第101話 忘れ形見

 一度だけ、ここと良く似た廃墟に立ち入ったことがある。


 古ぼけた木造家屋。そう高くもない天井。柱は黒ずんで、ところどころ虫食いや亀裂が目立つ。壁紙は辛うじて貼られていたが、黒々とした染みや暗緑色のかびに侵食され、あちこち破けて中の壁板が剥き出しになっていた。もともと板張りの床も、点々と腐食して根太が露出している。要するに廃屋、あばら家、掘っ立て小屋。

 ただし士郎の記憶では、小学生のある夏のひととき、そんな廃墟で過ごしたほんのわずかな時間は、今でも宝物のような思い出だ。

 それは、神代未来みくと初めて出会った場所。

 傷ついた士郎を優しく抱き締め、天使の羽根で包み込んでくれた、母の胎内のような安息の地。

 あのボロボロの山小屋は、今でも行けばあるのだろうか……


 だから、月見里やまなしかざりが自分の家だったといって案内してくれたこの場所も、不思議と心が落ち着くというか、その見た目の廃墟っぷりに比べるとそう悪い感じはしないというか、なぜだか居心地のいい家に思えたのである。


「意外にいい家じゃないか」

「えぇ? ホントにそう思ってる? スゴボロだよ?」


 そう笑いながら文は、引き続き士郎を引き連れて、元リビング兼ダイニング兼キッチンだったという部屋に招き入れた。

 ちょうどいい塩梅に目の前に古ぼけたダイニングテーブルと椅子が数脚。二人は白く積もった埃をふぅーっと吹き飛ばしながら腰掛ける。ミシミシっと部材の軋む音がする。


「はぁー! 五年ぶりかぁー……なっつかしいなー」


 文は椅子にちょこんと座ると、行儀よく両手を膝に置いたまま、きょろきょろと首だけ動かして辺りを見回した。


「――ってことは……11歳までここで過ごしたってことか。ちょうど今のまゆちゃんと同じ歳だ!?」

「そう! 私もあの頃あんなちっちゃかったのかなー……へへ」


 ほんの少しだけ、文の顔つきがいつもより幼く見えた。

 士郎は、あらためて周囲を見回す。壁に沿って作りつけられているのは、昔のシンク――流し台だ。中学生くらいの頃、歴史の副読本の「むかしの家屋」というページに載っていた写真を思い出す。


「これ! すごいなぁー……本物のシンク初めて見たかも」

「えー、普通だよー……てか、PAZここでは普通!」


 確かに、都市域ミッドガルドから遠く離れて政府にも見放された、ここのような〈立入禁止区域〉では、こういった情景はさして珍しくないのかもしれない。

 もともと21世紀初頭から、日本では東京への一極集中が社会問題化しており、既にその頃から地方では急激な人口減少が始まっていた。結果的に、あの忌まわしき原発テロが直接の引き金とはなったが、僻地の小さな集落は言うに及ばず、大都市圏以外の地方都市は軒並み人口減でコミュニティを維持できず、多くがゴーストタウン化したのである。

 だから、UPZなどを逃げ出した人々が、そうした廃墟都市や無人化した山村に棲みつくのは当然の成り行きだったし、隠れ住むのに都合のいい奥深い森林地帯に勝手に家を建てようとする際には、人が住まなくなった古い住宅から部材や什器を取り外して持ってくるのがもっとも効率的だったに違いないのだ。

