第32話

 その夜、姉貴は晩御飯の時間になっても部屋に戻ってくることはなかった。

 これまた改めて考えてみると不思議で、我が家にはそうそう人一人が隠れられるスペースがあるわけでもない。なのに来客のたび、煙のように消えたり現れたりを繰り返す姉貴は予言者技能のみならず忍者スキルもいつの間にか手に入れたのかもしれない、なんて。どちらにしてもまともな就職には到底繋がりそうもないのだけど。

 なんて冗談はともかく、いつ出てくるかわからないのを待っていても仕方なくて、俺は勝手に姉貴の部屋に忍び込み、一人で夕食をいただくことにした。

 あるいは最後の晩餐になるかもしれないミートソースドリアは、正直あまり味がしなかった。

 これまで散々こよちゃんや先輩から脅されていながらにして、しかし俺自身の実感はさほど湧いていないつもりだったのが、今更その恐怖が食欲に出ているのだと思えば自身の小心ぶりに少し呆れた。

 死ぬということの本質もわかっていなければ、むろん絵に閉じ込められるなんて感覚はもっと想像がつかないわけで。今日の次に明日がなく、それ以降も自身の認識さえ届かない虚無が広がっているのだと想像してみる。

 ふと気付けばたった今使ったばかりの調理器具を洗っていた。夕飯も途中なのに、いつの間にか台所まで足を運んでしまって、シンクで水に浸していたそれらを意味もなく。「……」、仕方ないので洗いきってしまう。

 ため息をつく。一度姉貴の部屋に戻り、残っていたドリアをゴミ袋に空けて、食器もまとめて洗ってしまうことにした。

 水気を拭き取った皿類をすべて棚に戻したあと。眠れなくなってしまうことを承知で、熱い珈琲を淹れ食卓に腰掛け、一息つく。

 虚空に点描を打ち続けるリビングの時計は、こちらが憂鬱になってしまうほど、普段と変わりない幅一秒を時間の濃淡沿いに刻んでいて。カチとコチの間に挟み込まれる俺の心音は、馬鹿馬鹿しいほどの不安定さがいっそ哀れなくらいだった。

 価値のない生に訪れる死は、なるほどこうまでもくだらなく穏やかなのだと一人頷けた。

 それは言う残すべきことだって欠片もない。風の歌がただ通り過ぎていくだけの虚しさだった。

 再び、ため息をひとつ。

 いい加減に寝る努力でもしようかと踵を返した辺りで。ふいに気付いて、笑ってしまう。

 そういえば今夜は、姉貴の分の夕食を作り忘れていたな、と。

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