第35話

 翌朝。目が覚めて初めに思ったことはどうしてまだ生きてるのだろう、とそれだけだった。

 その日は至って普通の平日だったものだから。刻々と近づく登校時間に意味のない焦りを覚える一方で、そんなこと気にかけている場合ではないという冷静さもあって。

 ひとまずいつも通りに朝の行程をこなした。

 その間、何か途方もなく奇妙なことが起こってしまっているという感覚だけが、しつこくつきまとって。考えうる可能性としては、結局昨夜のうちに先輩の絵が完成しなかったとか、あるいはこちらが勝手に信じ切っていた彼女のオカルト自体、そもそも存在しなかったなんて可能性が真っ先に思い浮かんだけど。

「……」

 どうしてかそんな想像を信じきれずに、とうとう制服を着て鞄を持って玄関先に立つまでして、しかし当然学校に行くつもりはなかった。

 駅前まで出て、登校時間には少し早すぎるためか、比較的空いていた電車に乗り込む。

 学校前の駅を通過して、その先の住宅街で降りる。

 小宇佐先輩の家へと爪先を向ける。

 自分が今から知ってしまおうとしている真実がそら恐ろしくて仕方なかった。気を抜けば勝手に立ち止まり引き返しそうになる足を同じ方向へと向かわせるために、道端にしゃがみこんでは震える吐息混じりに立ち上がる、なんてことを幾度も繰り返した。

 やがてようやく、先輩の家にたどりつく。鳴らした呼び鈴は虚空にこだまするばかりで、そういえばもし普段通りなら、すでに彼女は家を出ているはずの時間だと思い至る。しかし昨日の今日で、あの人が真面目に授業に出ているなんて状況は想像できず、相変わらず鍵のかかっていなかった小宇佐邸へとこっそり忍び入る。