 よく見ると、かざりハウスのキッチンには水道の蛇口がない。代わりにシンクの横に置いてあるのは大きなポリバケツである。


「文、この家は、水道はどうしてたんだ?」

「そんなのないに決まってるじゃない。雨水をバケツに貯めて使うか、川まで水を汲みに行くんだよ?」

「電気は?」

「もちろんない。あっ、でも小っちゃいソーラーパネルがあって、最小限の電気は点くようになってた」

「ガスは?」

「なーい! 薪だよ薪っ! ふへへっ」


 文は、士郎の質問がよほど面白かったのか、けらけらと笑い始めた。


「ねぇ少尉? PAZでの生活舐めんなよっ! あははっ」


 すると、今度は急に真面目な顔になって押し黙った。


「文……?」

「う、うん……あのね……ここでの生活、今から考えると結構不便でさ、大変だった……けどね……私は好きだったよ……」

「……そうか……」

「ママと……一緒だったから……」


 士郎は、ハッとして文を見つめる。彼女はちょうど横を向いていて、その白い餅のような頬がとても清らかで愛おしく見えた。


「……お母さんは……?」

「……うん……死んじゃったの……」

「そ、そうか……ごめ――」

「いいの! いいんだよ……だからね、このおうちはボロいけど、ママとの思い出ばっかり」


 文が、士郎の方へ振り向いた。士郎は、黙って頷く。


「ママ、もしかしたらビックリしてるかも! だって、私がおうちに男の人連れてきたの、初めてなんだよ!?」

「――かざり……」

「きゃーっ! どうしよう!? 私もついにお年頃……ってことかな!?」

「かざり!?」


 僅かに頬を赤らめる文の瞳に、みるみる涙が溢れてくる。

 士郎はすっと立ち上がると数歩、文の元まで歩み寄り、椅子に腰掛けた彼女を背中からそっと抱き寄せた。


「――今までよく……頑張ったな……」

「…………うん……」


 文は、士郎の左腕を両手で抱え込むように抱き寄せ、頭を軽く傾げて頬を擦り付けた。そのままの姿勢でじっと動かなくなった文を、士郎も黙って受け入れる。

 やがて、文が口を開く。


「そうだ……少尉に預かってほしいものがあるんだ……」


 おもむろに立ち上がった文は、明らかに廃材で作られたと思しき食器棚の方へ向かうと、両手サイズの金属製の箱を引っ張り出してきた。クッキー缶みたいな奴だ。


「――これは……?」

「ママの形見……この際だから、少尉に預かってもらおうと思って」

「え? ……自分で持ってればいいじゃないか」


 士郎は、若干嫌な予感がして文をたしなめる。


「……そうなんだけど……ほら、私ちょっと抜けたとこあるから、失くしちゃうといけないし……」

「…………」

「だ、大丈夫だよ? そんな大事なもの入ってないし!」

「お母さんの形見が大事じゃないわけないじゃないか!?」

「むぅ!」

「むぅじゃない! ちゃんとこれからも自分で管理しなさい」

「えぇー? あ、そうだ! じゃあ中に何が入ってるか、見せてあげるよ!」

「……う、うん、まぁ……見るだけなら別に……いいけど」

「やった……じゃあ一緒に見よ?」


 そう言うと文は再度ダイニングテーブルに着き、いそいそと缶の蓋を開けた。

 中から出てきたのは――

 指輪、ピアス、ネックレス。そしてなぜか方位磁石、ペンシル型懐中電灯、カラビナ、ハーケン……


「ねぇ、お母さんって登山が好きだったの?」

「うん、そうだよ!? 登山って言うかトレッキング? ていうのかな?」

「ふーん……」


 その時、士郎は珍しい物を発見してしまった。


「これは……?」

「あー、それよく分かんないんだよね……ママが死んでから、荷物の中に入ってたのを見つけたの」


 その物体は、士郎の掌と同じくらいの大きさの、長方形で平たい形をしたものだった。厚さはせいぜい五、六ミリといったところか。片側は黒い画面、そしてその反対側の面は白く、何かのロゴみたいなものが描かれていた。ロゴの描かれた面には、丸い小さなレンズのようなものが付いている。


「……これって……もしかして、えっとスマ……スマートフォンって奴じゃないかな!?」

「スマ……何?」

「昔の電話、っていうか……今の携帯端末PDAみたいな奴!」


 現代の民生用PDAのスタンダードはペンシル型かリング型だ。先端からホログラフ画面が中空に投影されて、それを指先でタッチしたりスワイプしたりして操作する。士郎など軍人になると、超小型端末を手首などに埋め込んで、眼球に嵌めたコンタクトレンズに画像を投影させるような、いわゆる拡張現実AR型端末を使っているケースが多い。

 だから、今目の前にあるスマートフォンと呼ばれる携帯型演算処理端末は、まさに骨董品。博物館に置いてあってもおかしくないような年代物だった。文が知らなかったとしても無理はない。


「これ、中にいろんなデータが残ってるかもしれないぞ」

「データって?」

「そうだなぁ……写真とか、メールとか、音声とか」

「え? ホントに!? ……そんな大切なものが……!?」

「あぁ……なんとかデータ復旧できないかな」


 そのスマートフォンは当然ながら既に電源は点かなくなっていて、よく見ると真っ黒な画面にもうっすらと亀裂が入っていた。ただ、全体的に表面はくすんでいるものの、それ以外に目立った損傷はない。もしかしたら充電すれば復活するのではないか。


「この時代の電子機器は、空気中から電気を給電するシステムなんかなかったんだ……何かのケーブルを使って本体と電源を直接繋ぐしかないのかな……」


 士郎はぶつぶつ呟きながら端末をあれこれひっくり返してみる。一箇所、何かの接続孔のような小さな穴があったが、今やその規格に合う電源ケーブルなど見つかりそうになかった。


「……あっ……そうだ、文、誘導弾の垂直発射装置VLS持ってきてたよな?」

「うん……ちょっと待っててっ」


 文はいそいそと玄関まで戻り、立てかけていた装備品をガシャガシャと運んできた。病棟で無人機を追い払った小型ミサイルを格納した、背嚢式の対空対地火器システムだ。この装置の動力モジュールには確か空中給電システムのアウトプットもあったはずだ。


