第38話
「もう昼ご飯食べちゃった?」、と。
部屋の外から首だけで覗き込むように尋ねてきたのは、買い物袋を下げた制服姿の結菜だった。つい先ほどから降り始めた雨のせいか少し髪が濡れて。
俺はと言えばベッドの上に座り込んだまま、わざわざ扉前まで立ち上がる気にもなれず。
「午後の授業は?」
「……サボりました」
と、こちらは多少後ろめたそうな小声だった。
「皆勤賞狙ってたんじゃないの」
尋ねてみれば、少し不満げな沈黙を挟んで。
「というか水樹、とりあえずお風呂入ってきなよ」
「……そんなに臭う?」
「部屋ごと」
道理で廊下から声をかけたのか、と。
言われた通りに浴室へと向かう俺から少し距離を取ったまま、台所借りるね、と先に引っ込んでしまう。
寝不足と疲労のせいか、誰か他人の身体を動かしているかのような感覚のまま、どうにか洗髪から着衣、ドライヤーまでのプロセスを経てリビングへ赴けば、彼女が用意した昼食の献立はドライカレーらしかった。
雨音を横耳に食卓で向かい合って、いただきます、と。
「久しぶりの手料理なんだけど、どうかな」
「割りには美味いよ」
「私が逃した皆勤賞の味、する?」
「……」
存外、根に持たれてるみたい。
「小宇佐先輩が」と、唐突に。「顔腫らしたまま、うちの教室来ててね。水樹くんをよろしくって」
「……」
「ダメだよ、女の子の顔殴っちゃ」
「…………仰る通りです」
いや、それはともかく。まさかあの先輩がわざわざ結菜を尋ねるとは。
「もしかしたらあれで、結構罪悪感あるのかも」
「……結菜は、何があったか知ってるの」
「大体のところは、おばさん達から」
「……」
まさかうちの両親は、今までずっと俺の周囲全員に根回ししてたのだろうか。
「知らないけど。少なくとも私には一昨日くらい初めて電話がかかってきてね。これこれこういう事情だから、申し訳ないけどしばらく水樹が迷惑かけるかもしれないって」
「……ふーん」
「どうしてちょっといじけてるのさ」
「別に」
本当に別に。何でも勝手にすれば良いんだけどさ。
なんて風にいじけてたから聞き逃すところだった。
「しばらく私が一緒に住んであげようか?」
「……何で?」
「放っておくと水樹自殺しちゃいそうだし」
と、何気なく。
「……しないよ」、たぶん。
「そうかな。私はお兄ちゃん死んだ時、気付いたら手首切ってたよ?」
未遂だったけど、と。
衝撃の事実は初耳ながら、ある意味予想通り過ぎてあまり驚けなかった。
結菜ならそのくらいやって当然だろうな、と。
いやむしろ。
「よく今まで生きて来られたね」
「……一応訊くけど、それ嫌味じゃないんだよね」
もちろんそんなつもりはなかったけれど、確かに聞きようによってはひどい台詞だった。
「そうじゃなくて、一昨日の夜に俺は死ぬだろうって思ってたんだ」
「……絵の呪いで」
頷きを返す。
「でも死んだのは姉貴で。どうせ死ぬはずだったんだから、俺も死のうかなって思ったんだけど。どうしてか死ねなかった。けど今考えると結菜の言葉が引っかかってたせいかもしれない」
「……私の?」
「状況は同じだろ? どうしようもなく愛していた人が死んで、それでも結菜は苦しみながらこの世界にしがみついている。どうしたらあそこまで強くなれるんだろうって、それが不思議で」
結局、昨日は死ねなかったな、と。
そう言葉を途切れさせた俺の向かいで、結菜はしばらく考え込むように黙っていた。
やがてお互いドライカレーを食べ終わり、食器を洗う。コーヒーを淹れて再び食卓に付こうとする頃ようやく。
「私は強くないよ」、と。彼女はそのまま、俺の向かいではなく隣の椅子に腰掛けながら。「ううん、この世界には本当の意味で強い人なんてきっといないんだよ。弱さを自覚して隠そうとする人と、弱さを自覚しないまま強いふりをする人と、弱さに負けて死んでいく人がいるだけなんだよ」と、顔の見えない位置。
「……結菜はどれ」
「たぶん最後。やっぱりまだ死んでないだけ、だと思ってる」
「そう」
それは俺にとっても予想通りの答え。
「水樹はどう考えてるの。私達みたいな人間って死ぬべきなのかな」
