第102話 選択肢
――凧が一番空高く上がるのは、風に向かっている時である。風に流されている時ではない――
そう言ったのは、20世紀イギリスの政治家、ウィンストン・チャーチルであったか。
文と、そして衰弱の激しいオメガ少女、広瀬
オメガ少女たちが発見・保護されるのは〈
それに、集落に着いて間もなく、士郎は各務原から「念のため」ということで安定ヨウ素剤を飲まされていて、少なくとも急性放射線被曝症状の心配をする必要は当面なさそうであった。ちなみにヨウ素剤とは、人間の甲状腺に放射性ヨウ素が蓄積して内部被曝するのを防ぐ薬剤である。
いっぽう、長期に亘ってここで暮らす人々はどうなのだろうか。事実、集落には幾人ものオメガが居住していて、例外なくみな床に伏せっていた。
だが、それ以外の普通の人々は、士郎が観察する限り思いのほか健康体であった。語弊があると困るので若干だけ補足すると、「健康」というのはあくまで想像よりは、という意味である。
いくらホットスポットから離れているとはいえ、時には風に乗って汚染大気が流れ込むこともあるだろうし、彼らの生活の基本が「森の恵みの採集」であることを考えると、食糧として捕獲した鳥獣は言うに及ばず、採集した川魚や野草、飲料水などにも、僅かずつでも放射線が含まれていることは否定できない。
その影響なのだろうか、住人の頭髪は男女を問わず概して薄く、皮膚疾患を発症している者も多数見受けられた。おそらく、目に見えない身体内部の疾病なども数多く抱えているのであろう。
だが、彼らの暮らしぶりを見ていると、冒頭のチャーチルの言葉を思い出さずにはいられないのだ。
豊かな都市域での生活に比べ、ここではありとあらゆることが文明生活から乖離している。文の住んでいた家屋には、電気もガスも水道もなかったし、下世話な話、水洗トイレなどもなくて排泄は集落から少し離れたところに作られた共同便所だったりする。
当然冷暖房もなければ風呂もない――薪風呂のようなものがあるにはあるが、たいていの者は山道を歩いて30分ほどの距離にある沢で水浴をするのが関の山だ。
不愉快な虫などが湧いても退治する殺虫剤など何もないし、当然医療品はほとんどない。要するに、石器時代とは言わないが、せいぜい江戸時代の庶民のような生活を送っているのである。
だが、人々の表情は一様に明るかった。何をするにも手間がかかり、暇がかかる。調理をするにもまずは火を起こすことから始めなければならないが、その分近所で種火を分け合ったりして、しっかりとお互いが助け合って暮らしていた。
当然だが、朝スーツを着て電車に乗って会社に行く者などいるはずもない。男たちは、自分の家族がその日一日を安寧に暮らせるよう、狩りに行き、食糧を採集し、家財を修理し、家を補修する。女たちは、家族に幸せを与えるべく、限られた食材と方法で精一杯の料理を作る。夫や子供の衣服を整え、周囲の清潔に気を配る。子供たちはよく働いて家事を手伝い、そしてよく遊ぶ。
ここでは、生きていくことそれ自体が冒険であり、挑戦であった。人々はそれによく立ち向かい、今日を生きることを人生のシンプルな目標としていた。彼らは実に生き生きとしていて、それはまるで空高く飛ぶ凧のように見受けられたのだ。
最も大事なのは……と士郎は考える。
彼らは大半が、元は都市住民であったということだ。高度に成熟した都市社会の風に流され、いずれも都市生活不適合者というレッテルを貼られて〈
だから、彼らの経歴をたどれば、「元犯罪者」「元ひきこもり」「元何々」というネガティブな肩書が山のように出てくるのだろう。もちろん、人間としていわゆる「クズ」だった者もそれなりにいるに違いない。そういう意味では、士郎の常識的な倫理観では、決して認めがたい好ましからざる人物も存在するのだろうが……。
だが結局のところ、ここで暮らす人々を見る限り「人は変われる」という言葉が嘘ではない、と思えるのだ。この地では、人を蔑んだり恨んだり憎んだりしている暇などないし、怠惰に流れている暇などないのである。もちろんお金は何の価値もないから、貧富の差は存在しない。十数キロ離れた麓の廃村から再利用できるなにがしかを誰かが回収してきた時も、いま集落でそれを一番必要としている人に与えられるだけだ。
