第29話
それからしばらく、俺の周囲では至極平穏な日々が続いていた。
やがてそんな平和の理由に気付き始める頃、折よく放課後にこよちゃんとの面談が入っていたので、俺はふと尋ねてみる。
「そう言えば最近、先輩を見かけませんね」、と。
「あぁ、あの子。ずっと休んでるみたいね」
「そうなんですか?」
思い返してみれば彼女の家を訪れて以来、先輩の側からこちらを訪ねて来ることはおろか、たまに俺の方から美術準備室を覗いてみても留守であったりが続いていた。
しかしあくまで先輩と知り合う以前通りであるはずの生活リズムに、気付けば違和感さえ覚えてしまうのだから、人の慣れというのも恐ろしい。
なんてことを思っていたら。
「絵を描いてるらしいよ。君の」
「……へぇ」
ようやく描き始められたのか、と。
「あら、意外に驚かないの」
「描けない詐欺だったのかな、とは思いましたけどね」
「もちろん違うね。だから描こうともがいてるって言う方が正確か」
何事もなさそうに、彼女は自身の指先を眺めた。
その視線へと。
「ってことは俺、いよいよ本当に死んじゃうんですかね」
「……」
言葉を紡ぎつつも目を逸らさずにいたのだけれど、こよちゃんの視線は欠片ほどの動揺も漏らしはなかった。
「どうしてあんたが死ぬのよ」
「この前、先輩の家にお邪魔して来たんですよ」その質問に答えずに。「彼女の母親に会いました」、と。
マニキュアの塗られた爪から視線を外さないまま、口調だけは面白そうに。
「……それで?」
「馬鹿みたいな話ですけど、うちの姉貴がこんなこと言ってたんですよ」
小宇佐万智は生きた人間を絵に閉じ込めることができる。
「……」
「……」
しばしの沈黙のあと。ようやく彼女の口元が動いて、しかしその線は笑みをかたどった。
「……可笑しいこと言いました、俺?」
「別に」
そしてきっと、その言葉の響きは怒りに満ちていた。
「だけどそこまで確信してて、君はやっぱり逃げようとも思わないのね」
「……逃げる?」
この人も姉貴と同じことを言うのだな、と。
「多少まともな神経がある動物ならね、自身の命が危ないと感じたら逃げるでしょ普通」
「それはそうかもしれませんが」
「あんたのそういうところ。私かなり嫌いだな」、と。
「……」
率直に向けられた敵意に対して俺の反応は、愚かしくもただ戸惑うばかりだった。
「あんたはきっと、自分の身がどうなろうとどうでも良いのよね」
「そんなこと」
「ないって言い切れるかしら。周囲をそこまでボロボロに壊しといた分際で……ねぇ、気付きなよ」
あんた人生もう崖っぷちだよ?
「……」
「自分で見たんだよね? あの子の母親の成れの果てを、さ」
「……じゃあ、やっぱり本当に」
「いいや、」きっぱりと遮るように。「君の愛しのお姉ちゃんの仮説とやらが本当に正しいかなんて、私は知らない」
だけどね、と。
「このままだと壊れていくのがわかっている患者相手に、何も手を下さず傍観してられるほど、私はまだ人間辞めてないの」
あんたの姉貴と違ってね。
そう音もなく宙へと言葉を描いた口元に、俺は救いようもなく尋ねる。
「……江花さんは、一体何をしようとしているんですか?」
当然のように、答えが返されるはずもなく。
「人が他人を躊躇なく犠牲にするために、何が必要か知ってるかしら?」
「……」
その人だけにしか理解できない、自己満足の正義よ。
と。
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