第62話 半宵の暴動
ズゥーーーン……
その鈍く低く響く音でサイードが目を覚ました時、時計は深夜0時を回っていた。
ハターミー家族が暮らす薄汚れた小さなアパルトマンの天井から、パラパラと埃が零れ落ちる。
何事だ――
サイードは、つい先ほど横になったばかりのベッドから飛び起き、薄暗い部屋から窓の外を覗く。遠くの空がオレンジ色に染まっていた。
「兄さんッ!」
バンっ、と部屋の扉が開いて、サルマが飛び込んできた。
「――サルマ! マジッドと父さんを起こしてこい」
「分かった――」
サルマが脱兎のごとく奥に消える。
只事じゃない雰囲気が街の方から漂ってくる。
やがてどこかからタタタタ……という音が聞こえてきた。さらにはガラスの割れる音。誰かの悲鳴のような叫び声。それは最初のうち遠雷のように、やがてだんだんとハッキリした音となって家の近くに迫ってくる。
サルマが二人を連れて部屋に戻ってきた。
「父さん、マジッド! すぐに着替えて! ここから逃げた方がよさそうだ!」
「……いったい何が――」
「話は後だ! サルマッ!」
「分かった! さ、父さん……」
サイードは、状況が呑み込めない、という様子のマジッドの質問を遮ると、サルマに二人を手伝うよう促した。
その間にも、外はどんどん騒がしくなっていた。
すぐ目の前の通りから、パンッパンッ、という大きな音が聞こえたと同時に、キャアッという悲鳴が空気を切り裂く。再び遠くの方から、ズゥーーーンという重々しい音が聞こえてくる。
爆発音だった。
方々から甲高く響く爆竹のような音は、――間違いなく銃撃音だ。
暴動だ――
パリの街が、暴動に見舞われていた。
「兄さん! 準備できたよッ」
サルマが再び扉から顔を覗かせる。
両脚がまったく動かないマジッドを背中におぶり、父さんの手を引いている。サイードは、財布と携帯だけを持ってマジッドを受け取り、背中に背負いなおす。
その時、ゴツン、と固いものがサイードの胸にぶつかった。
「マジッド! 何を持ってるんだ!? 荷物は最低限だ」
「これは駄目だよ! ヨースケから貰ったPCだ」
ビジネスバッグに入れてマジッドが大事に持っていたのは、ヨースケからの友情の証だった。それを見てサイードは立ち止まる。
「サルマちょっと待って! ヨースケに電話してみる!」
そう言うとスマートフォンを耳に当てる。
「――駄目だ――電話が繋がらない」
「兄さん急いで!」
アパルトマンの一階から、大きな怒鳴り声が聞こえてきた。建物の入り口の方から、扉を叩き割る音と、複数の人間がなだれ込む大きな靴音が鳴り響いた。誰かの悲鳴と怒号が交錯する。
「――クソっ! 非常階段だ」
一家の部屋は建物の三階だった。普段の出入口とは反対方向に走り、廊下の端にある古い鉄製の非常扉を蹴破る。外に出ると、狭い裏通りにまだ人影は見当たらなかった。
「ここからなら逃げられる! サルマッ、父さんを頼む!」
「分かってる!」
そういうとサルマは後ろ向きになって自分が先に立ち、父さんの両手を取ってゆっくりと後ろ向きに非常階段を降り始めた。父は足腰がおぼつかない。長年の重労働で苦労を重ねてきたからだ。
表の方、つまり彼らが今いる建物裏の反対側の方で瓶が割れる音がしたかと思うと、ボウッ、という音が拡がり、見上げた空が赤く染まる。まさか……火炎瓶か!?
また誰かが大声で何かを叫んでいるようだった。気が付いたら、四方八方から喧騒が襲い掛かってきていた。
いったいどうなってるんだ!?
サイードはマジッドを改めてしっかりと背負い、父さんの後を追うように非常階段を降りる。
すると突然――
「いたぞーッ! こっちにもネズミが出てきてる!」
声の方を振り向くと、若い白人がこっちを指さして怒鳴っていた。
くそッ……見つかったかッ!?
見る間に数人の男が集まってきた。手に手に鉄パイプやら金属バットを持っている。
ちょうど同じタイミングで、サルマと父さんが非常階段から道路に降りたところだった。
このままじゃ鉢合わせになる!
サイードは、背負ったマジッドに声を掛けた。
「マジッド! 少し怖い思いさせるぞ」
そう言うが早いか、サイードは非常階段の上から男たちを挑発した。
「おいッ! そこのクズ野郎ども! こっちだ!」
そう怒鳴ると、非常階段を上へ昇り始めた。
それを見た男たちが血相を変えて階段に飛びつく。その間に、サルマと父さんはどさくさに紛れて路地裏に潜んだようだった。これでいい。
***
サルマは、ちょうど道路に降りたと同時に暴徒が裏通りになだれ込んでくるのを見て硬直した。
マズい……!
だが、サイード兄さんがあろうことか非常階段の二階の踊り場から暴徒たちを挑発しているのが目に入った。――きっと私たちを逃がそうとして、わざと注意を引き付けているんだ……!
案の定暴徒たちは、兄さんを目掛けて非常階段の鉄柱をよじ登ろうとしていた。サルマたちが降り立った階段出口が彼らと反対側の方に向いていたから、こちらまで回り込むのを嫌ってサルのようによじ登ろうとしているんだ。馬鹿な奴らだ。
だが、お陰で自分と父さんは上手く路地裏に身をひそめることができた。
無事でいて――!
サルマは心の中で叫ぶ。幸いここは暗がりで、壊れかけた自転車や廃棄された洗濯機、何かの大きな段ボール箱など、住民の廃材があちこちに立てかけてある。しばらく隠れていたら、暴徒たちをやり過ごすことができるかもしれない。父さんとともに地面にしゃがみ込み、嵐が過ぎ去るのをひたすら待つしかない。
すると、ガチャリ、とガラスが踏みしだかれる音が聞こえた。
心臓がドクンっ、と跳ねる。
恐る恐る音のした方に視線をやる。
「こんなところにもネズミが隠れてやがった……」
目の前に、赤ら顔をして大きな腹をした男が立っていた。
「ひッ……!」
サルマは引きつったような悲鳴を上げると、慌てて父さんを引っ張る。転がるように路地を後戻りすると裏通りに飛び出した。
そこにいたのは、数人の暴徒。
手に手に棒切れやバールのようなものを持って、周囲をキョロキョロと見まわしてる。
すぐにサルマたちを見つけ、下卑た表情で間合いを詰めてきた。囲まれた――!?
もう駄目だ……
この連中はきっと移民狩りだ。相手が女や年寄りでも、何の躊躇いもなく酷い暴力を振るってくる奴らだ。サルマは無意識に父さんを背中に庇い、クズどもの前に立つ。
アラブの女を舐めるなよ……!
お前らのような最低野郎どもには絶対に屈服するものか……!
サルマは恐怖を押し殺し、堂々と立ち塞がった。
暴徒が二人ほどサルマの目の前に進み出た。キッと睨み返すサルマを、まるで品定めするようにねめつける。そして、ニヤリと笑って手に持ったバールを振りかざした。
サルマは固く目を瞑る。
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