果たして、本当に人間らしい幸せな暮らしをしているのは都市住民なのか、それとも彼らのようないわゆる「棄民」なのか、どちらなのだろうか。もちろん幸せの概念は人それぞれだから、一概にどちらが優れていて、どちらが劣っているなどと型に嵌めるつもりもないのだが。
ただ、少なくともここにいる彼らは、過程はどうあれ結果としてこの場所で生きていくことを選んだのだ。それは間違いなく、自分自身の責任において自らの生き方を選択した結果だ。
だが、そんなふうに理想論を一晩中語り明かしたくても、やはりというかしかしというか、厳然と蓋然と、平然と慄然とこの地に存在するのは――「命の危険と隣り合わせ」という非情な現実であった。
ここの人たちは、実に簡単なことで命を落とす。ちょっとした風邪をひいても、市販の医薬品さえままならないこの集落では、それが重篤な症状に繋がることも珍しくない。たとえば虫歯でさえも、致命的な疾病を引き起こす原因になり得るのだ。野山を歩き回ることで必然的に負う小さな擦り傷や切り傷は、迂闊に放置すると敗血症を引き起こしたりする。
だから、
それにしても気になるのは、そんな伊織さんと幸せそうにスナップ写真に納まっていた、神代
恐らく数十年前のものと思われるその写真データの中の彼女は、ついこの前まで隣にいた未来と見た目はほとんど変わらない。まぁ不老不死という異能を持つ彼女にしてみれば、数十年前だろうがその容姿が何も変わらないのは当たり前のことなのであろうが。
ただ、その表情だけは士郎の知る未来のそれとは比べ物にならないほど底抜けに明るく、屈託のないものであった。引っ込み思案で大人しい今の彼女よりも、人生そのものを楽しんでいた気配すらある。
そうだ……未来もこうしたPAZで長年暮らしていたのだ。もしかしたら彼女にとっては、何にも縛られないこうした場所での生活の方が向いていたのかもしれない。
伊織さんとはいったいどういう関係だったのだろうか。写真の雰囲気から察するに、気の置けない仲間同士、あるいは親友と呼んでも差し支えないような間柄だったのではという気もする。
文によると、未来自身は何も話してくれなかったそうだが、伊織さんと生き写しの文と出会った時、彼女はいったい何を思ったのだろうか。そして、なぜほんの少しでも文に母親のことを訊いてみようとはしなかったのだろうか。
それはもしかしたら、彼女たちのPAZでの生活に何らかの原因があるのかもしれない。殊更に、昔の記憶を蘇らせたくない、我々の
そして今まさに士郎の目の前でも、そんなPAZでの過酷な現実の前に立ちすくむ一組の父娘がもがいていた。
「繭ちゃん……! 苦しいよね……ごめんね……ごめんね……」
床に臥せる繭の横で、文が小さな手を握り締め、嗚咽していた。
「繭ッ! しっかりしろッ!! お父さん、ここにいるからな……!」
主治医から余命一ヶ月と宣告されているオメガの少女、広瀬繭は、今や高熱を発して意識すら朦朧としているようなありさまだった。珠のような汗を全身から噴き出し、その息は荒く、声を出すことすらままならない。ただ短く激しい呼吸を繰り返して、自分の中の苦しみを一ミリでも外に吐き出そうとしているかのようであった。
各務原はその横でしょげ返っていた。確かに彼は熱血漢で、任侠心に溢れた好青年である。今回のことも文の話にほだされて手を貸したわけだが、自分のしでかしたことの結果の重大性まで考えていたのかは甚だ疑問だ。
唯一の慰めは、広瀬繭が本心では願っていた「もう一度だけ家族に逢いたい」という夢を期せずして叶えてあげた、ということに尽きるのだが、それすらも今となっては正しかったのかどうか怪しくなっている。 彼女の父・耕作の嘆きぶりがあまりにも痛々しいからだ。
どんな親だって、子供が死にそうになっているのにただ手をこまぬいていることしかできないとなれば、自らの無力を恥じ、何もしてやれない自分を呪うしかないのだ。こんなことなら逢わせなければよかったかもと弱気になるのも無理はない。
「各務原……あらかじめ確認しておくが……なぜこんな実力行使に出たんだ!? 外出許可を申請して一時的に繭ちゃんを連れだすという選択肢だってあったはずだ」
「……出なかったんです……外出許可……」
「俺は……そんな申請受け取ってないぞ」
「いえ……四ノ宮少佐です。……形のうえでは小隊長は少佐ですから、申請先合ってますよね!?」
「……ん、まぁ……そうだな」
……それはそうなのだが……もともとお前は俺の部下じゃないか!?
