第31話

 まさかと思いつつ適当にあしらって帰宅しようとすれば、やっぱり冗談のたぐいではなかったらしく、本当に先輩が付いてきてしまって。気付けば今この瞬間は、彼女が我が家の敷居をまたぐその時だった。

 お邪魔しますも告げずにすっと玄関口を抜けた先輩は、何が面白いのか部屋のあちこちを遠慮なく見回していた。

 見回される側の住人として微妙な居心地の悪さを感じつつ、しかし何と抗議することも思い付かないで。

「……ごゆっくり」

 と。早々に丁重なもてなしを諦めて台所へと引っ込むことにする。珈琲の準備を進めながら、そういえば先輩と同伴帰宅したせいで夕飯の買い物に行きそびれた、なんてことを思い出してしまう。

「……座らないんですか」

「座ってよかったの」

 いつもの適当さでそう尋ねながら、部屋の真ん中に棒立ちだった彼女は食卓の椅子へと腰を下ろした。

 されどそのまま、こちらが出した珈琲に手も付けずに辺りを見回し続けて。

「何か探してるんですか」

「別に……、ただ」

 あなたの育ってきた場所が知りたくて、と。

 その言葉だけを聞くなら、いかにも彼氏彼女な相手への興味と受け取れなくもないのだけど。

「絵に描くため、ですよね」

「まだ何かが足りてないの」

「……ここを背景に描くつもりなんですか?」

 場しのぎが見え透いた問いかけは当然のように無視された。

 予め想定されていた沈黙を、改めて一人で持て余していれば、唐突に彼女が立ち上がる。

「……先輩?」

 視線の先は廊下奥。

 ふらふらと何かに導かれるような彼女の足取りに、俺は不安を掻き立てられる。

「ちょっと、どこ行くんですか」

「……」

 とっさに掴んだ腕は力ない抵抗を、一応はと試みるかのように、何度か繰り返した。

 諦めて。

「あそこが見たいの」と、掴まれてない方の手で部屋側を指差す。

「……奥は姉貴がいますから」「いないわ」

 ……。いや確かに、他人の来てる今。うちの姉貴はまたうちのどこぞに隠れているのだろうとは思うけれど、そう根拠なく断言されても困ってしまう。

「あ」

 なんて。油断した隙にせっかく掴んだ腕を引き抜かれ、当の先輩はこちらを気にも掛けず奥へ。

 その足取りに迷いはなく、他の扉へと視線を向けることさえせず、ただひとつの部屋だけを真っ直ぐ目指していて。

「だから何で、姉貴のいる部屋ピンポイントで狙えるんですかって」

 常人離れした勘らしきものに若干引きつつも、再び先輩の腕を掴む。その握力から今度こそ容易に離してもらえないと悟ったのか、俺の目を覗き込むようにして。

「……よく聞いて吾郎くん」、と。

 少し気圧されつつ。「何です?」

「私は君のお姉さんが見たくてここに来たの」

「……」

 続きがあるかと待ってみても特にそれ以上の申し開きはなく。

 つまりはただゴリ押しらしかった。

「……俺は先輩を姉貴に会わせるの、かなり嫌なんですけど」

「私も嫌よ」

 何がだよ。

「というか、単に会ってみたいだけなら、せめてそう言ってくださいよ」

「見てみたいの」

 そう訂正されたけれど、そこに何の違いがあるのかはさっぱりわからない。

「どうしても会うつもりなんですか?」

「……」

 無言の視線からは梃子でも動かなさそうな肯定以外読み取れなかった。

 ため息をひとつ。

「少しここで待っていてください」

 本人に訊いてきますから、と。

 微妙に納得してなさげに、しかし彼女は頷いてくれた。

 そっと姉貴の部屋の扉を開けて内側を覗き見る。

 扉の先は案の定の無人で、カーテンの閉め切られた部屋に西日が薄く差し込んでいた。

 却って安堵したタイミングで。

「やっぱりいないじゃない」

 振り返れば、背後からの肩越しに小宇佐先輩も姉貴の部屋を覗き込んでいた。

「……」

 次からはこの人の頷きを安易に信じるまいと思いつつ。

「部屋だけでも入って見ていきますか?」

 毛先ほどの驚き混じりに見つめ返されて。

「……いいの?」

 本当は良くないけど。

「どうせ強引にでも見るんでしょう」

「……」

 一瞬の沈黙に込められた少し不満そうな響きの正体は、一体何だったのだろう。なんて思う間もなく、彼女は俺の横をすり抜けて姉貴の部屋へと足を踏み入れる。

 そこは静かな部屋だった。人一人が普段から生活している場なのだとはとても信じられないほど。

 小宇佐先輩はそんな空間の真ん中で、何ひとつも視界から取りこぼすまいとするかのように、ゆっくりと回転しながら辺りを見渡していた。

 こちらを向いた拍子に彼女の冷たい眼差しと目が合い、左から右へとただ通り過ぎていく。

「何もない部屋ね」

「……うちの姉貴は物を持たない人ですから」

 ふーん、と。

 空っぽの勉強机。空っぽの本棚。新品同然の服が詰め込まれただけのクローゼット。皺一つないシーツ。

 そんな景色を視界に収めながらの、聞き慣れたのふーんだった。

 折を見て、

「満足しましたか」、と尋ねれば。

「……」

 返事もなく、先輩はこちらと正面から向き合い。

「君は、どうして生きているの」

「……」

 そんな、真面目に訊いても仕方のなさそうな問い掛けが。

「愛を虚構して。それでも生きていくの」

「……生きますよ」

「どうして」

「虚無に殺されないためです」

 と、気付けば俺の口元はそう答えていた。

 自身の吐いた言葉の意味もわからないままに。

「それなのに、他人に殺されることには抵抗しないのね」

「……俺は、誰でもいいわけじゃないんですよ?」

 当て付けのつもりだった言葉はすげなく無視されて。

 まぁいいわ、と。

 俺を退けるように部屋から出て行って、そのまま帰るつもりのようだった。

 玄関まで見送った。

「たぶん今夜、絵を仕上げてしまうから」

「……覚悟してろってことですか」

 答えず、靴を履き終えた彼女は代わりかのように。

「お姉さんによろしく」

「……」

「またね、吾郎くん」

 と行きかけたのを、思わず。「あの、」と呼び止める。

 振り返った涼しげな横顔を少しでも歪ませてみたいなんて底意地の悪い理由で。

「俺の名前。水篠水樹って言います」

 と。

「……」わずかな沈黙、のち。「え?」

 湧き上がりそうになる笑みを噛み殺しつつ。

「先輩のよく言う吾郎くんって、すいません実は偽名だったんです」

「……………………え?」

 この人、驚きすぎるとこんな顔するんだな、と。

 やられっぱなしの意趣返しがようやく果たせて、少し可笑しかった。

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