第5話 殺戮の宴
「軍用犬かもしれません!」
田渕が警告を発する。士郎の額に、ひんやりとした汗が拡がった。
軍用犬は獲物に容赦ない。奴らに慈悲は通じないのだ。身体能力も、敏捷性も、そして総合的な個体としての戦闘能力も、何もかもが人間より遥かに優っている、獰猛な殺戮マシーン。
兵士なら、誰でも知っていることだ。
「ひッ……」
誰かが、思わず小さな悲鳴を漏らした。
その途端。
まるでそれが合図であったかのように、獣たちが一斉に突進してきたのである。
一番前方にいた兵長が、最初の犠牲者となった。体長二メートルはあると思われたその黒い塊は、兵長の真正面数メートル手前で高く跳躍したかと思うと、凶悪な
咄嗟に兵長は銃剣の付いたライフルを横
首許にむしゃぶりついた獣の顎から赤黒い鮮血が壊れた噴水のように溢れ出し、それを支点に兵長の身体は糸の切れた人形のようにガクガクと振り回される。悲鳴すら上げられぬまま、彼の頭部は無残にも食いちぎられた。
一瞬の出来事だった。
それを皮切りに、凄惨な虐殺が始まった。先ほどの流血が、まるで獣たちにとっての
すぐ傍にいた上等兵が、獣の突進をまともにくらい、数メートルも吹き飛ばされて地面に叩きつけられた。瞬きをする暇もなく、地面に突っ伏した上等兵に二匹も三匹も獣が折り重なる。
喉を押しつぶしたような悲鳴が辺りを切り裂く。
それと相前後して、士郎も、田渕も、その場にいた誰も彼もが、あちこちで猛り狂った猛獣に襲い掛かられていた。
必死の抵抗を試みるものの、銃剣は何の役にも立たなかった。
此奴らの突進は人間の比ではない。裂帛の気合で刃を突き立てても、そのまま吹き飛ばされてしまうのだ。
この獣たちは、ただの軍用犬ではない。
だが、考える暇もなく群れは次々に飛びかかってきて、士郎はそのたびに獣の前肢に組み伏せられ、噛みつかれ、地面に叩きつけられる。
どこかでグレネードの爆発音が響く。誰かが獣を道連れに自爆したか。
もはや、誰が何処にいるのかすらまったく分からない。士郎は、さっきまで振り回していたはずのライフルが丸ごと掌から消え去っていることにようやく気付いた。
その瞬間、右側から突然獣が肩口を突き飛ばすように
引き剥がそうと滅茶苦茶に腕を振り回すと、偶然士郎の左手の親指が獣の眼球に勢いよく突き立った。
「ギャンッ」という悲鳴とともに指先に生卵が潰れるような感触が走る。
獣が
すぐ隣で、何匹もの獣たちに組み伏せられて誰かが絶叫していた。
田渕が獣の背中に突進して軍用ナイフを突き立てる。何度目かの刺突で、ようやく獣たちが身を躍らせて走り去ると、後には腹をズタズタに切り裂かれ、ピンク色の腸を無理やり引きずり出された新婚の川村軍曹が血だまりの中で白い顔を引きつらせて横たわっていた。
「軍……そ……」
川村が、澱んだ目で田渕を見上げる。
田渕は一瞬逡巡したような顔を見せ、それから黙って彼の傍にひざまずき、ナイフを喉に突き立てて楽にしてやった。
もはやこんなものは戦闘でも何でもなかった。ただの嬲り殺しだ。
名誉も、勇気も、尊厳も、誇りも、そこには何もなかった。いくら何でも、こんな死に方をするとは士郎も思っていなかった。
自分たちがどう戦い、どう死んでいったか、誰も知らないまま、獣に生きながら貪り喰われ、息絶えるとは。
いつの間にか、なんとかまだ生きている者たちが一箇所に集まって背中を合わせていた。
その周りを、残虐な悪魔があちこちで低い唸り声を上げながら幾重にも取り巻く。
「軍曹……、手榴弾の残りは?」
「一発です」
「俺もあと一発持ってます」
血塗れの
「二発で四人は無理かなぁ…」
士郎は、無理やりおどけたように答えてみせる。
「じゃあ自分は軍曹に
香坂上等兵がニヤリと笑って自分の首のところに親指を当て、横に引く仕草をする。
「んじゃ俺もです。一応クリスチャンなんで」
各務原が右手で十字を切る。
「済まんな。こんなことになって……手榴弾は俺と小隊長でありがたく使わせてもらう」
全員が顔を見合わせて、二人が目を瞑る。
田渕が、軍用ナイフを構え直してスッと右手を後ろに引いた。
――その時だった。
(次回第6話「銀髪の戦乙女」は12/2 朝8:05の更新です)
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