第93話 流星群
広瀬
ここのところ毎日彼女の許に通い詰めている士郎には、それが手に取るようによく分かるのだ。
車椅子の車輪が、音もなく病棟の廊下を踏みしめていく。ホイールのところには、ピンクや黄色のさまざまな大きさをしたスーパーボールが挟み込まれていて、愛想のない武骨な器具を可愛らしい王女さまの馬車に変えていた。士郎は、小さな繭を乗せたその乗り物を黙って背後から押していく。
後ろから見下ろす繭の後頭部。さらさらの黒髪ボブの隙間から覗く白いうなじは相変わらずか細くて、病的なほど頼りなさげだった。だが、士郎の胸を締め付けるのはそこではなくて、彼女が着ているパジャマの襟から少しだけ見え隠れするどす黒い痣だった。それは、黒と紫色が混じったような、腐りかけのバナナの皮のような色をしていて、彼女の華奢な首筋を今にも暴力的に覆いつくそうと牙を剥いているのた。
ほどなく、彼女の馬車は病棟のエレベーター前に辿り着く。不意に幼げな声が耳に届いた。
「ねぇ、士郎おにいちゃん……わたし今、めっちゃドキドキしてるよぉ」
くるりと振り向いた少女は、大きな瞳で士郎を見上げた。全体にうっすらと青白い光を湛えたその黒目がちの瞳には、天井のLEDがいくつも反射して大小の光点を虹彩の中に形づくっている。それはまるで、宇宙の一角に煌めく無数の銀河のようだ。
「そう? そんなに楽しみにしてくれてたんだ!?」
そう言うと士郎は彼女に穏やかに微笑み返す。
「そりゃそうだよー。わたしね、流星群なんて見たことないもの!」
二人がこれから向かうのは、病棟の屋上だ。今夜は特別に医師から許可を貰ったのだ。
士郎と繭は、この一週間で死ぬほど会話を楽しんできた。それはまるで、今まで出会えなかった分を取り戻すかのような勢いで。
好きな食べ物のこと。かわいい動物のこと。最近読んだ本のこと。世の中のミステリーのこと。行ってみたい場所のこと。そして……元気になったらやってみたいこと。
その中で、たまたま星座の話になった際、士郎は「星」についてたくさん彼女に語って聞かせたものだ。そしてもうすぐ「みずがめ座流星群」という、流れ星の一大スペクタクルが夜空を彩るというお話も。
繭はその話にいたく興味を抱いたようだった。病棟から一歩も外に出たことのない彼女にとって、無限に広がる星空の話題は、小さな心をときめかせるのに十分だった。そのうえ「流れ星なんて見たことがない」という一言は、士郎を大いにやる気にさせたのである。
医師は、士郎の熱心な依頼を断ることができなかった。自分が責任をもって付き添うという彼の申し出は十分肯定的な理由になったし、なにより少尉と出会って以来、繭の精神状態は極めて良好であった。余命いくばくもないことを知っている医師にしてみれば、これくらいの我儘は聞いてやらなければいけない
かくして二人は今日、本来の面会時間をとっくに過ぎているにも関わらず、特別に許可を得て、流星群観測に向かっているところなのだ。
「ねぇおにいちゃん……流れ星にお願いすると、本当に夢が叶うの?」
エレベーターの扉が音もなく開くと、二人はそのまま乗り込んで、士郎は後ろ手にRボタンを押す。いつもなら出入り禁止でボタンそのものがタッチパネルから消えているのだが、今夜は繭のために病院の管制システムが「
「叶うよ。ただし三回だ。お願い事は三回唱えなくちゃいけないんだぞ」
「えー三回ぃー? 言えるかなぁ」
僅かに下向きのGがかかり、エレベーターが上昇していることが分かる。ほどなく小さな駆動音が収まり、ポン――という柔らかい音が聞こえたかと思うと、扉がすっと開いた。
車椅子を後進させて、屋上階のエレベーターホールに出る。そのまま半回転すると、目の前に屋上へ通じる気密扉があった。
「さて、いよいよだぞ。準備はいいかい?」
「う、うん! だいじょうぶ」
「じゃあ……そうだな、目を瞑っててくれるかな」
「分かった」
繭が小さな手で顔を覆う。士郎はゆっくりと王女さまの馬車を押していった。
ぷしゅっ――と気密扉が開く音がして、少しだけひんやりした空気が繭の肩口をくすぐった。そのまましばらく前進する。少しだけ、カタカタと車椅子が揺れた。
