恋するマッドサイエンティスト

 傍らに眠る絵夢子のぬくもりが亜亞留博士を癒やし、そして苦しめる。


 絵夢子……。ワシだけの絵夢子。


 多くの男たちと恋を重ねたお前が何故ワシを愛したのか。ワシのような老人を。


 高い酒も注文せず浮世の話題もわからず科学理論ばかりを語るワシを他の酒場の女たちはあからさまに敬遠していたが、お前だけがワシの話にそしてワシ自身にも興味をしめしてくれた。


 金目当てではない。財産はすべて研究に費やし負債も抱えていることも告げていた。


 お前が付き合ってきた洗練された男たちと正反対のマッドサイエンティスト、偏屈、変わり者と呼ばれる奇妙な老人を何故か愛してくれた女。ワシの初めての女。絵夢子。


 亜亞留博士は絵夢子の無防備であまやかな肢体を陶然と見つめ体内に充満した幸福を吐き出すかのように吐息をついた。


 しかし、亜亞留博士はすぐに深刻な表情になり、狂おしくうめき爆発したように逆立つ白髪をかきむしった。


 亜亞留博士は一人しか女を知らない。絵夢子は多くの男を知っている。絵夢子の過去の男たちが憎い。嫉妬の炎が亜亞留博士を苦しめた。


 逡巡はあった。マッドサイエンティストと呼ばれていようが多少の良心もある。愛する女を傷つけるようなことは……。


 ……いや、ワシが今からやろうとすることは彼女を傷つけることではない。ちょっと加工するだけだ。


 言い聞かせるようにつぶやく。


 サイドテーブルに置かれた分厚い眼鏡をかけベッドルームの扉をそっと開く。もう亜亞留博士の表情は恋に悩む老人ではなく、普段通りのマッドサイエンティストのそれに戻っていた。





 多くのマッドサイエンティストの例に漏れず亜亞留博士もタイムマシンを研究していた。本当ならタイムマシンで過去に戻り絵夢子に近づく一人ひとりを排除し亜亞留博士と知り合うまでの彼女の純潔を守りたい。しかし、タイムマシンは未だ未完成だった。


 別のアプローチで彼女の過去の男たちを排除する必要があった。


タイムマシンがない以上、彼女の過去を変えることはできない。だが、彼女の記憶を削除することなら……。


 亜亞留博士は、タイムマシンの研究途上の副産物として、精神のタイムマシンとでも呼ぶべき機械を試作していた。


 内宇宙探査機と名付けられたその機械は、針のようないくつかの突起物が不格好に飛び出したヘルメットと、それに接続されたケーブルからなる無骨な代物だった。


 内宇宙探査機を抱え寝室に戻った博士は眠っている絵夢子に近づいた。


 探査機を絵夢子の頭部に被せ、ケーブルをノートパソコンに繋ぐ。


 画面上には絵夢子の精神世界が表示されている。無作為に様々な色彩の粒が弾け飛んだり、青黒いジェルのような物体がもぞもぞ動き回ったり、意味を解析することが不可能な抽象映像芸術のようだ。そもそも意味があるのかさえ疑わしいが。


 亜亞留博士は慎重にマウスカーソルを操作し、キーボードを叩く。無意味な映像の羅列の途中で時折、街並みや人の顔などらしきものが一瞬だけ表示されはじめる。


「内宇宙に時空の軸を組み込むことで、認識可能にするのじゃ。認識とは自他、原因と結果など時空間の座標の差を明確にすることじゃからの」


 前衛芸術のような映像が次第に具体性を持ちはじめた。絵夢子が勤めていた酒場の風景だ。


 時間軸を逆走していく。マンションの一室で絵夢子の頬を殴る男。洒落たスーツと強面の男だ。博士とは似ても似つかないタイプである。


 この男の記憶自体を消すことも不可能ではない。しかし、様々な付随する情報が共に削除されてしまうことで彼女の社会生活に支障が生じる危険もある。


 博士はキーボードを叩く。慎重に、この男に関する愛情などの感情、性的感覚の記憶のみを削除する。


 更に時間軸を逆走する。違う男が現れる。長身で爽やかな若い男。キスの仕方、情事の後のさりげない仕草などから女を扱いなれていることが見て取れた。博士とはまったく異なるタイプである。


 時間軸をずらすと彼が二股をかけていたことによる破局だと判明する。慎重に、感情と性的感覚のみを削除する。


 更に過去に遡り、次々に現れる男たち、すべてを処理し終えた博士はノートパソコンを閉じた。


 これで、彼女が今まで付き合ってきた男たちは彼女にとって感情をともにした存在ではなく、単なる情報にすぎなくなった。


 亜亞留博士はほくそ笑み、彼女からヘルメットを外す。


「絵夢子、絵夢子や」


 目覚めてくれ、ワシの可愛い絵夢子。ワシこそが彼女にとっての初めての男なのじゃ。


 博士は肩を揺さぶる。


 眠そうに目を開けた絵夢子が次第に覚醒していき、博士の顔を見て不審そうな表情を示し始めた。


「…………」


「絵夢子」


 抱きしめようとする博士を振りほどき、絵夢子は立ち上がった。


「ダメだわ。どうしてだろ。あんなにあなたのこと好きだったのに、急に無理になったの。ごめんなさい」


 絵夢子は若い女性特有の興味のない異性に向ける断固とした嫌悪の表情を向け博士を拒絶した。


「絵夢子……?」





 マッドサイエンティストの研究所をあとにした絵夢子は自問自答していた。


 なんで、あんな変なおじいさんに夢中になってたの、わたし?


 別れた過去の男、ヒロシのことをふと思い出す。容姿はありありと浮かぶが、当時の憎しみが実感できない。かわりに記憶の中にある容姿から感じる魅力が、初めてヒロシとあったときのように新鮮に彼女を揺さぶった。


 あんなにつらい思いをし憎んだたはずだったのに。あんなに暴力に怯えたはずなのに。


 たいしたことなかったのかも。


 ヒロシともう一度やりなおせるかな。


 一緒に暮したマンションに足を向ける。戻ってみよう。


 そして一瞬、さっきまで愛していた老人の姿が脳裏に浮かぶ。老人に抱かれた感触を思い出す。


 身震いした彼女は記憶を振りほどこうとするかのように駆け出した。

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