現地のウイグル人たちからこれら中国の蛮行をつぶさに聞かされることとなった。
だから日本政府は大陸派遣軍の兵士たちに例外なく、こうした中国共産党の人道犯罪を一通り教え込む。敵の
そして短期間の戦闘実験とはいえ、大陸に派遣された陸軍兵士である神代未来もまた、一通りそういった知識を頭に入れていたのである。
***
「
クリーが訊ねてきた。昨夜の
「……そうだなぁ、とりあえずどこでもいいから歩き回りたいかな」
昨日は日が暮れてからこの街に入った。暗くてよく見えなかったが、街路には人影がなく、全体的に殺風景で暗鬱とした雰囲気。おまけに半獣人なるモンスターまで現れて、まるで魔物の街という印象だった。
だが一夜明けてみると、部屋の上のほうについていた明かり取り用の窓からは、眩しすぎるくらいの朝日が差し込み、おまけに青々とした空が覗き見えた。運ばれてきた朝がゆの朝食をペロリと平らげ、久しく忘れていた穏やかなひと時を過ごす。未来はなんだか敵地に捕らえられている気がまったくしなかった。
そうこうしているうちに部屋にクリーが現れ、今日は一日好きにしていいという。だったら外を歩いてみたいということで、彼女が道案内を買って出たという次第であった。
「そうですか、ではさっそく出かけましょうか」
そう言うとクリーはすたすたと未来を先導する。しばらく廊下を歩くと、建物の玄関口らしきホールに出た。部屋を出てからここまで結構歩いたから、この建物自体そこそこ大きいのだろう。ガチャリ、と大きな玄関扉を開けると、目の前には別世界が広がっていた。
――え? ここは……中国!?
眼前に広がっていたのは……まるでヨーロッパの街並みだった。
白壁の瀟洒なビルは、五、六……七階建ての結構大きなもので、最上階は翡翠色の丸屋根にアールのついた出窓。両端に尖塔のようなものが立っていて、その上には……玉ねぎを逆さにしたような不思議な形の屋根。 これは……ヨーロッパ風といっても……そう、ロシア風だ。
「わ……すごい」
未来は思わず声を上げる。クリーを促して、さっそく玄関から外の通りに出る。
そこは、レンガ敷きの大通りだった。
人々が歩いていた。通りに沿って、ずっとお店が開いていた。食料品店、喫茶店、アクセサリー店、そしてブティック。通りには街路樹が規則的に植わっていて、欧風の出窓が施された三階建て程度の建物が林立している。ところどころレトロな黒色のガス灯みたいなものも立っていて、遠くに目をやると、三角の尖塔が見えていたりする。その尖塔の翡翠色の屋根の先端には、さらに細い避雷針みたいなものが付いていて、風見鶏のような細工まで施されていた。
「……ここはいったい……」
「中国じゃないみたいですよね」
未来の独り言に、クリーが反応した。彼女はこの街をよく知っているらしく、特段驚いた様子はない。
「――そう、だよね……ここ、なんていう街なの?」
「
「ハルビン――!」
未来は、大陸派遣前に軍からレクチャーを受けた東北三省の基礎知識をひっくり返す。
ハルビンといえば、黒竜江省の省都だ。19世紀の終わりに、当時の中国王朝「清」と帝政ロシアの間で条約が結ばれ、ロシア領となった街。その後多くのロシア人が入植し、街はロシア風に造られていった。当時は「中国のモスクワ」「中国のパリ」とまで呼ばれるほどの、欧風の美しい街並みだったという。
その後20世紀初頭あたりから日本人も多く住み始め、第二次大戦前は「満州国」として大日本帝国の統治下に入る。日本人も多く入植し、ロシア風に加えて当時の日本の質実剛健な近代的ビルが立ち並ぶようになった。さらに日本の近代化政策は、この街に多くの重工業や商業を育て、当時は中国随一の近代都市として栄華を極める。
そこに住む人々も、ロシア人、ユダヤ人、日本人、漢人、モンゴル人、そして朝鮮族、エヴェンキ族など実に多種多様で、まさに人種の坩堝だったそうだ。
ところが、第二次世界大戦の終結で満州国が解体されると、当時の中国共産党政府は社会主義国家建設の「大躍進」スローガンのもと、多数の中国人を新たな入植者としてこの街に送り込み、日本が去った後もそのまま住んでいた多くのロシア人やユダヤ人を迫害、彼らを強制的に追い出す。さらに毛沢東の「文化大革命」で紅衛兵により文化的価値のある重厚な建築物やロシア正教の寺院等が徹底的に破壊され、街は一気に崩壊し、廃墟と化した。
その後長らく低迷していたが、20世紀末頃から中国の改革開放政策により再びハルビンの街は再開発が行われるようになり、往時とはいかないまでも相当程度復旧されたという、まさに近代中国の激動の歴史に翻弄された街。
ただし、中国内戦以降は酷い有様らしい、というのが未来の認識だった。東北三省を北京派が掌握したことで、当然ながらハルビンも上海政府から目の敵にされ、何度も多国籍軍から空爆を受けて壊滅的被害を被った、と聞いていた。最大で300万人はいたという都市居住者も、大半が農村部に疎開し、今では十分の一の30万人程度しかいないと聞いていたが……
目の前に広がるハルビンの活気ある街並みは、とてもそんな風には見えなかった。
「ハルビンは廃墟だと思っていましたか?」
クリーが核心をついた問いかけをする。まるで私の考えていることが分かっているみたい……
「偵察衛星から見える映像は、電磁障壁によるダミーです」
「――!」
そういうことだったのか――
昨夜張秀英が言っていた「日本軍は我々を発見できない」というのは、あながち間違っていないのだ。現に未来自身も、今の今までハルビンは「空爆で廃墟と化した」と思い込んでいた。偵察衛星が日々映し出していた偽の廃墟映像の下に、こんなにも美しい街並みが広がっているなど、誰が想像できようか。当然、既に壊滅したと思われている都市に、無駄な空爆などするわけがない。彼らはまんまと敵の目を欺いているというわけだ。
未来は、中国人たちの知恵に脱帽せざるを得ない。
「……ちょっと……疲れたかも……どこか喫茶店に入ってみない?」
未来はクリーに提案した。「じゃああそこに」と言って、彼女は適当な店を指さす。
カランコロン――
心地いいドアベルの音を聞きながら、二人はとある喫茶店になにげなく入った。
奥のテーブル席につくと、ウェイトレスがすっと水を持ってやってくる。日本風のサービスか……そう思いながら未来はふとそのウェイトレスがコップを差し出した腕を見た。
これは――
彼女の二の腕は、
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