第90話 夢の中の本物
量子――。
それは、物理法則が一切当てはまらない、不思議な存在。
先ほどから押し黙ってじっと叶の説明を聞いていた四ノ宮東子少佐が口を開いた。
「
な! 二股騒動とは!?
いくら何でもそんな言い方はないんじゃないですかね少佐っ!?
叶は、そんな士郎の思いなど一切興味ないという雰囲気で四ノ宮を見つめ返す。
「さっすが東子ちゃん! 理解が早くて助かるよ」
「えっと……その〈量子〉と私たちの体験が、どういう風に繋がるんですか?」
くるみが少しだけ頬を赤らめながら先を促した。久遠も、ふんふんっと大きく頷く。二人にとっては、虚言疑惑を払拭する大事な話だ。当然士郎自身にとっても、自らの誠実さが問われている。
「くるみちゃん、久遠ちゃん。〈量子〉について本格的に話し出すとキリがないから、端的に言おう」
二人がゴクリと唾を飲み込んだ。叶が、あらためて説明モードに入る。
「〈量子〉には一般的な物理法則が当てはまらない。象徴的なのが、〈量子〉とはそもそも『粒』なのか『波』なのかという問題だ。物理の世界では、その物体が『粒』ならば『粒』特有の動きを見せるし、『波』ならば『波』特有の動きを見せる。
野球のボールは、投げれば放物線を描いて飛んでいくだろう? 銃の弾丸なら、一定距離まではまっすぐ飛んでいく。これは『粒』の動きだ。いっぽう海の水はどうだい? これは『波』だから、ある方向に力を加えても、まっすぐそちらに進むんじゃなくて、うねるように押し寄せる。
進行方向の途中に杭のような障害物があれば、『粒』なら跳ね返されるし、『波』ならその障害物を巻き込むようにしながら避けて通るだろう。
〈量子〉の場合はどうだろうか。ある実験によると、〈量子〉はどうやら『波』のような動きを見せることが分かった。波、すなわち『波長』は、上向きの波と下向きの波が重なり合うと、お互いに干渉して打ち消すような動きをすることは承知しているね? その実験では、〈量子〉が最初そうした『波』特有の動きをしたことが分かったから、これは『波』だという暫定的な結論が出た。
そこで実験者は、今度は動きの途中経過が知りたいということで、〈量子〉の動きをカメラで撮影することにしたんだ。すると、どういうことか今度は『粒』特有の動きをした、という観測結果が得られたんだ。つまり――?」
「つ、つまり??」
「〈量子〉は『波』でもあり『粒』でもある」
「と……いうことは……?」
「ある時には『粒』特有の動きを見せ、またある時には『波』特有の動きを見せる――つまり、挙動が予測できない」
「で、でも――なんでカメラ撮影した途端、それまで『波』だったはずの〈量子〉が『粒』になったんですか?」
久遠がもっともな疑問を口にする。
「いい質問だね。――実は〈量子〉は、自分が見られているということを感じ取り、その瞬間『粒』化したんだ」
「えぇっ!? ……まさか……〈量子〉は意思を持っているの?」
くるみが思わず声を上げる。
「そうではない。ただ、『撮影する――すなわち見る』という行為は対象に『触れる』という行為なんだ。ただし、それは手でモノに触れるようなイメージじゃない。たとえば人間がモノを見る時には、そこに『光』が当たっていないと見えないよね……〈
だから、カメラで撮影するという行為を行った時も同じ。撮影した瞬間、対象の量子は自分が見られた……つまり触られていることが分かるんだ」
「……だから慌てて『波』ではなく『粒』になってみせた――」
「その通り。〈量子〉というのは、観測しないでいるうちは『波』でもあり『粒』でもあるという二つの状態がそのまま重なり合って存在していたのに、それが見られた――観測された瞬間に、自分は『粒』だよー、と一方のかたちに納まろうとするんだ」
「……存在のありようがひとつじゃないんだ……」
士郎は思わず呟いた。学生時代、一通り習ったとはいえ、あらためてこうやって聞くと〈量子〉というのはまったく不可思議な存在だ。
「じゃ、じゃあよく『視線を感じる』というのは、もしかして〈量子〉の働きだったりするんですか?」
「そうかもしれないね。何とも言えない気配を感じてそちらを向くと、じっと自分を見つめてくる人がいた、という経験は誰もがあるもんね」
久遠が「自意識過剰じゃなかったんだー」と小声を漏らす。彼女たちにかかったら、量子論もこんなもんである。
「もうひとつ、極めて特徴的な量子の習性を説明しよう。その量子を、ものすごく強い力で二つに引き裂いたとする。同じものが、AとBの二つに分かれたんだ。そのうえで量子Aだけをカメラ撮影するとどうなる?」
「さっきと同じで、『粒』になる……」
「正解だ。その時量子Bはどうなっていると思う?」
「……撮影しているわけじゃないから、Bは『波』のまま――」
「ところが違うんだ。この場合、量子Bも『粒』になる」
「えーっ!? なんで??」
「理屈は分からないが、量子Aに生じた変化をBも敏感に感じ取って、Aと同じかたちに変化してしまうんだ」
「――Bにはなにもしてないのに?」
「そうなんだ。AとBはもともと同じものが二つに分かれただけだから、Aの変化はまったく同時に、寸刻のズレもなくBに伝播する。AとBがどんなに物理的に距離が離れていてもだ」