「……ここにこうやってこいつを当てておく……もしこのスマートフォンが無線給電システムに対応していたら、もしかしたら充電できるかもしれない」

「へぇー」


 文は興味深そうに士郎の作業を見守る。もしこの端末の再起動に成功したら、もしかしたら母親の過去の様子が収められた、さまざまなデータが見られるかもしれないのだ。


「……」

「…………」

「……まだかな……」

「……うん……もうちょっとだけ待ってみよう」


 既に10分以上経過していた。今のところ端末はうんともすんとも言わない。仮にこのスマートフォンが70年前の代物だとして、最後にバッテリーが切れたのが60年前だとすると、再充電には相当時間がかかるだろう。


「――ところでさ、文?」

「ん、なに?」

「お母さん……なんでその……亡くなられたの? いや……もちろん、言いたくなければ言わなくてもいいけど……」

「ううん、いいの……ママはね、私と同じ……オメガだったんだ」

「え? そ、そうなんだ……」

「うん、それで、私が10歳くらいの時、脚を折っちゃってね……それからあんまり歩けなくなって……体調がどんどん悪くなって……」

「――そっか……」


 文の母親も、やはり動けなくなってから体調を崩したのか……叶少佐の推理がまたひとつ、裏付けられたということか。オメガは動けなくなると余剰放射線を排出できなくなり、衰弱する……

 それにしても、いったいどんな人だったんだろうな。会ってみたかった気もする。

 文は本当に素敵な女の子だ。家族思いで、仲間思い。明るくて朗らかで、他人のために涙を流すことができる子……そんな子をこんな過酷な環境下で育てた彼女の母親は、いったいどれだけ魅力的な女性だったのだろうか。

 すると、唐突に「ピッ」と小さな電子音が聞こえた。


「あっ! 電源点いたよっ!!」


 見ると、スマートフォンの真っ黒な画面に、白いリンゴのマークが浮かび上がっていた。


「おぉ! ホントに点いた!」

「な、中、見られるかな……」

「待て待て……慎重にだ……」


 二人は頬を擦り付けんばかりに顔を近づけて、スマートフォンの小さな画面を覗き込む。やがてリンゴのマークが突然消え、画面にテンキーが浮かび上がった。


「アクセスキーを入力してください……?」

「なんだろう? かざり分かる?」

「……わ、わかんない……」

「あっ! そうだ」


 士郎は一人声を上げると、画面を真っ直ぐ文の顔に向けた。


「もしかしたら生体認証かもしれない! 文お母さんに似てるでしょ!?」

「えっ? でも違……あ! 開いた!」

「やったぜ!」


 この頃の生体認証は結構ガバガバだったと聞いたことがある。母娘ならフェイスID誤魔化せると思ったら、本当に誤魔化せた。ちょっと笑える。そんなにこの子、お母さんにそっくりなんだ?


 表示された画面には、様々なアイコンが等間隔に並んでいた。


「立体表示じゃない!」

「――だな、まさに年代物だ」


 士郎は、写真データのアイコンを探す。あった――


「これだ! ここ開けてみよう」


 慎重に、アイコンをタップする。すると画面がパッと開いた。思った通り、写真のサムネイルがずらずらっと並んでいた。良かった、データはクラッシュしてない。しかも結構たくさん入っている。


「すごいっ! 写真がいっぱいあるっ!!」


 文は奪い取るように士郎からスマートフォンを受け取った。食い入るように画面を見て、そしてスワイプしていく。


「すごいすごいすごいッ!!! ママがいっぱいいるっ!! ――わっかーい!!」

「……ははは、良かったじゃないか! これならもう俺に預けるなんて言わないだろ!?」

「そ! そうだね!! ちょっとデータ整理しなきゃっ!!」


 本当に良かった。なんだかネガティブな発想に陥りかけていた様子の文だったが、こんな宝物を思いがけず発見して、一気にテンションが上がったことだろう。このスマートフォンには、母親が今でも存在しているのだ。

 すると突然、文の動きが止まった。


「ね、ねぇ少尉……? これ……」

「ん?」


 画面は、一枚の写真を表示したまま止まっていた。士郎が覗き込む。するとそこには――


「これ、未来みくちゃんだよね……!?」


 士郎は、あまりのことに言葉が出ない。

その画面に映っていたのは、文の母親と思しき、彼女とそっくりな若い女性と、そして長い銀髪を風にたなびかせ、スラリとした手脚を無造作に広げてリラックスした様子の少女が、どこかの岩場の上に座り込んで二人で仲よさそうに笑っているスナップだった。

 それは間違いなく――神代未来だった。見間違えるはずなどなかった。


「文……お母さんの名前、なんていうの?」

「い、伊織……月見里やまなし伊織だよ」

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