第89話 特別講義

「さて、ここで簡単な物理学の復習だ。久遠くおんちゃん、物体を形作っている一番大元の物質は何だい?」

「え……と、原子? 元素? あれ……?」


 抜き打ちで質問された久遠が、目を白黒させている。そういえば彼女たちって、学校はどうしてたんだろう。士郎は、オメガたちがセーラー服やブレザーなど女子高生の制服を着た姿をこっそりと想像してしまう。


「答えは――どちらも不正解だ。正しくは〈素粒子〉だよ」

「「素粒子?」」


 くるみと久遠が声を揃えて反応する。


「ちなみに〈原子〉というのは物質そのもの、〈元素〉というのは物質のいわば性質を表す言葉だね」

「元素周期表というのは学校の授業で習ったことがあります」


 叶の説明に、すかさずくるみが答える。さすが委員長キャラ。やっぱり学校には通ってたのか。しかし、通学しているのを見たことがないな……


「えらい! 水素ヘリウムHeリチウムLiベリリウムBe……これらはひとつひとつ、化学的な性質が違うんだ。性質が違うものを分かりやすく一覧表にしたものを元素周期表という。そして、そこに記されたひとつひとつの物質のことを〈原子〉というのだよ――分かるかい?」

「んーー、なんとなく……」


 久遠が自信なさそうに答える。キチンと腹に落ちないと次に進めないタイプの子だ。


「最初でつまずくと次に進めないから、もう少しだけ補足しよう……そうだな、は、乗り物の呼び方でたとえると分かりやすい――

 たとえば、この駐屯地にはたくさん乗り物があるね。いつも駐屯地の入口に停まっている乗り物はなんだい?」

「八六式機動戦闘車です!」

「そうだね、あの車は、万が一基地に不審者が強行突入してきた時に、それを阻止するためにあそこに停まっている――」

「いつも実弾装填してるもんね」

「さて、あの八六式、軍用車両のカテゴリーで言うと何に当たる?」

「……それはモチロン〈装甲車〉です」

「よろしい。では格納庫に駐機してある航空機はなんて名前だい?」

「飛竜です! 正式には強襲降下艇二一型」

「飛竜は軍用機の種類でいうと?」

「〈電磁推進垂直離着陸機〉です」

「つまりそういうことだよ。〈原子〉とは、八六式機動戦闘車とか、強襲降下艇二一型とかいう乗り物の、〈元素〉とは、装甲車とか垂直離着陸機とか、それら乗り物の……だと理解すればいい」

「「――なるほど!!」」


 二人がようやく納得する。


「さて、話を元に戻そう。物質の最小単位の話だ。さっき久遠ちゃんはそれを〈原子〉あるいは〈元素〉ではないか、と言ったね――これは『化学』という学問分野では実は正解なんだ」

「え? そうなんですか?」

「ああ、化学の世界では、物質を〈原子〉の単位まで小さくすればそれでことが足りる。それ以上小さく分割しても化学的には何の意味もないから、化学分野では便宜上これを最小単位として扱って問題ない」

「な、なるほど……」

「ただし『物理学』の世界ではそれだと少々困るんだ……性質や働きがそれぞれ異なっているからね――そして世界の真理としては、やはり物質の最小単位は〈素粒子〉と答えるのが正解だ」


 士郎も、ここまではよく理解しているつもりだ。これでも学生時代の成績は優秀で、国内最難関とされている陸軍士官学校卒なのだ。叶の説明が続く。


「では〈原子〉からさらに物質を分解してみよう。実はこの原子、砂粒のような一個のものだと思ったら大間違いで――実際には〈原子核〉というのが中心にあって、その周りを〈電子〉というごく小さな物質が飛び回っているという構造だ。ちなみに電子はこれ以上分解できない。だからここでまずひとつ、物質の最小単位が出てきたね」

「〈電子〉は物質の最小単位……」


 久遠が自分を納得させるように復唱する。


「だがこれで安心しちゃいけない……〈原子核〉の方はさらに小さく分解できるんだ。この部分は〈陽子〉と〈中性子〉で出来ている」

「じゃあ〈陽子〉と〈中性子〉も物質の最小単位――」

「じゃないんだ。これらはさらにさらに分解できる。〈クォーク〉と呼ばれる物質、さらに、それらと同等のさまざまな性質を持った粒子たちだ」

「……さまざまな性質?」


 くるみが、もっと分かりやすく説明して欲しいという顔をする。


「そう、これら物質の最小単位たちには、それぞれ専門の働き――すなわち性質があるんだ。さきほど言った〈クォーク〉、そして〈レプトン〉と呼ばれる粒子は、物質そのものを形成する……つまり、材料となる性質を持っていて、まとめて『フェルミ粒子』と呼ばれている。