「わからないな。でも少なくとも俺は死ねなかった」
「私は死んではいけないんだと思う。そう思うことに決めたの」
視線を上げれば力強い眼差しに出会う。
「失われた人が帰ってくるわけでもないのに?」
「それでもきっとね」
「……嘘になってしまうから?」あるいはそれは、あの人が他者を犠牲にしてまで絵を描き続けるのと同じように。「でもそんなのただの意地じゃないか」
「意地で何が悪いの」
「そんなことに何の意味が」「水樹は卑怯だよ」
と。結菜は我慢しきれなかったかのように激情を声に出した。
「私ずっと思ってた。水樹は卑怯だって。全然まともなくせに、頭おかしいふりして周りをないがしろにして。それで他人を傷つけながら同時に自分も傷ついてきたんだ。それで今度は自分の妄想が取り上げられたからって死ぬ死なないって、ふざけるのも大概にしてよ!」
「……仕方ないじゃないか、」冷水を浴びせかけられたかのように、頭に血が上って。「そうしなきゃ誰も姉貴を守ってくれなかった。誰も姉貴を認めてくれなかったんだ。俺、本当にあの人のことが好きだったんだよ!」
「私だって、お兄ちゃんのこと本気で好きだったよ!」
でも、と一転悲しげに。
「この世界にとっては、私達のようなちっぽけな存在の愛なんて、すごくどうでもいいことだったみたい」
だってお兄ちゃんが死んでも世界は終わらなかったもの。
「……」
あぁ、それか。と思った。
俺が姉貴を失ってからずっと覚え続けていた違和感。ようやく結菜の言わんとしていることが腑に落ちる。
「……そうか。俺は悔しいんだ」
「そうだね。きっとそう。私達の大切な人が死んだにも関わらず、平和なふりをして昨日と同じように回り続けるこの世界が、どうしても許せなくて仕方ないんだよ」
だから私は死ねなかった。
喉の詰まるような沈黙が部屋いっぱいに押し込められて、雨の打ち付ける窓が視界を灰色に歪めていた。
気付けば俺は、いつの間にか涙をこぼしていた。そんなつもりもないのに嗚咽まで漏れて、隣から伸ばされた結菜の腕に抱きしめられる。
「でも昔の私より、今の水樹の方が最悪かもしれないね」、と。「誰も君を愛していなかった。小宇佐先輩には利用されて、ユキ姉ぇすらも妄想で」
「お前にとっても、俺は代わりだったしな」
微笑んだような気配があった。
と思えば、両手で頬を挟まれ、顔を持ち上げられて。
「だから、戦わなきゃダメなんだよ。水樹」
「……戦う?」
「そうだよ、戦うための恋をしなよ」そして彼女の瞳はたぶん、力強さに満ち溢れていた。「きっとね。失われてしまった愛が、惨めに取り残された私たちをダメにしてしまうことを、私たちだけは許してはいけないんだよ。だってそうやって私たちがダメになってしまえば、それは本当に無意味だったってことになってしまうんだから」
「……でも、それでどうして恋なの?」
「だって人は一人では生きていけないもの」
「死ぬ時はみんな一人だよ」
「だからなおさら、戦って生き残らなきゃいけないんじゃん。お兄ちゃんほどは好きでもない誰かを好きになって、大した奇跡も起こらないこの世界に幸福を見出して、夢のない未来に私達自身が夢を語って実現するんだよ」
それこそが愛を失った者の果たすべき責任なんだよ、と。
「……」
もちろん馬鹿げた理屈だとは思った。
でもその馬鹿馬鹿しさをあえて引き受けることこそが、俺のような存在に許された、この世界に生き残る唯一の手段なのだとしたら、それはそれでお似合いのような気もして。他にろくな手段も浮かばないし、この世界の残酷さに抗ってみようか、なんて気分にもなってしまう。
肯定し、受け入れていくのだ。自身と世界との間にあるものごとをきちんと整理して、誤魔化して、調整して。
すべての定義をひとつずつ、語り直していこう、と。
そう決めた。
しかし。「でも具体的には何を?」と、尋ねてみれば。
「……ふふ」
と、目元だけは泣きっぱなしな結菜の口元が、何かを企むかのように緩んで。
俺の背中をはっきりと嫌な予感が伝い落ちる。
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