「AとBは
士郎は思わず呟く。あの時、士郎と未来も何らかの理屈で感情や五感が
「これは、いわゆる量子テレポーテーションの原理だ。今はまだ理論が確立されていないが、近い将来必ず装置として実現すると確信している」
「こ、根拠はあるんですか!?」
気圧されるようにくるみが問いかける。
「ある! 君たちオメガの変異特性に、量子的性質がたびたび見つかるからだ。だからこそ今回の件の真実を解明することは、オメガそのものの謎を解く鍵になると同時に、人類の科学的知見を大幅に向上させるきっかけになるはずなんだ」
今や叶は、完全に科学者の眼をしていた。真理を探究する求道者だ。
「ご想像の通り、未来ちゃんが石動君と意識を共有した――というのは、この量子テレポーテーションの原理が働いていると思う。具体的な仕組みはまだ分からないがね……少なくとも二人の間にはそれを実現するための何らかの共通触媒があるはずなんだ。
そして久遠ちゃんやくるみちゃんが見たという石動君。本人は寝ていて意識がなかったはずなのに、二人の前には実体化して存在していたという。しかも時系列では同じ時間帯に、別々の場所で――」
「あ……! 二つの状態が、重なり合って存在する……」
くるみが、眉間にしわを寄せながら小さく独り言を呟いた。それはまるで、何か小さな手掛かりを掴みそうで掴めなさそうな、そんな不安定な雰囲気だった。
そんなくるみを少しだけ気にしつつ、叶が続ける。
「石動君、君は彼女たちに観測されたことで一時的に実体化したんじゃないか、と私は踏んでるんだ」
そんな馬鹿な、とはもう言えない雰囲気がそこにはあった。
「もちろん、きっかけは彼女たちの精神が引き起こした
その結果、そこで何らかの精神共鳴を引き起こし、ただの妄想を実際に観測したと彼女たちの脳が誤って認識してしまったことで、そこに実体として現れた……事実、」
叶が一旦言葉を切った。オメガの二人に視線をやり、それからゆっくりと士郎に視線を戻す。
「さきほどメディカルポッドでアウトプットした二人の精密ログ解析を、石動君の脳波記録と重ね合わせてみたところ、君の夢の中の行動と、彼女たちが覚醒時に石動君と交流していた行動ログがピッタリと一致したんだ。
つまり石動君。君の夢は夢であって現実だったんだ。君の夢に出てきた彼女たちは本物だ」
「で、でもじゃあなぜ小官のDNAが彼女たちの体内に――」
「この場合じゃあ、じゃなくてだから、だろう」
四ノ宮が割って入る。
「実体化していたのであれば、実際に石動のDNAが彼女たちの体内にあったという理屈は筋が通る」
「そのとおりだよ東子ちゃん。石動君のDNAが検出されたという事実こそが、この事件の『量子因果説』を裏付ける最高の
じゃ、じゃあ俺は……!?
自分の身体のあちこちにあった久遠の残り香も……本物……
「と……いうことはですね……小官は実際のところ、あの……」
「ああ、その通りだ――貴様が夢の中でいやらしいことを想像したせいで、実際にそうなったということだ! そうだな元尚!?」
四ノ宮少佐がなぜか勝ち誇ったように士郎を見下ろした。
やっ、やめてくださいよその目つきっ!
「あぁ……
当の本人の肉体には一切その記憶がないのに――!?
夢の中での妄想が実は現実だったなんて……
そんな理不尽なことがあっていいのだろうか!
「じゃ、じゃあ叶少佐、私たちの言っていること、二人とも嘘じゃないってこと……?」
久遠とくるみが、叶の顔をじっと見つめる。
気が付いたら、二人とも両手をぎゅっと握り締めていた。
「そうだね……少なくとも嘘じゃあないだろう」
「「やったぁぁぁ!!」」
まぁ……そういうリアクションになるわな……
「ただし! 二人が一緒にいた石動君は、それぞれ違う石動君だったと思うよ」
「え? どういう意味……?」
「それぞれが観測した石動君は、それぞれの理想の石動君だった――ということだ。妄想が実体化した以上、久遠ちゃんと一緒にいた石動君は、久遠ちゃんが妄想したとおりの石動君であって、くるみちゃんの場合もまた然り。ま、ある意味理想の王子様をそれぞれが召喚した、といえばいいのかな」
被観測者は、観測者の思い通りの姿となって実体化する、ということか!?
それ、もはや自分じゃないじゃん! と士郎は強く思うのだが……
「いずれにせよ、こうしたことは
「なるほど――よく分かった。オメガの異能も、量子が関わっている可能性が高いんだな」
四ノ宮が叶に念押しをする。
「その通りだ。特に、何らかの触媒を体内に保有していると思われる石動君との交流は、いろいろな意味で更なる興味深い結果をもたらしていくだろう」
無言でお互いを見つめ合う四人。
四ノ宮がすっくと立ちあがり、あらためて全員を見回しながら口を開いた。
「よし。それでは引き続き、石動少尉は各オメガたちとの親交を深めてくれ――以上だ」
顔を真っ赤にしてこくこくと頷く久遠とくるみ。
ニヤリと悪魔のような笑みを浮かべる叶。
そして、両眼を大きく開けて唖然とする士郎の姿がそこにあった。
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