 他に『力』を伝える性質を持つ『ゲージ粒子』、そして物質に質量――すなわち重さを与える性質を持つ『ヒッグス粒子』など……。

 ちなみに『力』を伝えるゲージ粒子の中には〈光子フォトン〉というのも存在していて、これは『光』そのもののことだ。光子フォトンが存在しなければ、世の中は真っ暗闇だっただろう」

「……ということはつまり……物質の最小単位には〈電子〉〈光子〉そして〈フェルミ粒子〉〈ゲージ粒子〉〈ヒッグス粒子〉などいろんな種類があって、それを総称して〈素粒子〉と呼ぶわけですね!?」

「……まぁ、今の時点ではその程度の理解で構わない。他に〈ニュートリノ〉とか、まだ実際に発見されたわけではないが、物質に『重力』を与える〈グラビトン〉という素粒子も存在するとされている。いずれにせよ、これらが間違いなく物質の最小単位――〈素粒子〉だ」


 くるみと久遠がうんうんっと頷いてみせる。十分理解した、という顔だ。


「そしてここが一番重要なのだが、これら物質の大元である〈素粒子〉の状態のことを表す単位として使われているのが〈量子〉という概念だ」


 二人の動きが止まる。量子……!?

 そう……ここからが本題だ、と士郎は身構える。


「え? その〈量子〉も素粒子じゃないんですか?? ……名前の雰囲気も似通ってるし……」

「……少し難しいけど……厳密に言うと違うんだ。〈素粒子〉は物質そのもの、〈量子〉はその物質のエネルギーの状態を指す言葉だ」

「……なんだか、だんだんわけが分からなくなってきました」


 久遠が頭を捻り始めた。くるみも怪しい感じだ。


「まぁいいさ。難しかったら〈素粒子〉と〈量子〉はほぼ同じもので、言い方が違うだけくらいに思っていればいい。大事なのはそこじゃないから」

「言葉の定義はともかく、物質の最小単位は〈素粒子〉もしくは〈量子〉と呼ばれるものだ、と理解しておけばいいんですね」


 士郎が思わず助け舟を出す。これは、自分自身の理解を助けるという意味でもある。


「そうだね。――さて、念のため、ここから先は〈量子〉という言葉を使っていこう――

 この〈量子〉だが、物質の最小単位だけあって非常に小さなものなんだ。肉眼ではとうてい見ることができない。それに対し、目に見える物質というのはどういうものがある? 自分の身の回りを見てごらん!?」


 そう言われて、二人は部屋をキョロキョロと見回し始めた。


「えっと……そうですね……机とか椅子とか……人間とか!」

「そうだね。今度はさっきと逆に〈原子〉を段々大きくしていこう。水素原子二つと酸素原子一つを合体させると何ができる?」

「水です! H2O!」

「そのとおり! 水素水素酸素=H2O。これを〈水分子〉と言う。つまり、原子が結合したものを〈分子〉と言うんだ」


 ふんふんっと二人が頷く。この辺は中学校でやるレベルだ。


「水は人間の眼でも十分見ることができるね……他にはさっきくるみちゃんが言った机とか椅子とか……人間とか!」

「人間も、原子で出来てるんだ!?」

「そのとおり! そして、その原子を構成する最小単位は〈量子〉だから、正確にいうととも言える。ところでこれくらい大きな物体だと、時間とともにどのように変化していくか、ほぼ完璧に予測可能なんだ――たとえばここにあるコーヒーカップ」


 叶は、皆が腰掛けているソファーのテーブルに置いてあった飲みかけのコーヒーカップにすっと人差し指を添えた。


「――こうやって押していって……テーブルの縁まで押しやると――」

「わっ! 落としちゃいますよっ……」

「なぜ分かる?」


 すかさず叶が問いただす。思わず声を上げた久遠が戸惑いながら答えた。


「だ、だって……テーブルがなくなったら普通に床に落ちちゃうじゃないですか!?」

「それ! 物体は、上から下へ落ちる。これはニュートン力学という物理法則による当然の動きだ」

「りんごのやつですね!」


 くるみが嬉しそうに補足する。


「その通り。じゃあこれを君に向かって投げると?」


 叶はそう言うと、テーブルに置いてあったチョコレートをひとつつまみ上げ、くるみに投げるしぐさをする。


「わ、私のところに飛んできます」

「そうだね。これもニュートン力学。すべての物体は、物理法則によって未来の動きを計算できるんだ。別の言い方をすれば、すべての物体は動く。だから、モノを落としたり投げたり……サイコロを振ってどの目が出るのかさえ、手元を離れた瞬間にその未来位置は決まっているんだ――その瞬間に、どの部分にどれくらいの力がどういう角度で加わったのかさえ分かればね」


 叶は、自分の言葉が少女たちの大脳に浸透するのを待つ。


「ところが、我々の目に見えない小さな小さな〈量子〉というのは、そんな物理法則が一切当てはまらない、不思議な存在なんだよ」

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