なぜ頼ってくれない!?
「しかし、なぜ俺に相談しなかった!? 申請前でも、却下された後でもいい! 一言相談があれば、別の方法だってあったかもしれないんだぞ?」
「……そりゃ……今考えたら確かにそうだなって思いますけど……俺、居ても立っても居られなかったんです! 一刻も早く繭ちゃんを連れ出さなきゃって――」
「それで人ひとり殺したのか!? 正当化されるとでも思ってるのか!?」
あの時、病棟の屋上でドローンを通じて四ノ宮少佐が投降勧告を行った際「まだ一人しか殺していないから情状酌量の余地はある」と言っていたのを思い出す。だがその酌量の余地というのはせいぜい「死刑を免れる」程度であって、恐らくは相当な厳罰が待っているに違いないのだ。
だが、それでも死ぬよりはマシだろう。なにせ軍の最重要施設に不法侵入し、破壊行為を繰り返した挙句、最高機密を盗み出そうとしたのだ。本来なら反逆罪に問われても仕方がないのだぞ……いや、まさか……
士郎の胸に不安がよぎる。本当は既に反逆罪と見做されている可能性はないのか……!?
「各務原、お前軍を辞めるつもりだったのか……!?」
「……」
どう考えても後先考えていない浅はかな行動である。犯行が露見したらそもそも軍にいられるはずがない。
「……やっぱり、バレてますよね俺と文ちゃんが犯人だって」
「当たり前だ! お前、
「はぁー……やっぱりそうだよなぁ……俺、いつも詰めが甘いって言われるんです……」
各務原は、横目で繭の様子をチラリと見る。彼女の息はますます荒く、苦しそうな吐息が漏れる。そのすぐ傍には文がいて、ぎゅっと手を握り締めていた。
「……少尉……すいません……でも俺ッ! 好きな女のためになんかしてやりたかったんす!」
――好きな女!? コイツ、文のこと……
ほだされて、どころではない……惚れてた、ってことか……
もしかして俺に相談がなかったのは、くだらない意地を張った、ということなのか。文はどこまで本気だったのか分からないが、最近しょっちゅう俺のこと好き、とあっけらかんと言ってたからな……男のプライドだったのか。
「…………それがお前の……選択だった、ということか……」
「……はい……そうだと思います……」
「……文には気持ち……伝えたのか……?」
「……いえ……言うつもりは……」
そう言うと各務原は、少しだけバツの悪そうな顔を士郎に向けた。実に各務原らしい、と士郎は思った。
「各務原……お前にもう一度……選択の機会をやろう」
「……は、はい……」
「投降しろ。投降して、繭ちゃんを連れ帰り、あらためて専門家に治療してもら――」
「いや! 少尉それは無理っす! 繭ちゃんはもう助からないって――」
「だから! それが間違ってんだよッ! 彼女はまだ死ぬと決まったわけじゃない。実は、画期的な治療法が見つかりそうなんだ!」
「えっ!? それ、本当ですかッ!?」
「こんな時に嘘ついてどうするッ! お前らの早とちりなんだよッ! 繭ちゃんは助かる可能性がある!」
「わ……分かりま……した……じゃあ――」
「ただしッ! 投降したらお前らは間違いなく逮捕され、良くて無期懲役、ってことになるだろう……だから自分で決めろ。繭ちゃんが助かる可能性に賭けて自分たちは逮捕されるか。繭ちゃんのことは運命だと諦めて、二人で
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