第91話 かざりの憂鬱

 最悪の気分だった。


 基地にいる時のいつもの日課。広瀬まゆを見舞った帰り道。

 月見里やまなしかざりは、駐屯地のメインストリート沿いの何か所かに控えめに設置してある、古びた白いベンチのひとつに座り込んでいた。

 もうすぐ夕焼けの時刻。空がうっすらとオレンジ色に染まりかけていた。


 彼女――幼くしてオメガの副作用に苦しむ少女――が入院している閉鎖病棟は、陸軍研究所の裏手にある。いつもの文なら、病棟から研究所のエントランスを抜け、このメインストリートに出てオメガ専用隊舎に戻るのだが、今日はなんだか真っ直ぐ帰りたくない気分だった。


 約束通り、石動いするぎ士郎少尉は昨日に引き続きお昼過ぎからお見舞いに付き合ってくれて、今日もつい先ほどまで繭ちゃんと一緒に散歩したりおしゃべりしたりしてくれた。

 「毎日来るよ」という彼の帰り際の言葉。彼女は本当に嬉しそうだったな……と文は思い返す。

 少尉にも妹がいたと聞いているから、繭ちゃんは妹さんと重なり合う部分もあるのかな、とぼんやり考えてみたりする。ともあれ、どんな理由であっても文にとっては少尉の優しさが身に染みる。


 つい先ほど「ちょっと売店PXに寄ってくるから」という少尉と一旦別れたところだ。独りになると、急に恐ろしさが蘇ってくる。

 繭ちゃんを少尉に任せ、主治医に会いに行った時に聞かされた残酷な真実――。


『――彼女はもう持たないだろう。形象崩壊が激しいんだ。もって一ヶ月――』


 そんなバカな――!?


 繭ちゃんとは、彼女が生まれた頃からの付き合いだ。むしろ家族同然、妹といってもいい。

 ほんの数年前まで、文にとってはあの隠れ里が世界のすべてだった。そこが本来〈立入禁止区域〉なのだということは、いろんな大人たちから聞いて知っていた。世の中の普通の人たちから見て、自分たちは異端であり、違反であり、欺瞞であり、棄民である――

 だが、文にとってそんなことは本当にどうでもいいことだった。

 里のみんなはおしなべていい人たちだったし、何よりママと一緒だった。広瀬繭の家族も、パパさんは少し厳しいけれど、ママさんは優しくて、文より少し年上の彼女のお兄ちゃんはぶっきらぼうだけど妹思いで……。

 だから、ある日突然軍の人たちがやってきて、自分や繭ちゃんを保護すると言われた時は、正直余計なお世話だと思ったものだ。ここ以外に自分たちが生きていくところなんてないと思っていたのだ。

 でも、繭ちゃんは当時から身体を悪くしていたし、君が彼女に付き添っていいとさえ言われた。彼女の家族からも、繭をよろしくと託された。だから文は里を出ることを渋々承知したのだ。

 繭ちゃんは私が守る――そんな決意を胸に秘めて……。


 けれど結局あれ以来、繭ちゃんが病院の外に出ることは叶わなかった。それどころか、保護されてからのほうがむしろ体調を崩したんじゃないかと思うくらい、急激に健康を害していった。

 医師せんせいに言わせると、それは里を離れたことが原因なのではなく、彼女の身体は遅かれ早かれこうなっていたんだそうだ。むしろ悪化した時に、きちんと軍病院で手当てできてよかった、ということらしい。

 確かに軍は繭ちゃんを全力で治療してくれたし、彼女へのいたわりと同情は、決して嘘ではないと分かるのだけれど。だが、結果として彼女の状態はどんどん悪化し、ついに今日、「手の施しようがない」と匙を投げられてしまったのだ。


 こんな理不尽なことってある?


 何より彼女は、あの年頃の女の子が本来あたりまえに享受すべき幸せを、何一つ受け取っていないではないか。友達と楽しく遊ぶこと。可愛いお洋服を着ておしゃれすること。何より、パパやママに目一杯甘えんぼしたり、ワガママ言うこと……。


 それに――

 少尉になんて説明したらいい!?