「……」

 澄み切った静けさだった。小さくお邪魔しますと声をかけながら、奥のアトリエへ。

 重い鉄扉に体重をかけて引き開けた先。

「……先輩」

 彼女はそこにいた。ただ椅子に座って、誰かの到来を待ちわびていたかのように。

 ゆっくりと俺に気付いて振り返り、珍しくも嬉しそうに。

「水樹くん」、と。

「……」

 この人には呼ばれ慣れてなくて、一瞬誰のことかわからなかったのは。初めて。

 立ち上がり、浮かれたように俺の前へと歩み寄る。

 そんな上機嫌の理由を尋ねるのも恐ろしくて。

「絵、描き終わったんですか?」

「描いたわ」

 見てくれる、と尋ねられて。返事も曖昧なうちにそのキャンパスの前まで手を引かれて。


「……………………………………何ですか、これ?」

「あなたのお姉さん」


 その通り。これは俺の姉貴だった。

 あくまでただの絵、なんて戯言ではとても片付けられなさそうなほどの。

 密度で、存在感で、情報量で。

 姉貴そのものがこの一枚のキャンバスに埋め込まれていた。

 目の前で起こっていることが何なのかを理解するのに少なからず時間を要した。

「でも……描くのは、俺の絵だって」

「一度も言ってないわよ」

「……」

 確かに思い返してみれば、彼女自身がそう口にしたことは一度もなく、勝手に殺されると思っていたのは俺の過剰な自意識だった。

 死ぬのは俺だと思っていた。

 代わりに死んだ姉貴がいた。

 その絵の中で。姉貴がどう描かれていたかについて俺は、何ひとつ語りたくない。

 ただ言えるのは。そこに描かれた目蓋が閉じられていたことは、俺にとってある種の救いだったという。それだけ。

「どうして……姉貴を殺したんですか」

「殺してなんかいない。だって」

 お姉さんって、水樹くんの妄想でしょう。

 と。

「……」

 逃げ場のない数秒が経ち、後頭部の血管が張り裂けたかのような怒りが一瞬にして脳裏を焼いた。

 何を叫んだのかも覚えていない。眩むような視界の暗転があって気付けば俺は先輩をコンクリート壁に吊るし上げていた。

「あははっ!」

 どうしてかは知りたくもないけれど彼女は笑っていた。

 嘲笑われていたのは間違いなく愚かしくも今更に憤る俺の間抜けぶりだった。

 笑うなよ、と叫びながら。生まれて初めて母親以外の女を殴った。

 鼻血を垂らしてなおケラケラと笑う。

「何が可笑しいんだよ!?」

「やっと私を犯すつもりになった?」

 もう一発殴れば逆に掴まれ引き寄せられて痛みだけの口付けを返された。

「くそっ、死ねよキ○ガイ!」

「どうして怒るの。水樹くんのおかげでやっと描けたのよ私。間違ってなかった」

 やっぱりね、愛って消費なんだよ。

「……違う」

「違わない。でも確かに水樹くんの場合、搾取の方が近かったかもね」

 と、囁かれて自問する。

 俺は姉貴を消費したのだろうか?

 俺は姉貴を搾取していたのだろうか?

 感情を堪えるために噛んだ唇が切れて血の味が口内にあふれる。

「お母さんは私の栄養になったの。だから消えてしまって当然だし、だからこそ私の絵はこの世界のどんなものとも代えられないくらい綺麗なの。だって私の愛は正真正銘の本物だったから」

「……」

「水樹くんの愛も最高だった。その純度が高ければ高いほど、私はそれを綺麗な絵に移し替えることができるみたいだから……ねぇほら見てよ。私、今すごく嬉しい。この絵はあなたが本気で自分の妄想を愛していた証拠なの」

 あと何発殴ればこの女は二度と口を効かなくなるんだろうか。

 そんなことを考えていた仄暗い頭上へ。

 この世界はとても醜いわ、と。

 急に酔いの醒めてしまったような声音が降り掛かる。諦念の瞳と目が合って、それでも口元は興奮の余韻を残した微笑みのまま。

「知ってる、水樹くん? 人間って突き詰めると結局、死ぬまで飢え続けるただの肉でしかないの。

 魂なんてない。命なんてない。言葉があって、飢餓があって、でも分け合える資源は十分じゃなくて、一方で人それぞれには優劣があって。

 だから優れた為政者たちは愛とか正義とか平等とか、耳障りの良い言葉で愚かな側を騙して自分の飢えを満たしてきたの。それが人類の歴史のすべてよ。満たして、満たし続けて、馬鹿な人たちだけがそんな誰かに押し付けられた幻想を信じて、今も騙され続けている。

 でもやっぱりそうやって借りてきた概念はまがい物でしかないから、ちょっとした外圧に晒されるだけで、簡単に揺らいで壊れてしまう。愛してくれないから愛せないなんて、そんな程度の感情、本当は愛なんて呼んじゃいけないわ」

 この世界にはきっともう、本物の愛なんてどこにもないのよ、と。

 吐き捨てるような。呪い果てるような声音で。

 でも。

「でもね、水樹くんのそれだけは違った。君は極限まで狂ってたから、自身の生活や家族が壊れるくらいの愛を、たかが妄想ひとつに注ぎ込んでしまっていた。それはたぶん、私がお母さんに抱いていた愛と同じように」

 うらやましかったな、と囁いて。彼女は唐突に糸の切れたような沈黙をねじ込んだきり、俺の瞳の奥深くを覗き続けていた。

「ユキ姉ぇは」その声はまるで俺自身のものではないかのように、掠れ震えていた。「もう戻って来ないの……?」

 どうでもいい、と言わんばかりのため息が返されて。

「最初から存在しなかったのよ」

「……やめてくれ」

 そんな正しい言葉が聞きたかったわけじゃない。

「相手が自分の妄想でない限り、あくまで彼らはいつか自身の元を離れていく誰かでしかない。最初から他人なのよ。想いは伝わらない。信頼は裏切られる。失望される。嫉妬される。見放される。それが上っ面だけを取り繕われた私たちの世界なの。どうしてあなた一人だけが、こんな地獄から逃れられると思っていたの」

「……姉貴は確かにいたんだよ」

「妄想に溺れていれば、いつか救われるとでも思っていたのかしら」

「違う……、そんなつもりは」

「食べられるだけなのよ」

 愚かな盲目さに迷い続ける弱者はみんな、私のような飢えた人間に。

 消費されるだけなのよ。

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