第36話
それからの記憶はひどく曖昧だった。
どうやって帰ったのかさえ覚えていない。しかし気付けば、目の前は薄暗くとも見慣れた玄関口で、靴も脱がずにへたり込んでいた床に手を付いて立ち上がろうとすれば、貧血に眩んだ視界で景色が横転して顔をしたたかに打ち付けた。
冷え切って軋みをあげる身体に力を込めて、どうにかリビングまでたどり着き、その時ようやく日がとっくに暮れていることに気が付く。
西日が差し込み、赤く染まっていた空虚に向かって。
「ただいま」、と。
……………………。
いつも通りに、どこからも返事がなかったことだけは覚えている。
そのせいだとは思いたくないけれど、そこからまた少し時間が飛んで。いつの間にか暗がりに沈んでいた視界の中、見上げた壁時計は夜の十一時を指していた。
まだ制服さえ着替えていなくて、ふらつく足取りで廊下の奥へ。
当然のように数年前から誰も使っていなかった姉貴の部屋は、気付いてみれば何のことはない。かつての俺の部屋だった。俺が普段から寝起きしていた部屋は両親の寝室で、俺は自分に与えられた部屋を自身の妄想に明け渡していたのだった。
まぁ今となっては、心底どうでもいいことなのだけど。
…………。
それでも俺は、俺の中の姉貴がいつも座っていたベッドの端に腰掛けて、俺の中の姉貴が使っていた毛布に包まって、俺の中の姉貴の匂いを嗅いだ。
間違いなくそこには姉貴との想い出があった。
姉貴の気配だけがいつまで待っても消えてくれなかった。
しかしそういうある種の質感を持った姉貴は俺の中にしかいなかった。
だからもう、真実を否応なく自覚させられてしまった俺の目に彼女が映ることはなく、彼女の声が聞こえることもなかった。
手の込んだマスターベーションはもうおしまい、なんて言葉が脳裏を、姉貴の口調で過ぎってしまい死にたくなる。
両親が出ていった日。思い出してみればその発端さえも確か、彼らが俺の妄想を否定したことだったはずだ。
お前に姉はいないのだと。そんな女はこの世に存在しないのだと。だからこそ俺は彼らの腕を折り、あの時の姉貴は、その喜劇に過ぎる光景をもの悲しそうに眺めていたのだ。
ふと視線を上げてみる。月明かりもない暗闇の内側、静謐で息苦しいだけの孤独が俺の周囲をぐるりと取り囲んでいた。
どうしようもなく死にたかった。
姉貴のいなくなってしまった世界はあまりに窮屈で色褪せて見えた。どうしてこんな場所で何十億もの姉貴以外の人間が価値もなくうごめいているのか本気で理解できなくて、許せなかった。
「……」
しかしどういう理屈か。今すぐ死のうという気にだけはどうしてもなれなかった。
理由もわからないままに自身の指先だけを眺め続ける。何度見返しても、くだらない世界に意味もなく生き延びてしまった人殺しの両手でしかなかった。
眠れない夜はそうしてゆっくりと過ぎていって。窓から白く淡い朝陽が射し込み始めてしばらくが経った頃。
江花こよりがうちを尋ねてきた。
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