第37話

 最初はインターホンが鳴らされ、次にドアが数度叩かれた後、やがて鍵がかかってないことに気付いたらしく、遠慮のない足音はこちら側へと忙しく向かってきた。

「まだ死んでなかったの」、と。

 こよちゃんの第一声はそれだけだった。もちろん俺の方とて、たとえそろそろ丸一日飲まず食わずな完徹明けであろうと、彼女の顔だって出会い頭に二三発は殴ろうと決めていたけれど。

 されど憎まれ口を叩いた声音が隠しきれず安堵の響きを含んでいたから、どうしようもなく怒りを溶かされてしまって。

「死ねばいいのに」

 と呟くだけに留まれば、ベッドからはみ出した足を軽く蹴られた。

 勉強机から椅子を引き出し、こちらに向かって座る。

 ふと違和感を覚えて、そのまま首をねじって目覚まし時計を見れば、やはり時刻は朝の十時少し手前だった。

「江花さん学校は?」

「サボった」

「……」

 返事の仕方が堂に入りすぎていて、普段通り、何なら学生時代と変わりない勤務態度なのだろうなと思っていたこちらの足を軽く蹴りつつ。

「私の仕事はあんた達の治療なのよ?」、と。

 つまりお前が学校に来ないのが悪いってことだろうか。まぁそれはともかくとして。

「……治療って俺から姉貴を奪うことだったんですね」

「……」

 蹴られていたのがピタリと止まった。

 少し逡巡したような沈黙のあと。

「正直賭けだったよ。これでもし仮に、君に自殺でもされてたなら、私は医者を辞める覚悟だったし」

「辞められたところで、何の意味もないですよ」

「そりゃそうだ」

 と。面白そうにされれば、やっぱり腹は立つ。

「こんなの治療って言えるんですか」

「言えるね。少なくとも私はそう言い張るよ」

「幻想に寄りかかって生きることがそんなに悪いことなんですか」

「勘違いしなさんな、悪くはないさ。誰だって、自分の手で簡単に解体できる程度の実体なき集団の幻想に寄生しながら生きている」

 でもあんたのそれは、極めて個人的に過ぎた。

「個人的、ですか?」

「それはある種の殻だよ、自身の弱さを守るための。だけどね、その硬さで以って自身や他者を見境なく損なってしまうのなら、そんな個人的な幻想は取り除いてしまった方がマシなんだ」

「……」

 黙り込んでしまった俺へと意地悪そうに。

「夢から醒めた気分はどうかしら?」、と。

「……最悪ですね」

「でもみんなその視界で生きている」

「むしろどうしてこんな死にたいほどつまらない世界で、みんな自殺せずに生きていられるんでしょう」

「それは概ね君が悪いよ。彼らは今日この日まで、きちんと他者との繋がりを豊かに開拓し続けてきたんだ。真逆を突っ走ってきた君とは人生の厚みが違う」

「……」

「やっぱり勘違いして欲しくないのだけど、別にまた彼らのそんな生き方こそが唯一の正義だというつもりはないんだ。ただね。この世界で最も力を持つのは、どうしようもなくそういう生き方をしてきた人種なんだよ。数というのは単純に暴力だからね。ひとりの人間に与えられる力なんてのはかなりたかが知れていて、生きていく過程で必然的に支払わされるコストやリスクの全額には到底足りないようにできている」

 だから他者と協力できる人種は、より容易く人生を構築できる。

「でも俺には、きっと死ぬまでユキ姉ぇがいてくれた」

「もしかしたら、いたのかもしれない。でも実際のところは、こうして簡単にいなくなってしまう程度の存在だったんだ」

「あんたの仕業だろうが」

「……そうね」

 頷いたきり、彼女はため息を吐くだけだった。悲しそうでも、後悔したようでもなく、ただひたすらに疲れたような吐息だった。

 だから俺は、相変わらず怒鳴ることさえ出来ず、持て余した感情の行き場を見失い続けて。

「小宇佐先輩は、」大して興味もないことを尋ねてみたりする。「あのままでも良いんですか」

「……あのままって?」

「あの人も大概、俺と同レベルに異常でしょう」

「あの子はそれでも許されるのよ」

 だって才能があるもの、と。

「……」

 身も蓋もなさすぎて思わず閉口してしまう。

「限度はあるけどね。そこはおいおい正していくつもり」

 そんなことをつぶやきながら、こよちゃんは立ち上がって伸びをする。

「帰るんですか?」

「様子を見に来ただけだから」

「それって無責任なんじゃ」

「君の方がよっぽど、自分の人生に無責任じゃない」

「……」

 ぐうの音も出なかった。

 少なくとも、と。

「私はあくまであんたの鍵を開けただけだから。この部屋から出ていくかどうかは、あんた自身で決めて、背負って、歩いていくしかないのよ」

 そう言い残して呆気なく、彼女は姉貴の部屋から出て行った。

 遠ざかる足音。静寂。

 こよちゃんが去ってしまった途端、寂しさがそこかしこから湧き上がってきて、本当の意味で自身がこの世界のどこにも繋がっていないのだという事実を。

「言い忘れてたわ」

 噛み締めていたところに、あっさりと戻ってきやがる。

「……何ですか」

「これだけは伝えていいと言われてるのだけど」

「誰にです」

「あんたのご両親」

「……」

「あんたの中ではお姉ちゃん以外の肉親なんてとっくに切り捨てたつもりだろうけど、あの人達はまだ君を諦めていないみたいよ。だからこそ、この家から出ていった後も目と鼻の先に住み続けて、あんたの登下校とか買い物の様子とかたまに見守ってるって」

「…………」

「でもまだ君の前に姿を現すのは怖い、また暴力を振るわれるんじゃないかと思うと震えが止まらなくなる、ってこれは母親の方だけだけど。今は彼女がそんな状態だからまだ時間はかかるだろうけど、いつかまた一緒に暮らしたいねってこれは父親の方からの伝言」

「………………」

「別にあんたのお姉ちゃんを悪者扱いするつもりはなくて、でもそっちを本当の家族だ愛だと言うなら、せめて偽物の方にも説明責任くらい果たすべきだったんじゃないのって。これは私の感想」

 それじゃ伝えたから、と。

 こよちゃんは今度こそ本当に出ていった。

「……………………」

 もやもやと消化しきれない感情が喉の奥に絡みついていて。

 死にたさだけが相変わらずそのままだった。

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