第60話 転職

「なるほどね……」


 石動いするぎ洋介はサイードの話に熱心に耳を傾けていた。

 もうかれこれ一時間以上は経っただろうか。ソファーに横になってポツポツと話すサイードと、その傍らで一人掛けに座って話を聞く洋介。

 彼は時々相槌を打ったり、サイードにコーヒーを勧めたりしながら、一度も遮ることなく黙って話を聞き続けていた。

 サイードは、両親と弟の話になったところで少し感情的になって言葉がつかえたが、それでも洋介は急かすことなくじっと待っていてくれた。


 気が付くと、空が白みかけていた。

 一晩中外で光っていた警察の点滅灯も、今は心なしか数が減っていて街全体が幾分落ち着いたように見える。辺り全体に、朝の静かな匂いが漂ってきたかのようだった。


「――さて」


 洋介がサイードの目をまじまじと見る。


「それで君は、この先も死ぬまでこんなことを続けるつもりなのかい?」


 サイードは沈黙するしかない。

 確かに今は感情に任せて行動していると言われても仕方がない。昨夜は何とかお茶を濁したが、この先はそういったごまかしが通用しない場面に必ず出くわすだろう。

 そうなったら本当に悪魔に魂を売り渡して、無辜の市民を殺傷することになる。

 だが……。


「だけど、俺はこういうやり方しか知らないんだ……どんなに頑張ってもアラブ人はまともな職には就けないし――」

「そのせいで将来君が本当の人殺しになってもかい?」

「仕方ないんだ! この国で、俺たちみたいな移民はまっとうな暮らしなんてできない!」


 洋介はサイードの感情が落ち着くのを辛抱強く待つ。

 そしておもむろに口を開けた。


「妹さんは、君の活動を知っているの?」

「……」


 妹のサルマは、歳をごまかして工場で働いている。そうでもしないと、半身不随になった弟の面倒を見られないのだ。兄が何をやっているかなんてきっと知らないだろうし、仮に知ったとしても何も言えないだろう。この国で自分たちは未来を描けない。それはサルマもよく知っていることだ。


 洋介がサイードに問いかけた。


「君は、何か国語が話せる?」

「……フランス語と英語、そしてアラビア語だ」


 すると洋介はにっこりと笑った。


「日本人で三か国語が操れる人は、エリートだと見做される」

「……そうなのか? 妹はそれに加えて少し……日本語が分かるよ」

「ワォ! 妹さんは日本を知っているのかい?」

「子供の頃、近所に日本人がいたんだ……だから子供が話すレベルの日本語だけどね……」


 それを聞いて洋介はパァっと明るい笑顔を見せた。


「――どうだろう、君たち兄妹、僕に雇われてみないかい?」


  ***


 石動洋介の提案は、サイードにとって夢のような話だった。


 仕事は一言でいうと「通訳」。

 フランス国内での洋介の取材に同行して通訳業務を行うのはもちろん、取材前後の各種コーディネートやアポイントメント、さまざまな申請書類の作成、提出。車の手配や飛行機、列車のチケット確保。場合によっては女性同伴必須のパーティーに同行したりする。まぁこれは妹のサルマの仕事だが。

 最初はそんな仕事が自分たちに務まるのかどうか、サイードにはまったく自信がなかった。なにせ俺たちはアラブ人だ。今までだってまともにフランス人が相手をしてくれたことなどない。虫けらを見るような目で門前払いを受けてきた人生だ。


 だが、今回は信じられないことばかりだった。

 まず流暢なフランス語でどこかの役所のアポイントを取るとする。その際、洋介のテレビ局の名前を出すと、ほとんどの相手が一も二もなく了承してくれるのだ。しかも下っ端役人ではなく、たいてい課長級以上の役付きとのアポイントが成立する。

 また別のケースでは、事件現場で警察幹部に話を聞く場面があったとする。たいていの幹部はサイードが近づくと怪訝な顔をして、立番をしている制服警官に追い払うよう顎をしゃくる。だがそんなときは、洋介から託されたテレビ局の腕章を見せるだけでいい。サイードを制止しようとした制服警官はその場で固まり、警察幹部は手の平を返すように態度が豹変する。


 それになによりサイードの自尊心を刺激したのは、洋介がアラブ人たちとの関係を深めたがっていたことだ。


 聞くと「近い将来中東か北アフリカに行く計画を立てている」ということだった。そのために洋介は、ここヨーロッパでアラブ人とのコネクションをしきりに欲しがっていたし、それが実現しないと「実際問題現地に入れないんだ」、と言っていた。


 洋介の判断はおおよそ正解だ。今中東は巨大な火薬庫だ。

 従来からの政情不安に加え、あろうことか日本とアメリカが共同声明で「今後10年以内に化石燃料からの完全脱却を実現する」とぶち上げたからだ。

 お陰で産油国の国債は大暴落し、中東各国は一気に不安定化した。

 ジャーナリズムとしては、こうした国々を取材する価値は大いに高まったわけだが、同時に欧米メディアにとっては、下手に近付くと危険極まりないという事態に陥っていたのである。

 入国するならアラブ関係の後ろ盾がないと、命の保障ができないのである。


 だからアラブ人であるサイードの存在は、洋介のテレビ局にとっても極めて大きなアドバンテージとなった。サイードが登場するだけで、アラブ人社会は洋介をキチンと受け入れてくれたのである。


 サイードとサルマが、正式に洋介のテレビ局の現地スタッフとして契約することになったのは、それから間もなくだった。

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