士郎は、屋上の縁にある手摺りの前まで繭を連れて行くと、静かに車椅子の車輪をロックする。彼女の左肩に手を添え、耳元でそっと囁く。
「さぁ、着いたよ……目を開けてごらん」
「う、うん……」
そう言うと繭は、覆っていた手を静かに下ろし、顔を上げて、それからゆっくりと瞼を開いた。
満天の星空――
世界を、無数の煌めきが埋め尽くしていた。
夜空は果てしなく高く、真上にいけばいくほど漆黒の度合いを増していたが、その分大小の無数の光点が、まるで二人に降り注ぐかのように圧倒的に宇宙を覆いつくしていた。大気の揺らぎが星たちを瞬かせ、どこまでも無限に世界を包み込む。
天球を縦断するように南の地平から北の地平までアーチを描く光の帯は、夏の到来を告げる天の川銀河だ。
「……ぁ……」
繭はそのあまりにも非現実的な光景に圧倒されたのか、言葉を失っていた。
車椅子の背もたれに後頭部を押し付け、ただひたすらに星の海を見上げる。人工の灯りの元ではお世辞にも芳しいとはいえない彼女の顔色も、無数の銀河から放たれる数十億年前の光の元では、淡く白く、柔らかな表情を、彼女に惜しみなく与えていた。
「……すごぃ……」
辛うじて小声を出した繭だが、士郎は敢えて声を掛けない。さぁどうぞ――心ゆくまでこの夜空を堪能しておいで……
繭は、自分の眼前に広がる光景に、完全に圧倒されていた。
まるで星の海に投げ出されたかのようだった。車椅子に座っているのだと頭では分かっているのだが、今や自分の身体はこの宇宙に漂う小さな小さな塵だと思った。
重力は何も感じなかった。ただ足許から――実際には自分の脚が失われていることすら忘れ――頭のてっぺんまで、ふわりふわりと無数の煌めきの中に浮かんでいるようだった。いつも見慣れた病室の白い壁とは大違いだ。
一瞬だけ、なぜだか孤独を感じ、悲しい気持ちがちょっぴり顔を覗かせたが、すぐに不安は打ち消される。左肩に置かれたおにいちゃんの大きな手から、あったかい気持ちが流れ込んできたからだ。
そうだ……悲しいのは、わたしがもうすぐ死んじゃうからだ。先生たちは何も言ってくれないけれど、それくらい、自分のことだから判るんだ。
でも、最後の最後でわたしはこんな素敵な経験をしていて、今はこんなにも穏やかな気持ちになっている。
かみさまは不公平だとずっと思っているけれど、まぁいいや。最期にこんな幸せな時間をくれたのだから――。本当は最期にもう一度だけ家族に会いたかったけど、さすがにそれは無理だと知っている。
不意に声が聞こえて我に返る。
「どうだい繭ちゃん――これが本物の星空だよ」
「うん……すっごく素敵……一瞬、息が止まるかと思っちゃった」
おにいちゃんは、いつだって優しい。本当のお兄ちゃんもとっても優しかったけれど、士郎おにいちゃんの優しさは特別だ。
すると突然、夜空に何かが光ったような気がした。
「あ! 始まったぞ――見てごらん」
「――わぁ……!」
流星群だった。
探すまでもなく、見上げた繭の瞳には、今や幾筋もの光が次から次へと降り注ぐ様子が映し出されていた。無数の光の海の中を、視界に入る端から端まで、一瞬にして通り過ぎる光芒。それは最初、数秒に一回のペースだったが、ほどなくして同時に何本もの筋が折り重なるように次々に流れるようになった。あっちでも、こっちでも。
今や中天から放射状に、幾筋もの流星がとめどなく降り注ぎ、そしてそれは、先ほどからずっと途絶えることなく続いている。音もなく、次々と、不規則に、刹那に。
「すごい……本当に、星のシャワーだよ……」
いつの間にか、左肩に置かれた士郎の手には繭の小さな掌が重ねられていた。彼女の指はひんやりとしていて、士郎は思わずその上にもう一方の手を重ねる。すると、手の甲に繭の柔らかな頬が触れた。気が付けば彼女は小首を傾げ、士郎の手の甲に頬ずりしていた。そのまま、愛おしそうに擦りつけてくる。
「――ありがとう」
万感の想いがこもった一言だった。
その時――
ズゥゥゥゥーーーン……
腹に響く重低音が辺りに響き渡ったかと思うと、ビリビリと屋上の床が細かく振動した。
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