第39話

 そして、夕刻。

 俺はわざわざ制服に着替え直して登校し、屋上へと至る放課後の階段を上っていた。

 すでに美術準備室は覗いてきて先輩の不在は確認済みだったけれど、一方、その部屋ただひとつきりの椅子と中央のイーゼルがなくなっていることにも気付いていた。

 だからきっとここだろうと、俺は屋上の扉を押し開く。

 果たして、そのだだっ広いコンクリートの端の方で、小宇佐先輩はこちらへと背を向ける格好でキャンパスへと向かっていた。

 足音を忍ばせて、何を描いているのかと背後から覗き込めば、そこには変哲なく絡み合うパイプが描かれていて。

「……本当に何描いてるんですか」

「!」

 驚いたように振り向かれ、思わず見つめ合ってしまう。

「吾郎くん」「水樹です」

 素で間違えたのかは、どうにも怪しいラインだった。

 いつも通りの無感情を取り戻して。

「……また殴りに来たの」

 と。

 別にいいけどとでも言いたげな何気なさだったので呆れてしまう。

「違います」

 かと言って、もちろん謝りに来たわけでもなく。

「じゃあ何」

「……」

 罰ゲームのためです、とか馬鹿正直に言うわけにもいかなくて。

 誤魔化すように。

「先輩は先輩のお母さんがいなくなった時、死んでしまいたいと思いましたか?」

「……思わなかったわ」怪訝そうなまま。「どうして、死のうだなんて思うの」

 死んだって何にもならないじゃない、と。

「……」

 なるほどこういう辺りが人としての強度の違いなのかもしれない、なんてことを思った。

「俺は結構死にたいなって思ったんです」

「そう」

「でも死なないことにしました」

「おめでとう」

「だから好きです。付き合ってください」

「………………は?」

 そろそろ見飽きてしまったこの人の驚いたような顔に、俺はやっぱり笑いを噛み殺しながら精一杯真面目な顔で。

「好きってのは嘘で正直かなり恨んでますけど、それでも俺はこれからも姉貴がいたこの世界を生きていくために、先輩を好きになる努力を始めることにしました。だから先輩も俺から愛を奪った責任を取ってください」

「……意味がわからないのだけど」

「……その台詞、先輩にだけは言われたくないですね」

「だって……」、困惑を隠しきれずに。「でもそれは嘘なのでしょう?」

「たとえ嘘でも、それを嘘じゃなくしてしまう方法って、結構たくさんあるんですよ」

「……嘘だと否定する肉親を拒絶してみたり?」

「圧倒的なまでの画力で現実の側を捻じ曲げてしまったり。いいえ、そこまでしなくてももっと簡単です。現実って、俺たちが思っているより簡単に変えられるんですよ」

 例えば、と。

 俺は先輩に背を向けて。夕陽に焼ける校庭に向かって息をかつてないほど吸い込んで。


 水篠水樹は! 小宇佐万智が! 好きだああああああ!!!!!


 …………………………と、叫ぶ。

 そうやって俺は、生きることの馬鹿馬鹿しさを真正面から引き受けた。

 気恥ずかしさのあまり、金網を掴む両手が震えて夕陽に眩む。

 えらく気まずい沈黙の末、何となくのやけくそで下から見上げてきた生徒らに手を振ってみた。

 下校間際だったらしき一人が、この距離でもわかるほど馬鹿笑いしながら振り返してきて、その影は杖を突いていた。

「……」

 恐る恐る、押し黙り続ける背後を振り返れば、なるほど。

 ドン引きした時はこんな顔をするのか、と。

「……これで」、耳だけ赤くなって、声音は心から嫌そうに。「あなたは私のことを好きになれたの。お姉さんのことを諦めきれたの」

 くそ恥ずかしいのをあえて、視線を合わせたまま見つめ返して。

「嫌いなままですし諦めきれません。でも先輩を好きになって諦めてしまうんです。そうなれなければ、俺はきっと惨めに死んでいくだけだから」

「……また現実を歪めてしまってでも?」

「多かれ少なかれ、人は自身の手が届く範囲の現実を歪めることで、この世界を記述し他者と共有しているみたいです。それこそが、責任を持って誰かと一緒に同じ世界に生きていくということの本質なんだと思います」

「……独り善がりよ」

 気付けばその声は、怒り混じりの震えさえ帯び始めていて。

「そうかもしれません」

「恋愛ごっこがしたいなら勝手にすれば良いわ。でもそんなものに私を巻き込まないでよ」

「先輩じゃないとダメなんです。だって先輩だけが」

 俺の姉貴への愛を真正面から認めてくれたから。

「知らないわよ! 勝手に私の中に入ってこないで!!」

「嫌です、絶対に逃がしませんよ! 俺に会えないと不安になるくらい、離れていてもいつでも俺のこと思い出してしまうくらい、先輩のこと惚れさせて見せますから!」

 後ずさったのを先回りして腕を掴めば、余った片手で子気味よく頬を張られた。

「放してよ、気持ち悪い!」

「っ痛えな……、人の愛ってキモいんですよ、知らなかったんですか。知らないくせに愛は消費だなんて偉そうなこと言って、俺の姉貴を否定したんですか」

「……だから、知らないって!」

 言葉は途切れて最後まで聞こえなかった。彼女の唇はとっくに俺の唇で塞がれてしまっていたから。

「……っ死ね、レイプ魔!」

 息継ぎの一瞬の間にそんな罵倒を挟まれれば、初対面で同じことしたくせにと腹が立って。再び口元を押し付ければ鼻下を頭突きで砕かれ血が顎を滴った。

 想像しうる限り最悪の告白だった。

 お互い泣いてたし、怒鳴りあっていたし、憎みあっていた。シャツには俺の血が飛び散って、点々と赤く染まっていた。

「……絶対、あなたなんて、好きにならない」

「好きにさせて、見せます。……これは、戦うための、恋なんですから」

 夕陽もほとんど沈んでしまった屋上、イーゼルが倒れ鉛筆も散らばる真ん中で、俺たちは相変わらず掴み合ったまま。息切れしつつ暗闇の中で互いの額を突き合わせて。

「水樹くん……ひとつだけ尋ねていい」

 と、聞き慣れた抑揚のない疑問文で。

「あなたにとっての愛って何」

「……」息が整って、深くのぞき込む瞳と出会って。俺は。「ただの罰ゲームです」、と。

 彼女はほんの少しだけ笑ってくれた。

「馬鹿みたい」

 ……。すっかり暗くなってしまった屋上の片隅、今日のところは一旦帰ろうかと切り出した辺りで。見た目にもひどいこの茶番劇の締めくくりかのように、先輩の方から顔を寄せてきて。

 そして二人は、愛のないキスを薄く交わした。

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