第61話 自尊心
サルマは幸せだった。
ある日突然、兄さんが怪我をして帰ってきた時は、心臓が止まりそうになるほど驚いたし、とても怖かったことを覚えている。
どうも最近、よからぬ人たちと付き合い始めていたことは知っていたが、サルマはそれを兄さんに問いただすことがどうしてもできなかった。
弟のマジッドが暴漢に襲われて半身不随になってから、サルマはすべての夢を諦め、ただ生きていくために低賃金の期間工として働いていた。
母の死後、父はすっかり憔悴して無口になってしまった。
マジッドはとても利発で優しい子だったのに、今は一日ベッドの上で黙ったままだ。そしてサイード兄さんは最近あまり家に寄り付かない。
かつて母がいて、貧しいながらも家族五人が仲良く暮らしていた生活は、すっかり過去のものとなってしまった。
そんな時に無情にも言い渡された工場の解雇通告。
もともと期間工だから、いつ解雇されてもおかしくはなかったのだが、いくらなんでも酷すぎる。
また移民差別だ。
何の予告もなく、突然クビになって今日までの賃金を渡されてお終いだ。それも雀の涙。明日からどうやって暮らせばいいのだ。
サルマは帰宅すると、途方に暮れてキッチンで声を押し殺して泣いていた。
そんな最悪のタイミングで突然現れたのがヨースケ・イスルギだ。
いきなりアパルトマンの前に
ヨースケは覚束ない英語で「応急手当をしてあるのでこの後知り合いの医者に連れていく」とサルマに説明してくれた。
サイード兄さんは「心配するな」と一言付け足した。
最初サルマは、ヨースケが悪い連中の仲間だと思っていた。兄さんを連れ回した挙句、ついにこんな大怪我をさせたのかと憤ったが、どうも様子がおかしい。
第一にヨースケは日本人だと名乗った。
兄さんに日本人の知り合いがいるなんて知らなかった。
日本と言えばサルマにとっては夢の国だ。科学技術が発達していて、とても親切な人々がいる国。子供の頃、近所に日本人の女の子がいて、少しの間だけ一緒に遊んだことがある。彼女もとっても思いやりのある子だったから、大好きだった。
だからヨースケが「君も一緒に来てくれ」と言った時、サルマは自分が解雇されたことも忘れて大慌てで兄さんの身の回りの物を持って車に飛び乗ったのである。
何の根拠もなく、ただ「日本人だから」という理由で警戒心が薄れたのだろうか。
マジッドが一人で留守番することになるから、それだけが気がかりだったが、今はのんびりしている暇はない。
ヨースケはその後車をすっ飛ばし、郊外の農家みたいな一軒家に兄さんを連れ込んだ。
サルマが詳しい事情を聞いたのは、その闇医者ハウスのリビングである。
ヨースケのテレビ局は、サルマも時々耳にしたことがあるくらい有名なところだった。
そこで彼の現地スタッフとして兄妹で働いてほしい、という話にサルマは耳を疑った。そんな都合のいい話があるわけがない。自分たちは素性も心許ないアラブ人なのだ。
だから、この話には裏があるに違いないと考えたのだ。
日本人だけど、ジャパニーズマフィア?
もしかして麻薬関係?
それとも人身売買?
疑いの目でじっと見つめていたら、ヨースケに笑われた。
「僕は正真正銘、日本のテレビ局のディレクターだよ。君たちの力を貸してほしいんだ」
アラブ人にこんな言い方をする人間を、サルマは初めて見たかもしれない。
それに、何よりやっぱり彼は日本人だった。
サルマの中では、フランス人なんかよりよっぽど信頼できる人たちだ。幸か不幸か、今は無職だ。明日からの生活のアテもない。この際、この謎の日本人の申し出を受けてもいいんじゃないか。
何より兄妹で一緒に仕事ができるのだ。
どう転んでも、今より悪くなる筈はない。
***
サルマが最初に幸せだと思ったのは、
ハターミー家の経済状況を見て、彼はまず支払いを週給にしてくれた。しかも、サイード兄さんの分は月曜日に、サルマ自身の分は金曜日に払うというきめの細かさだ。
「仕事時間が不規則だから時給じゃなく日当にしてほしい」というのがヨースケの唯一の要求で、兄妹は自分たちが選べる立場にないからということでこれを受け入れた。
日当はさらに二人の度肝を抜くものだった。
一人当たり一日150ユーロ(日本円換算で約2万円)。週休二日で一ヶ月働いたとして一人当たり約40万円。兄妹で一ヶ月80万円など、今まで見たこともない金額だ。
だがヨースケに言わせると「本来ならこれでも少ないくらい」だそうだ。
日本では複数の外国語を操るだけで十分専門技能職なのだという。それに、二人とも現地に精通している。とりわけサイード兄さんはある程度ジハーディストに顔が利く。
「高い能力を持った人材に適切な報酬を支払うのは当たり前」なのだというヨースケの考え方によって、ハターミー家はまず「自尊心」を取り戻した。
ただしヨースケは、その報酬で二人に「身なりを整えること」を提案した。
人は見た目が九割なんだよ、と日本の格言みたいな言葉を教えてくれた。
ヨースケの言う通り、パリでは仕立ての良いスーツを着ているだけで取材コーディネーションが随分楽になった。
現場に行っても、かつてのように警察官に胡散臭い目で見られることもなくなった。
もっともこの頃は、二人ともヨースケの作ってくれた名刺を持っていたから、何かあったらこの名刺だけでほとんどのことはどうにかなった。
弟のマジッドにようやく車椅子を買ってやれたのも幸せなことのひとつだ。
この頃マジッドは随分明るくなった。
「俺もヨースケを手伝いたい」と言い始めたのもこの頃だ。
そんなマジッドの誕生日プレゼントに、ヨースケがノートパソコンを持ってきてくれた時、家族は心からの感謝の言葉を彼に捧げた。
みんなヨースケのことが大好きだった。
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