 妹さんは、今の繭ちゃんと同じ年齢で亡くなったそうだ。だから実の妹のように彼女をかわいがってくれる少尉に、またもや悲しいお知らせをしなくちゃいけないなんて……そんなの絶対に嫌だ。

 文にとって、いまや石動少尉は自分に最も身近な「男の人」だ。優しくって、頼りがいがあって、時々ふと淋しそうな顔を見せる彼の仕草は、いつだってふいに文の心をざわつかせるのだ。できることなら自分があの人を守ってあげたいと密かに思ったりもしてみるが、大人っぽい久遠くおんちゃんや、セクシーなくるみちゃんが傍にいるとどうしても気後れしてしまう。そんな時は、いつも通り子供っぽくはしゃいでみせて、自分は何でもないんだよーなんて態度を取ってしまうのが最近我ながら悔しくて泣けてくる。

 だから繭ちゃんのお見舞いにかこつけて、少尉が毎日数時間でも自分と一緒に過ごしてくれる時間は結構役得というか、思いがけない幸運だったのだ。だけど今度はそのこと自体が、少尉を再び傷つけるきっかけになってしまうかもしれないと考えると、今さらながら自分の浅はかさに胸が締め付けられる。

繭ちゃんをにした報いだ。ブーメランは必ず返ってくるのだ。


 文は、膝の上に置いた自分の手を、じっと見つめるしかない。知らないうちに、目頭が熱くなっていた。


「よっ! 元気ッ子! どうしたんだいそんなところでたそがれて!?」


 気が付くと、目の前に誰かが立っていた。

 いつの間にか朱色を増した空が逆光になって、こちらを見下ろすその顔がよく判らない。

 じっ――と見上げてしばらくすると、ようやくそれがお調子者の伍長だと気付く。


「なんだ……かがみんか……」

「な! ちょ!? なんだはないだろうなんだは――」


 各務原かがみはら伍長が一瞬言葉に詰まって文の隣に腰掛けようとする。


「やだ――近づかないで」

「え、えぇーー」


 しょうがなく、伍長は座りかけの中腰からあらためて背筋を伸ばし、文の斜め前に立つことにする。


「いったいどうしたんだよ、辛気臭い顔して……」

「うるさいなぁ……ほっといて」


 文は、まるで同級生の友達に接するように各務原を無碍にする。そんな文に遠慮しないのもまた各務原の人格だ。

 陸軍二等兵曹、すなわち「下士官」である文は、伍長にしか過ぎない各務原より本来階級が遥かに上なのだ。確かに文の見た目はただの女子高生だし、実年齢だって彼女のほうが下なのだが、階級がすべての軍社会。普通の関係だったらこんな遣り取りはあり得ない。それでもなおこういうフランクな会話が成立している時点で、二人の関係はそこそこ親密なのである。こう見えてもお互い死地を幾度も乗り越え、背中を守り合った仲だ。


「……ほっといてと女の子に言われてほっとくほど俺は冷たい人間じゃないぜ」


 各務原は、ちょっといいこと言ったかも? とアピールしたげな顔をする。


「はぁぁぁ……あのね、かがみん……今はそんな気分じゃないの」


 文が明らかに不機嫌そうな溜息をつく。


「んなこと言ったって、明らかに泣いてたって分かるんですけど……」

「泣いてない!」

「泣いてた」

「泣いてないっ!!」

「なーいーてーた!」

「もうっ!」


 頭に来て、文は左脚を前にぼんっと突き出すが、見透かしていた各務原がひょいっとそれをける。


「あっ! くそっ! くそっ!!」


 各務原の脛を蹴り上げるつもりだった文は、予想外に躱されて意地になり、何度も何度も蹴り上げる。そのたびに各務原はひょいっひょいっと体勢を変え、文のキックは宙を舞う。


「あはっ! あははははっ!」


 各務原の身のこなしがツボだったのか、突然文が笑い始めた。


「はははっ! ようやく笑ったなっ!」

「もうっ! ばーかばーか!」


 そう言いながら、文の笑いは止まらない。

 いつの間にか、彼女に笑顔が戻ってきていた。


「――はぁはぁ……ようやくなったじゃん」

「……うん……ありがと……」


 少しだけ落ち着いた文が、各務原に小声で答える。

 一瞬の沈黙。


「……いったい、何があった!? 遠慮せずに言ってみな?」

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